静寂
四十日目の朝、砲声がなかった。
霧島は目を覚まして、しばらく天井を見ていた。
おかしい。
何かが足りない気がした。
何かが——音が、足りなかった。
起き上がって、壕の入口まで歩いた。
外は明るかった。朝の光があった。硫黄の匂いがあった。
しかし砲声がなかった。
田村がすでに起きていた。入口のそばで、海の方を見ていた。
「田村。何かあったか」
「昨夜から、動きが変わっています」田村は双眼鏡を下ろした。「艦船が——減っています」
「減った?」
「南の方に移動しています。全部じゃない。半分くらいは残っています。ただ——前進してこない」
霧島は海を見た。
確かに、艦船の数が減っていた。
残った艦船は動いていなかった。
錨泊したまま、こちらを見ていた。
* * *
太平洋艦隊前線司令部。
ムーア大佐は地図を前に、三人の参謀と向き合っていた。
「損害の集計を読め」
参謀の一人が書類を開いた。
「硫黄島上陸作戦、四十日目現在。戦死者、予定の二倍を超過。負傷者、予定の三倍。艦船への損傷、軽微なものを含めると二十一件。うちトイプレーンに起因するものが七件」
「七件」とムーア大佐は繰り返した。「玩具に七件やられた」
「はい。レーダー施設二基の沈黙。通信アンテナ一基の倒壊。弾薬集積所の全焼——これは特に深刻で、この方面の作戦行動が十日以上制限されました。加えて、昨夜の時点でも艦上の乗員複数名が睡眠障害を訴えています」
「睡眠障害」
「トイプレーンの夜間飛行による慢性的な警戒疲弊です。音が聞こえるたびに対空配置につかなければならない。実際の攻撃がなくても、心理的消耗が蓄積しています」
ムーア大佐は腕を組んだ。
「本来の作戦目標を確認する。硫黄島占領の目的は何だ」
別の参謀が答えた。「B-29の緊急着陸基地の確保。および本土爆撃の中継・護衛拠点の整備です」
「現状は」
「B-29の損害率は、硫黄島未確保のため依然として高止まりしています。ただし——」
参謀は少し間を置いた。
「沖縄作戦のスケジュールが迫っています。主力をここに拘束し続けることは、次の作戦に影響します」
ムーア大佐は地図を見た。
硫黄島。小さな島だった。地図の上では。
しかしこの四十日間、この小さな島が太平洋艦隊の主力を釘付けにしていた。
「トイプレーンの残数は把握できているか」
「不明です。残骸の分析からは、初期に五十機前後が持ち込まれたと推定されます。現在の残数は——おそらく二十機以下かと。ただし確認手段がありません」
「二十機以下の玩具のために、主力を留め続けるか」
誰も答えなかった。
ムーア大佐は立ち上がった。
「方針を変える」
* * *
ムーア大佐の新方針は、三点だった。
一、硫黄島への積極的攻略作戦を停止する。
二、島を包囲監視状態に移行する。補給を断ち、時間をかけて無力化する。
三、主力艦隊を沖縄作戦のために南下させる。
「B-29の緊急着陸基地はあきらめるのですか」と若い参謀が言った。
「あきらめるのではない。後回しにする」ムーア大佐は言った。「包囲を続ければ、いずれ島は持たなくなる。食料も弾薬も尽きる。急いで攻略する必要はない」
「トイプレーンが残っている間は——」
「残っていても、補給がなければ飛ばせない。バッテリーが尽きれば終わりだ」
ムーア大佐は窓の外の海を見た。
「我々は勝っている。急ぐ必要はない。時間は我々の味方だ」
会議室に沈黙があった。
それは正しい判断だった。
合理的な判断だった。
勝っている側の、当然の判断だった。
* * *
西中佐から呼ばれたのは、その日の午後だった。
「敵が方針を変えた」
西中佐は静かに言った。
「積極的な攻略をやめた。包囲に切り替えた」
霧島は少しの間、その言葉を飲み込もうとした。
「包囲……補給を断つということですか」
「そうだ。急がなくていい、ということだ。向こうにとっては」
「主力は」
「南下している。沖縄方面に向かっていると思われる」
霧島は外の静寂を思った。朝から砲声がなかった理由が、今わかった。
「栗林中将は」
