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硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
9/11

五十日目。


水の配給が、一日一人あたり一合に減った。


一合。約百八十ミリリットル。

人間が一日に必要な水分の、十分の一にも満たない。


霧島は配給の水を受け取った。小さな器に入っていた。飲もうとして、止めた。

午前中は持ちこたえよう、と思った。


壕の外は晴れていた。硫黄島の空は残酷なほど青かった。雨の気配がなかった。


大石が来た。顔が少し窪んでいた。頬が落ちていた。五十日でそうなった。


「霧島伍長。今日の飛行、どうしますか」


「昼の一回だけにする」


「バッテリーの問題ですか」


「お前たちの問題だ。飛ばす人間が動けなくなったら終わりだ」


大石は頷いた。異論はなかった。



*  *  *


霧島は壕の中を見回した。


兵士たちの顔が変わっていた。五十日前とは別人のようだった。

頬が落ちた。目が窪んだ。唇が乾いていた。

動きが遅くなっていた。話す声が小さくなっていた。


脱水だった。

緩やかな、しかし確実な脱水が、島全体に広がっていた。


霧島は頭を働かせた。

止められないか。

理系の頭が、自動的に問いを立てた。


水がない。

海水はある。しかし飲めない。

雨は降るかもしれない。しかしいつかわからない。

食料の中に水分はある。しかし食料自体が減っている。


ならば。


霧島は外に出た。海を見た。

波があった。魚がいるはずだった。



*  *  *


「大石」


「はい」


「漁師の倅だったな」


大石は少し驚いた顔をした。「そうですが」


「素手で魚を取れるか。あるいは即席の仕掛けで」


大石はしばらく考えた。「岩場に行けば、手づかみでも取れるかもしれません。夜の方が魚が寄ってきます」


「夜か。監視されているが——」


「海岸の岩場の陰なら、向こうからは見えにくいと思います。松明も使わなければ」


霧島は頷いた。


「もう一つ聞く。魚の水分のことだ。生で食べれば、水分が取れるか」


大石は少し考えた。「取れます。父親がよく言っていました。漁で沖に出て水が切れた時、魚の血や身の水分で凌いだと。魚の目の液体とか——」


大石は続けた。「日本人なら食べられます。生でも」


「そうだな」と霧島は言った。「刺身だと思えばいい」


大石は少し笑った。「そうですね。刺身です」


笑える余裕が、まだあった。

それだけで霧島は少し安心した。



*  *  *


霧島は西中佐に報告した。


「水の問題について、二つ提案があります」


西中佐は地図から顔を上げた。「言え」


「一つ目。夜間の岩場での採魚です。大石が経験者です。生食で水分を補える。塩分も取れます。ただし——夜間に海岸に出る危険があります」


「監視されている」

「はい。サターンで事前に監視の位置を確認して、隙間を狙います」


西中佐は少し考えた。「二つ目は」


「露の回収です。夜間から早朝にかけて、岩や植物に露が付きます。布で拭って絞る。量は少ないですが——何もないよりは」


「他には」


霧島は少し間を置いた。


「ビニールがあれば、地面に敷いて太陽熱で蒸発した水分を集められます。ただし——」


「燃料がない」西中佐は先を言った。「蒸留装置を動かす熱源がない」


「はい。ビニールで太陽熱蒸留なら燃料不要ですが、収量が極めて少ない。実用には向かない」


「スコールは」


「この季節、可能性はあります。ただし予測できない。来た時のために、あらゆる容器を準備しておくべきです」


西中佐は頷いた。


「採魚と露の回収、両方やれ。スコールの準備もしろ。サターンで夜間の監視位置を確認してから動く」


「わかりました」


「一つ言っておく、霧島」


「はい」


「お前が理系で良かった」


霧島は少し驚いた。


「他の伍長なら、水がないと嘆くだけだった。お前は解決を考えた」


霧島は何も言えなかった。

褒められ慣れていなかった。



*  *  *


その夜、霧島は暗視ポッドを使って海岸の監視位置を確認した。


画面に白い点が映った。見張りだった。

北の岩場から約二百メートル離れた位置に、二点。動いていなかった。


「大石。北の岩場、行けるか」


「行けます」


「田村、一緒に行ってくれ。大石が魚を取る間、見張りを見ておけ」


「わかりました」


二人は暗闇の中に消えた。


霧島は壕で画面を見続けた。

白い点は動かなかった。


三十分後、大石と田村が戻ってきた。


大石の手に、魚があった。

三尾。それほど大きくはなかったが、確かに魚だった。


「岩の隙間に手を突っ込んで取りました」と大石は言った。「子供の頃からやってたので」


「怪我は」


「岩で少し切りましたが、大したことないです」


霧島は大石の手を見た。指の数箇所が赤くなっていた。


「松下。処置してやれ」


「はい」


大石は魚を持ったまま言った。「どうやって食べますか」


「生で食べる。刺身だ。お前が言った通り」


