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第20話 華乃の正義

――東雲華乃


 悲しみを消すたび、救えた人の名前を記録した。


 いつか顔を忘れる日が来ると、最初から知っていたからだ。


 凛香は、私を姉さんと呼ぶ。


 その呼び方を聞くたび胸が痛んだ時期がある。


 今は、痛みのあった場所だけが分かる。


 王冠館最上階の管理室で、私は結晶炉の最終工程を入力した。


 C―01、完全消去。


 C―02からC―08、表層安定化。


 午前五時四十分、同時実行。


 画面には警告が三度表示された。


 《不可逆処理です》


 《提供者本人の最終意思を確認してください》


 《保存履歴は失われます》


 全てに署名した。


 神代澪は、C―01を破棄したいと二度答えた。


 凛香は返還を望む。


 東雲雫は、本人が選び直せる日まで保管すると書いた。


 三人の意思は一致しない。


 だから管理者が決める。


 誰か一人が責任を引き受けなければ、決められないまま全員が壊れる。


 私はそれを、父から学んだ。


 父は、一族の首飾りを完成させれば家族が戻ると信じた。


 石を一つ買うたび借金が増え、借金が増えるたび「ここまで払ったのだから」と、次の石を諦められなくなった。


 誰も決めなかった。


 母は父を止められず、私は父を説得できず、凛香は何も知らなかった。


 最後に債権者が決めた。


 家を売り、首飾りを砕き、家族を別々の場所へ移した。


 決断しなかった者にも、結果は平等に届く。


 だから私は、決める側へ行った。


 十五歳で鑑定賞の記念品を売り、凛香の桃色サファイアを買った。


 十六歳で黒百合商会の前身へ入り、父の灰色債権を引き受けた。


 債権者が欲しがったのは金だけではない。


 母の研究記録。


 石の感情を読める可能性を持つ、東雲家の娘。


 私が彼らの依頼を受ける代わりに、凛香へ近づかない契約を結んだ。


 雨の日、凛香の指をコートから一本ずつ外した。


『姉さん、行かないで』


 戻りたかった。


 けれど戻れば、あの子まで連れていかれる。


 だからC―00へ預けた。


 帰りたい感情。


 妹を抱きしめたい感情。


 自分だけが家を出る恐怖。


 最初は、一晩眠れる程度だった。


 次は、危険な依頼人の前で手を震わせないため。


 その次は、母の事故報告書へ署名するため。


 もう一度は、凛香が私を憎む顔を見ても仕事を続けるため。


 少しずつ削れば、機能できた。


 機能できれば、人を守れた。


 私の最初のクレア処置依頼人は、誘拐事件から生還した女性だった。


 身代金に使われたダイヤのブレスレットを見るたび、暗い部屋の匂いを思い出し、呼吸が止まった。


 彼女は石を捨てられなかった。


 亡くなった母から譲られた唯一の品だったから。


 感情を一時移送した夜、彼女は三年ぶりに眠った。


 翌朝、私の手を握って言った。


『忘れたんじゃない。思い出さない時間を、自分で持てた』


 二人目は、娘を事故で失った母親。


 三人目は、戦地から戻った男。


 四人目は、夫の形見へ触れるたび、自分も死のうとした女性。


 鷹栖夫人は、自分の死後に夫が《黄陽》へ触れたとき、病室で抱いた恐怖まで読まれることを望まなかった。


『あの人には、最後まで強がった妻を覚えていてほしい』


 私は二度、意思を確認した。返還用の表層片を保管し、夫へは契約内容を話さないと約束した。


 彼女が亡くなったあと、鷹栖氏に詰め寄られても答えなかったのは、冷酷だからではない。死者になった瞬間、本人の選択を遺族の所有物へ変えたくなかったからだ。


 私は全員の名前を記録した。


 眠れた日数。


 食べられた食事。


 返還を希望した時期。


 返還を拒否した理由。


 悲しみを遠ざけたことで、生き延びた人がいる。


 凛香は、その事実をまだ知らない。


 いや、知り始めている。


 だから、あの子は厄介だ。


 私を悪人と決めれば、もっと簡単に戦えたはずなのに。


 私は凛香を王冠館の立会人へ入れた。


 上級通行証も、第三石の調査標本も、私が用意した。あの子を公の対立鑑定士にしておけば、久世は秘密裏に《処理》できない。世界中のカメラが、凛香の所在を証明する。


 守っていると伝えれば、凛香は従わない。だから敵として、逃げられない場所へ立たせた。


 神代澪の一時移送を許可したのも、永久破棄を止めるためだ。感情を外したあとでも同じ選択をするか確認し、最後には必ず戻した状態で署名させる。母が残した規則を、私は守るつもりだった。


