水
五十日目。
水の配給が、一日一人あたり一合に減った。
一合。約百八十ミリリットル。
人間が一日に必要な水分の、十分の一にも満たない。
霧島は配給の水を受け取った。小さな器に入っていた。飲もうとして、止めた。
午前中は持ちこたえよう、と思った。
壕の外は晴れていた。硫黄島の空は残酷なほど青かった。雨の気配がなかった。
大石が来た。顔が少し窪んでいた。頬が落ちていた。五十日でそうなった。
「霧島伍長。今日の飛行、どうしますか」
「昼の一回だけにする」
「バッテリーの問題ですか」
「お前たちの問題だ。飛ばす人間が動けなくなったら終わりだ」
大石は頷いた。異論はなかった。
* * *
霧島は壕の中を見回した。
兵士たちの顔が変わっていた。五十日前とは別人のようだった。
頬が落ちた。目が窪んだ。唇が乾いていた。
動きが遅くなっていた。話す声が小さくなっていた。
脱水だった。
緩やかな、しかし確実な脱水が、島全体に広がっていた。
霧島は頭を働かせた。
止められないか。
理系の頭が、自動的に問いを立てた。
水がない。
海水はある。しかし飲めない。
雨は降るかもしれない。しかしいつかわからない。
食料の中に水分はある。しかし食料自体が減っている。
ならば。
霧島は外に出た。海を見た。
波があった。魚がいるはずだった。
* * *
「大石」
「はい」
「漁師の倅だったな」
大石は少し驚いた顔をした。「そうですが」
「素手で魚を取れるか。あるいは即席の仕掛けで」
大石はしばらく考えた。「岩場に行けば、手づかみでも取れるかもしれません。夜の方が魚が寄ってきます」
「夜か。監視されているが——」
「海岸の岩場の陰なら、向こうからは見えにくいと思います。松明も使わなければ」
霧島は頷いた。
「もう一つ聞く。魚の水分のことだ。生で食べれば、水分が取れるか」
大石は少し考えた。「取れます。父親がよく言っていました。漁で沖に出て水が切れた時、魚の血や身の水分で凌いだと。魚の目の液体とか——」
大石は続けた。「日本人なら食べられます。生でも」
「そうだな」と霧島は言った。「刺身だと思えばいい」
大石は少し笑った。「そうですね。刺身です」
笑える余裕が、まだあった。
それだけで霧島は少し安心した。
* * *
霧島は西中佐に報告した。
「水の問題について、二つ提案があります」
西中佐は地図から顔を上げた。「言え」
「一つ目。夜間の岩場での採魚です。大石が経験者です。生食で水分を補える。塩分も取れます。ただし——夜間に海岸に出る危険があります」
「監視されている」
「はい。サターンで事前に監視の位置を確認して、隙間を狙います」
西中佐は少し考えた。「二つ目は」
「露の回収です。夜間から早朝にかけて、岩や植物に露が付きます。布で拭って絞る。量は少ないですが——何もないよりは」
「他には」
霧島は少し間を置いた。
「ビニールがあれば、地面に敷いて太陽熱で蒸発した水分を集められます。ただし——」
「燃料がない」西中佐は先を言った。「蒸留装置を動かす熱源がない」
「はい。ビニールで太陽熱蒸留なら燃料不要ですが、収量が極めて少ない。実用には向かない」
「スコールは」
「この季節、可能性はあります。ただし予測できない。来た時のために、あらゆる容器を準備しておくべきです」
西中佐は頷いた。
「採魚と露の回収、両方やれ。スコールの準備もしろ。サターンで夜間の監視位置を確認してから動く」
「わかりました」
「一つ言っておく、霧島」
「はい」
「お前が理系で良かった」
霧島は少し驚いた。
「他の伍長なら、水がないと嘆くだけだった。お前は解決を考えた」
霧島は何も言えなかった。
褒められ慣れていなかった。
* * *
その夜、霧島は暗視ポッドを使って海岸の監視位置を確認した。
画面に白い点が映った。見張りだった。
北の岩場から約二百メートル離れた位置に、二点。動いていなかった。
「大石。北の岩場、行けるか」
「行けます」
「田村、一緒に行ってくれ。大石が魚を取る間、見張りを見ておけ」
「わかりました」
二人は暗闇の中に消えた。
霧島は壕で画面を見続けた。
白い点は動かなかった。
三十分後、大石と田村が戻ってきた。
大石の手に、魚があった。
三尾。それほど大きくはなかったが、確かに魚だった。
「岩の隙間に手を突っ込んで取りました」と大石は言った。「子供の頃からやってたので」
「怪我は」
「岩で少し切りましたが、大したことないです」
霧島は大石の手を見た。指の数箇所が赤くなっていた。
「松下。処置してやれ」
「はい」
大石は魚を持ったまま言った。「どうやって食べますか」
「生で食べる。刺身だ。お前が言った通り」
大石は笑った。「醤油がないですね」
「贅沢を言うな」