大石は笑った。「醤油がないですね」


「贅沢を言うな」


それだけで笑いが起きた。

小さな笑いだったが、確かにあった。



*  *  *


魚は大石が捌いた。


道具は銃剣だった。刺身包丁ではなかった。しかし大石の手は慣れていた。


身が薄く切られた。骨に近い部分まで丁寧に取った。


「食べてください」と大石は言った。「水分は身の中にあります。よく噛んで食べれば、かなり取れます」


霧島は一切れ口に入れた。


塩っけがあった。海の味がした。

硫黄の匂いのする空気の中で、海の味がした。


「……うまいな」


思わず言った。


田村が目を丸くした。「本当ですか」


「醤油があればもっとうまい。しかしこれでも十分うまい」


松下が一切れ食べた。少し考えてから言った。「……確かにうまいです」


田村が食べた。「うまい。静岡の川魚とは違いますが」


大石は最後に食べた。噛みながら少し遠くを見た。


「父親がよく刺身を作ってくれました。もっとうまかったですが」


「そりゃそうだ」と霧島は言った。「あっちは道具も醤油もあった」


「そうですね」


大石はまた笑った。


三尾の魚は、四人で食べた。少なかった。しかし水分は確かに取れた気がした。

体が少し、軽くなった気がした。



*  *  *


翌朝、夜明け前に霧島は全員を起こした。


「露を取る。布を持て。岩と草木を拭え。一滴も無駄にするな」


暗い中、四人は壕の周囲を這い回った。


岩の表面に、薄く水滴が付いていた。布で拭った。絞った。器に落とした。


草木の葉にも水滴があった。一枚一枚、丁寧に拭った。


一時間かかった。


集まった水は、器に三分の一ほどだった。


「少ないですね」と松下が言った。


「少ない。しかしゼロじゃない」


四人で分けた。一口ずつだった。


しかし一口は一口だった。


「毎朝やる」と霧島は言った。「習慣にしろ。雨が降るまで」



*  *  *


スコールが来たのは、五十五日目の午後だった。


空が急に暗くなった。

風が変わった。

田村が最初に気づいた。「来ます。雨が来ます」


壕にあった容器が全部、外に出された。

飯盒。水筒。木箱の蓋。ビニールの切れ端。手ぬぐい。

霧島のサターンの木箱の蓋も使った。大石がためらわなかった。


雨が来た。


最初は細かった。すぐに太くなった。スコールは激しかった。


兵士たちが外に出た。口を開けて空を向く者もいた。手ぬぐいを頭に乗せて絞る者もいた。


霧島は容器を見て回った。どんどん溜まっていた。


「全部集めろ。壕の中に入れろ。一滴も零すな」


スコールは二十分で終わった。


集まった水を計った。


全員に二合ずつ配れる量があった。


二合。

配給の二倍だった。


岩崎軍曹が水を受け取った。一口飲んだ。


「……うまいな」


無口な男が言った。


霧島は笑いそうになった。

堪えた。

堪えながら、少し笑った。



*  *  *


その夜、西中佐が来た。


「今日のスコール、助かった」


「運です。次がいつ来るかわかりません」


「毎日の採魚と露の回収は続けろ。それだけで違う」


「はい。大石が上手いです。向こうの監視が薄い時間を、サターンで確認してから動いています」


西中佐は頷いた。「サターンが食料と水の確保にも役立つとは思わなかった」


「兵器じゃない使い方です」


「それでいい」と西中佐は言った。「兵器じゃない使い方が、今は一番大事だ」


霧島は少し考えてから言った。


「中佐殿。サターンを最初に見た時、自分は飛ぶための機械だと思いました。偵察して、攻撃する機械だと」


「そうだな」


「しかし今は、夜間の採魚の監視にも使っています。島の生存のために飛んでいる」


霧島は外の暗闇を見た。


「これが本来の使い方かもしれない、と思うことがあります。人を殺すためではなく、人が生きるために飛ぶ」


西中佐はしばらく黙っていた。


「それを作った人間も、そう思っていたかもしれないな」


霧島は木箱を見た。十二機のサターンが並んでいた。


作った人間。

誰が作ったのか、霧島にはわからなかった。

しかしその人間は、これで誰かを殺したかったわけではない、という気がした。

根拠はなかった。

ただそう感じた。



*  *  *


五十五日目の記録帳。


残機数:十二機。

本日飛行:一回(昼の定期偵察)。

水の状況:スコールにより二合分を確保。採魚継続中。露の回収継続中。


特記:


「水を得た。少しだが確実に。大石の知恵と体が、今日の島を救った。漁師の倅を連れてきて良かった」


「サターンは今日も飛んだ。偵察と、大石の採魚の護衛のために。これが本来の使い方かもしれない。人が生きるために飛ぶ機械」


「スコールが来た時、岩崎軍曹がうまいと言った。五十五日で初めて聞く、岩崎軍曹の感想だった」


「十二機。まだいる。まだ飛べる。今日も死ななかった」


最後の一行の下に、霧島はもう一行加えた。


「雨の味は、硫黄の匂いがしなかった」




(第九話 了)

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