表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
8/11

静寂

四十日目の朝、砲声がなかった。


霧島は目を覚まして、しばらく天井を見ていた。


おかしい。


何かが足りない気がした。

何かが——音が、足りなかった。


起き上がって、壕の入口まで歩いた。


外は明るかった。朝の光があった。硫黄の匂いがあった。

しかし砲声がなかった。


田村がすでに起きていた。入口のそばで、海の方を見ていた。


「田村。何かあったか」


「昨夜から、動きが変わっています」田村は双眼鏡を下ろした。「艦船が——減っています」


「減った?」


「南の方に移動しています。全部じゃない。半分くらいは残っています。ただ——前進してこない」


霧島は海を見た。

確かに、艦船の数が減っていた。

残った艦船は動いていなかった。

錨泊したまま、こちらを見ていた。



*  *  *


太平洋艦隊前線司令部。


ムーア大佐は地図を前に、三人の参謀と向き合っていた。


「損害の集計を読め」


参謀の一人が書類を開いた。


「硫黄島上陸作戦、四十日目現在。戦死者、予定の二倍を超過。負傷者、予定の三倍。艦船への損傷、軽微なものを含めると二十一件。うちトイプレーンに起因するものが七件」


「七件」とムーア大佐は繰り返した。「玩具に七件やられた」


「はい。レーダー施設二基の沈黙。通信アンテナ一基の倒壊。弾薬集積所の全焼——これは特に深刻で、この方面の作戦行動が十日以上制限されました。加えて、昨夜の時点でも艦上の乗員複数名が睡眠障害を訴えています」