それだけで笑いが起きた。
小さな笑いだったが、確かにあった。
* * *
魚は大石が捌いた。
道具は銃剣だった。刺身包丁ではなかった。しかし大石の手は慣れていた。
身が薄く切られた。骨に近い部分まで丁寧に取った。
「食べてください」と大石は言った。「水分は身の中にあります。よく噛んで食べれば、かなり取れます」
霧島は一切れ口に入れた。
塩っけがあった。海の味がした。
硫黄の匂いのする空気の中で、海の味がした。
「……うまいな」
思わず言った。
田村が目を丸くした。「本当ですか」
「醤油があればもっとうまい。しかしこれでも十分うまい」
松下が一切れ食べた。少し考えてから言った。「……確かにうまいです」
田村が食べた。「うまい。静岡の川魚とは違いますが」
大石は最後に食べた。噛みながら少し遠くを見た。
「父親がよく刺身を作ってくれました。もっとうまかったですが」
「そりゃそうだ」と霧島は言った。「あっちは道具も醤油もあった」
「そうですね」
大石はまた笑った。
三尾の魚は、四人で食べた。少なかった。しかし水分は確かに取れた気がした。
体が少し、軽くなった気がした。
* * *
翌朝、夜明け前に霧島は全員を起こした。
「露を取る。布を持て。岩と草木を拭え。一滴も無駄にするな」
暗い中、四人は壕の周囲を這い回った。
岩の表面に、薄く水滴が付いていた。布で拭った。絞った。器に落とした。
草木の葉にも水滴があった。一枚一枚、丁寧に拭った。
一時間かかった。
集まった水は、器に三分の一ほどだった。
「少ないですね」と松下が言った。
「少ない。しかしゼロじゃない」
四人で分けた。一口ずつだった。
しかし一口は一口だった。
「毎朝やる」と霧島は言った。「習慣にしろ。雨が降るまで」
* * *
スコールが来たのは、五十五日目の午後だった。
空が急に暗くなった。
風が変わった。
田村が最初に気づいた。「来ます。雨が来ます」
壕にあった容器が全部、外に出された。
飯盒。水筒。木箱の蓋。ビニールの切れ端。手ぬぐい。
霧島のサターンの木箱の蓋も使った。大石がためらわなかった。
雨が来た。
最初は細かった。すぐに太くなった。スコールは激しかった。
兵士たちが外に出た。口を開けて空を向く者もいた。手ぬぐいを頭に乗せて絞る者もいた。
霧島は容器を見て回った。どんどん溜まっていた。
「全部集めろ。壕の中に入れろ。一滴も零すな」
スコールは二十分で終わった。
集まった水を計った。
全員に二合ずつ配れる量があった。
二合。
配給の二倍だった。
岩崎軍曹が水を受け取った。一口飲んだ。
「……うまいな」
無口な男が言った。
霧島は笑いそうになった。
堪えた。
堪えながら、少し笑った。
* * *
その夜、西中佐が来た。
「今日のスコール、助かった」
「運です。次がいつ来るかわかりません」
「毎日の採魚と露の回収は続けろ。それだけで違う」
「はい。大石が上手いです。向こうの監視が薄い時間を、サターンで確認してから動いています」
西中佐は頷いた。「サターンが食料と水の確保にも役立つとは思わなかった」
「兵器じゃない使い方です」
「それでいい」と西中佐は言った。「兵器じゃない使い方が、今は一番大事だ」
霧島は少し考えてから言った。
「中佐殿。サターンを最初に見た時、自分は飛ぶための機械だと思いました。偵察して、攻撃する機械だと」
「そうだな」
「しかし今は、夜間の採魚の監視にも使っています。島の生存のために飛んでいる」
霧島は外の暗闇を見た。
「これが本来の使い方かもしれない、と思うことがあります。人を殺すためではなく、人が生きるために飛ぶ」
西中佐はしばらく黙っていた。
「それを作った人間も、そう思っていたかもしれないな」
霧島は木箱を見た。十二機のサターンが並んでいた。
作った人間。
誰が作ったのか、霧島にはわからなかった。
しかしその人間は、これで誰かを殺したかったわけではない、という気がした。
根拠はなかった。
ただそう感じた。
* * *
五十五日目の記録帳。
残機数:十二機。
本日飛行:一回(昼の定期偵察)。
水の状況:スコールにより二合分を確保。採魚継続中。露の回収継続中。
特記:
「水を得た。少しだが確実に。大石の知恵と体が、今日の島を救った。漁師の倅を連れてきて良かった」
「サターンは今日も飛んだ。偵察と、大石の採魚の護衛のために。これが本来の使い方かもしれない。人が生きるために飛ぶ機械」
「スコールが来た時、岩崎軍曹がうまいと言った。五十五日で初めて聞く、岩崎軍曹の感想だった」
「十二機。まだいる。まだ飛べる。今日も死ななかった」
最後の一行の下に、霧島はもう一行加えた。
「雨の味は、硫黄の匂いがしなかった」
(第九話 了)