 その前に、二人が返還を始めるまでは。


 石の履歴を消す依頼には、別の種類もあった。


 盗品の管理印を隠したい者。


 資金の流れを白く見せたい者。


 罪を完璧な資産へ変えたい者。


 私は依頼人の善悪を鑑定しないと公言してきた。


 その言葉の中へ、判断しなかった責任を隠したこともある。


 久世玄冬は、そこへ値段をつけた。


 彼はクレア処理を必要とする人と、悪用したい人を同じ顧客名簿へ並べた。


 私が一件断れば、正当な依頼人まで保管場所を失う仕組みにした。


 だから私は商会を大きくし、自分の管理下へ全てを置こうとした。


 間違っていたとは思わない。


 不十分だったとは、認める。


 味は、四年前から薄い。


 痛みは、昨年から遠い。


 感情を失う順番は一定ではない。最初は強すぎるものだけが静かになる。次に、似た感情の境界が曖昧になる。最後には、喜びも悲しみも同じ無音へ近づく。


 私は毎月、自己検査をした。好物、嫌悪、家族写真への反応、痛覚、色彩選好。基準を下回るたびC―00の使用を減らすべきだった。


 しかし減らせば、預けたものが一度に戻る。戻れば仕事が止まる。仕事が止まれば、保管中の感情と依頼人の安全が久世の手へ渡る。


 だから、次の一件が終わるまでと先延ばしにした。


 父の笑い声は思い出せない。


 先月、好きだった色が何か分からなくなった。


 だから服は黒にした。


 色を選べなくても、間違いにならない。


 母の顔は、写真を見れば分かる。


 丸い眼鏡。右眉の上の薄い傷。笑うと左の頬だけが上がる。


 記録としては正確だ。


 けれど目を閉じると、顔の中心に白い穴が開く。


 それでも、仕事はできる。


 鑑定結果は変わらない。


 なら、失ったものは業務上の価値を持たない。


 そう書けば、今夜も判断できる。


 管理端末へ警告が出た。


 《C―01より十八パーセントの非定常返還を検知》


 《第二受取者 東雲凛香》


 椅子から立ち上がる。


 体が先に動いた。


 凛香が、澪の負荷を自分へ入れた。


 火事の記憶。


 母の死。


 事故時の私の恐怖。


 あの子は、自分が壊れる可能性を理解していない。


 理解していても進む。


 父と同じだ。


 全部を集めれば、家族を戻せると思っている。


 だから止めなければならない。


 私はC―01を中央炉へ移送した。


 完全消去を予約し、工房の権限を封鎖する。


 凛香から着信が入った。


 出ない。


 声を聞けば、判断へ余分なものが混ざる。


 管理室の扉が開いた。


 上級通行証の認証音。


 自分で渡したカードだった。


 凛香と澪が入ってくる。


 二人とも顔色が悪く、泣いた痕がある。


 澪は乳白色結晶を外していた。


「炉を止めて」


 凛香が言う。


「拒否します」


「C―01は、澪だけの石じゃない。母さんと姉さんの感情も入ってる」


「私の分は破棄に同意します」


「母さんの分は?」


「死亡者の感情残留情報に、本人同意を取ることはできません」


「だから消す?」


「保管を続ければ、久世に利用される。あなたも追い続ける」


「姉さんは、悲しみを消してるんじゃない」


 凛香が一歩近づく。


「誰が背負うかを、一人で決めてる」


「決めなければ死ぬ人がいました」


「助かった人がいるのは分かる。でも、同じ技術で履歴を隠された石もある」


「だから公開処理へ移行する」


「公開すれば正しくなるわけじゃない。選べるのが姉さんと依頼人だけなら、石の前の持ち主は消されたまま」


「全員の合意を待つ間に、現在の持ち主が壊れても?」


「待つ方法を作るんだよ。母さんみたいに」


「母は待った結果、死にました」


 言葉が落ちたあと、澪が息をのんだ。


 凛香は逃げなかった。


「母さんは、待ったから死んだんじゃない。久世が負荷を隠して、姉さんが百へ変えて、母さんが私たちを生かす方を選んだから死んだ」


「同じです」


「違う」


「結果は変わりません」


「結果だけ同じなら、選んだ理由は価値がないの?」


 その問いが、C―00の内側へ細い亀裂を入れた気がした。


 価値はない。


 そう答えるべきだった。


 鑑定できない感情を、判断基準にしてはいけない。


 凛香の右手に、赤い痕がある。


 石から負荷を受け取ったとき、毛細血管が切れたのだろう。


 私は救急箱を取ろうとした。


 どこに置いたか分からない。


 机の左。


 記録では、そうなっている。


 視線を戻す。


 目の前に、若い女性が立っていた。


 濡れた黒髪。


 白い手袋を片方だけつけている。


 胸元にB級章。


 誰だったか、分からない。


 顧客ではない。


 協会職員でもない。


 私を、姉さんと呼んだ。


「……どちらさまでしたか」


 女性の顔から、音が消えた。


 隣の澪が私を見ている。


 数秒遅れて、記録がつながった。


 東雲凛香。


 十八歳。


 妹。


 桃色サファイアの所有者。


「凛香」


 名前を口にすると、彼女の目に涙が浮いた。


 私は間違えた。


 記憶の参照が遅れただけだ。


 疲労とC―01からの逆流が原因。


 そう分類すれば、処置できる。


 胸元のC―00を外し、管理端末へ接続した。


「何をするの」


 凛香が手を伸ばす。


「機能を維持します」


「それを使うほど、姉さんが消える!」


「今、止まる方が多くの人を危険にします」


 抑制率を、一段上げた。


 凛香の声が遠くなる。


 目の前の女性が妹だという記録は、まだ残っている。


 なら、問題はない。


 私は妹の名前を忘れないために、妹を愛していた感情を、さらに深い場所へ移した。


「“呪われた石”は本当に呪われているのか」

歴史上、持ち主を次々不幸にしたと語られる宝石は少なくありません。しかしその多くは、当時の権力闘争や強奪の歴史そのものが「呪い」という物語に変換された結果だと考えられています。石が人を不幸にしたのではなく、石を巡って人が奪い合った歴史が先にある——という順序に注目すると、伝説の読み方が少し変わってきます。

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