「睡眠障害」


「トイプレーンの夜間飛行による慢性的な警戒疲弊です。音が聞こえるたびに対空配置につかなければならない。実際の攻撃がなくても、心理的消耗が蓄積しています」


ムーア大佐は腕を組んだ。


「本来の作戦目標を確認する。硫黄島占領の目的は何だ」


別の参謀が答えた。「B-29の緊急着陸基地の確保。および本土爆撃の中継・護衛拠点の整備です」


「現状は」


「B-29の損害率は、硫黄島未確保のため依然として高止まりしています。ただし——」


参謀は少し間を置いた。


「沖縄作戦のスケジュールが迫っています。主力をここに拘束し続けることは、次の作戦に影響します」


ムーア大佐は地図を見た。


硫黄島。小さな島だった。地図の上では。

しかしこの四十日間、この小さな島が太平洋艦隊の主力を釘付けにしていた。


「トイプレーンの残数は把握できているか」


「不明です。残骸の分析からは、初期に五十機前後が持ち込まれたと推定されます。現在の残数は——おそらく二十機以下かと。ただし確認手段がありません」


「二十機以下の玩具のために、主力を留め続けるか」


誰も答えなかった。


ムーア大佐は立ち上がった。


「方針を変える」



*  *  *


ムーア大佐の新方針は、三点だった。


一、硫黄島への積極的攻略作戦を停止する。

二、島を包囲監視状態に移行する。補給を断ち、時間をかけて無力化する。

三、主力艦隊を沖縄作戦のために南下させる。


「B-29の緊急着陸基地はあきらめるのですか」と若い参謀が言った。


「あきらめるのではない。後回しにする」ムーア大佐は言った。「包囲を続ければ、いずれ島は持たなくなる。食料も弾薬も尽きる。急いで攻略する必要はない」


「トイプレーンが残っている間は——」


「残っていても、補給がなければ飛ばせない。バッテリーが尽きれば終わりだ」


ムーア大佐は窓の外の海を見た。


「我々は勝っている。急ぐ必要はない。時間は我々の味方だ」


会議室に沈黙があった。


それは正しい判断だった。

合理的な判断だった。

勝っている側の、当然の判断だった。



*  *  *


西中佐から呼ばれたのは、その日の午後だった。


「敵が方針を変えた」


西中佐は静かに言った。


「積極的な攻略をやめた。包囲に切り替えた」


霧島は少しの間、その言葉を飲み込もうとした。


「包囲……補給を断つということですか」


「そうだ。急がなくていい、ということだ。向こうにとっては」


「主力は」


「南下している。沖縄方面に向かっていると思われる」


霧島は外の静寂を思った。朝から砲声がなかった理由が、今わかった。


「栗林中将は」


「状況は把握している。方針は変わらない。最後まで戦う」


「食料は」


「二ヶ月分ほどある。水が問題だ」


霧島は黙った。


包囲。

補給なし。

時間が経てば、島は自然に衰える。

向こうはそれを待つ。


「サターンは」と霧島は言った。「どう使いますか」


西中佐は霧島を見た。


「お前はどう思う」



*  *  *


霧島は記録帳を開いた。


残機数:十二機。


十二機。


攻撃に使えば、一日に三機から四機消耗する。三日で尽きる。

偵察だけなら、十機以上は帰還できる。何週間でも持つ。

しかし包囲された島で、偵察情報をどう活かすか。


攻撃目標が減った。

前進してくる部隊がいない。

叩くべき集積所も、補給が止まれば意味がない。


霧島は考えた。


十二機で、何ができるか。


答えは一つだった。


「飛び続けることです」と霧島は言った。


西中佐は待った。


「向こうは包囲して待っています。積極的に来ない。しかしそれは——サターンがまだいるからかもしれない」


「続けろ」


「攻撃はしない。爆弾も積まない。ただ飛ぶ。毎日、決まった時間に、決まったルートを。向こうに見せ続ける」


「存在を示す、ということか」


「はい。サターンが飛んでいる間は——向こうは来られない。たとえ爆弾を積んでいなくても、向こうにはわからない」


西中佐は少しの間、霧島を見ていた。


「抑止だな」


「……そういう言葉があるとは知りませんでした」


「俺も今思いついた」


西中佐は少し笑った。霧島も少し笑った。


「ただし」と霧島は続けた。「バッテリーは有限です。戦車の燃料も残り少ない。いつかサターンは飛べなくなる」


「その時は」


「……その時は、普通の兵隊になります」


西中佐は頷いた。


「わかった。お前の判断に任せる」



*  *  *


翌朝から、霧島は飛行ルーティンを組んだ。


朝六時。東側海岸の偵察。

昼十二時。北側海域の一周。

夕方五時。島の全周回。


爆弾は積まなかった。

カメラだけだった。


一機飛ばして、帰ってきたら次の機体に乗り換える。バッテリーの消耗を均等にする。大石が管理した。


初日の朝。霧島は一番機を上げた。


サターンが東側の海岸線を飛んだ。


米軍の艦船が見えた。包囲線の外に、整然と並んでいた。動いていなかった。待っていた。


その艦船の、どこかで誰かが空を見た。


見張りが双眼鏡を向けた。


「トイプレーンだ」


「また来た」


「今日も飛んでいる」


それだけでよかった。

それだけが、今のサターンにできることだった。



*  *  *


島が静かになった。


砲声が減った。銃声が減った。

戦場とは思えない静けさが、時々訪れた。


兵隊たちはその静けさを、それぞれの方法で過ごした。


岩崎軍曹は燃料の尽きた九七式の整備を続けた。動かせないとわかっていても、磨いていた。装甲を。砲塔を。


田村は地図を描いていた。硫黄島の詳細な地形図を。必要があるわけではなかった。しかし手が動いた。郵便配達の体が、道を記録することをやめられなかった。


松下は偵察映像を整理していた。三十五日分の映像記録。どの艦船がどこにいたか。どう動いたか。几帳面に分類した。


大石は毎日サターンを磨いた。使わない機体も磨いた。段ボールは磨いても綺麗にならなかった。しかし大石は毎日磨いた。


霧島は記録帳を書き続けた。


戦果ではなく、日常を書いた。

今日の天気。風向き。サターンの飛行時間。バッテリーの残量。

それから——

岩崎軍曹が今日も戦車を磨いていたこと。

田村が静岡の茶畑の地図を描いていたこと。

大石が十二機全部を並べ直していたこと。


記録帳に書くことではなかった。

しかし書いた。

この時間を、どこかに残しておきたかった。



*  *  *


ある夜、西中佐が霧島のところに来た。


珍しいことだった。いつもは霧島が行く側だった。


「邪魔か」


「いいえ」


西中佐は大石の隣に座った。大石は驚いた顔をして、少し場所を空けた。


三人でしばらく、サターンの並んだ木箱を見ていた。


「霧島」


「はい」


「ジュピターのことを話してもいいか」


霧島は少し驚いた。西中佐が馬の話をするのは初めてだった。


「もちろんです」


「ロサンゼルスで金メダルを取った時、ジュピターは俺の言葉を全部わかっていた。言葉ではなく、手綱の重さで伝えていた。ほんの少しの力加減で、ジュピターは理解した」


西中佐はサターンの並んだ木箱を見た。


「サターンも似ている。操縦器の傾きで動く。俺の意志が伝わる。生き物ではないのに——」


「伝わりますよね」と大石が言った。


西中佐は大石を見た。「そうだ」


「ジュピターは今、どこにいますか」と大石は聞いた。


「日本にいる。誰かが世話をしてくれているはずだ」


「会いたいですか」


西中佐は少し笑った。「会いたいな」


「戦争が終わったら会えますよ」


大石は当たり前のように言った。十七歳の漁師の倅が。


西中佐はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


「そうだな」とやっと言った。「会いに行こう」



*  *  *


その夜遅く、霧島は一人で木箱の前に座った。


十二機のサターンが、緩衝材に包まれて並んでいた。


霧島は一機ずつ見た。


どれも同じ形だった。同じ大きさだった。しかし霧島には、それぞれ違って見えた。


最初に飛んだ機体と同じ型。

桜花の日に陽動に使った機体と同じ型。

着弾観測で帰ってきた機体と同じ型。


同じ型なのに、霧島にはそれぞれの記憶があった。


十二機。


これで何ができるか。

これで何をすべきか。


攻撃に使えば、三日で尽きる。

飛ばし続ければ、何週間でも持つ。

しかし飛ばし続けることに、意味があるか。


霧島は少し考えた。


ある、と思った。


サターンが飛んでいる間は、向こうは来られない。

来られない間は、島の兵士たちが死なない。

死なない間は、時間がある。

時間がある間は——何かが変わるかもしれない。


計算ではなかった。

根拠のある話でもなかった。

ただそう思った。


霧島はサターンの一機に手を置いた。


段ボールの感触があった。軽かった。

しかし確かにあった。


「飛び続けろ」と霧島は言った。


誰もいない壕の中で、十二機のサターンに向かって。


「最後まで」



*  *  *


四十日目の記録帳。


残機数:十二機。

本日使用:一機(定期偵察)。

本日帰還:一機。

消耗:ゼロ。


敵状:包囲状態に移行。積極的攻撃なし。主力艦隊の一部が南下。


特記:


「島が静かになった。戦場とは思えない静けさがある。しかしこれは終わりではない。始まりでもない。ただ、静かな時間だ」


「サターンは今日も飛んだ。爆弾は積んでいない。しかし向こうは来なかった。それだけで十分だと思う」


「西中佐がジュピターに会いに行くと言った。大石が当たり前のようにそう言わせた。十七歳はたまに、必要なことを言う」


「十二機。まだいる。まだ飛べる」




(第八話 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