「状況は把握している。方針は変わらない。最後まで戦う」
「食料は」
「二ヶ月分ほどある。水が問題だ」
霧島は黙った。
包囲。
補給なし。
時間が経てば、島は自然に衰える。
向こうはそれを待つ。
「サターンは」と霧島は言った。「どう使いますか」
西中佐は霧島を見た。
「お前はどう思う」
* * *
霧島は記録帳を開いた。
残機数:十二機。
十二機。
攻撃に使えば、一日に三機から四機消耗する。三日で尽きる。
偵察だけなら、十機以上は帰還できる。何週間でも持つ。
しかし包囲された島で、偵察情報をどう活かすか。
攻撃目標が減った。
前進してくる部隊がいない。
叩くべき集積所も、補給が止まれば意味がない。
霧島は考えた。
十二機で、何ができるか。
答えは一つだった。
「飛び続けることです」と霧島は言った。
西中佐は待った。
「向こうは包囲して待っています。積極的に来ない。しかしそれは——サターンがまだいるからかもしれない」
「続けろ」
「攻撃はしない。爆弾も積まない。ただ飛ぶ。毎日、決まった時間に、決まったルートを。向こうに見せ続ける」
「存在を示す、ということか」
「はい。サターンが飛んでいる間は——向こうは来られない。たとえ爆弾を積んでいなくても、向こうにはわからない」
西中佐は少しの間、霧島を見ていた。
「抑止だな」
「……そういう言葉があるとは知りませんでした」
「俺も今思いついた」
西中佐は少し笑った。霧島も少し笑った。
「ただし」と霧島は続けた。「バッテリーは有限です。戦車の燃料も残り少ない。いつかサターンは飛べなくなる」
「その時は」
「……その時は、普通の兵隊になります」
西中佐は頷いた。
「わかった。お前の判断に任せる」
* * *
翌朝から、霧島は飛行ルーティンを組んだ。
朝六時。東側海岸の偵察。
昼十二時。北側海域の一周。
夕方五時。島の全周回。
爆弾は積まなかった。
カメラだけだった。
一機飛ばして、帰ってきたら次の機体に乗り換える。バッテリーの消耗を均等にする。大石が管理した。
初日の朝。霧島は一番機を上げた。
サターンが東側の海岸線を飛んだ。
米軍の艦船が見えた。包囲線の外に、整然と並んでいた。動いていなかった。待っていた。
その艦船の、どこかで誰かが空を見た。
見張りが双眼鏡を向けた。
「トイプレーンだ」
「また来た」
「今日も飛んでいる」
それだけでよかった。
それだけが、今のサターンにできることだった。
* * *
島が静かになった。
砲声が減った。銃声が減った。
戦場とは思えない静けさが、時々訪れた。
兵隊たちはその静けさを、それぞれの方法で過ごした。
岩崎軍曹は燃料の尽きた九七式の整備を続けた。動かせないとわかっていても、磨いていた。装甲を。砲塔を。
田村は地図を描いていた。硫黄島の詳細な地形図を。必要があるわけではなかった。しかし手が動いた。郵便配達の体が、道を記録することをやめられなかった。
松下は偵察映像を整理していた。三十五日分の映像記録。どの艦船がどこにいたか。どう動いたか。几帳面に分類した。
大石は毎日サターンを磨いた。使わない機体も磨いた。段ボールは磨いても綺麗にならなかった。しかし大石は毎日磨いた。
霧島は記録帳を書き続けた。
戦果ではなく、日常を書いた。
今日の天気。風向き。サターンの飛行時間。バッテリーの残量。
それから——
岩崎軍曹が今日も戦車を磨いていたこと。
田村が静岡の茶畑の地図を描いていたこと。
大石が十二機全部を並べ直していたこと。
記録帳に書くことではなかった。
しかし書いた。
この時間を、どこかに残しておきたかった。
* * *
ある夜、西中佐が霧島のところに来た。
珍しいことだった。いつもは霧島が行く側だった。
「邪魔か」
「いいえ」
西中佐は大石の隣に座った。大石は驚いた顔をして、少し場所を空けた。
三人でしばらく、サターンの並んだ木箱を見ていた。
「霧島」
「はい」
「ジュピターのことを話してもいいか」
霧島は少し驚いた。西中佐が馬の話をするのは初めてだった。
「もちろんです」
「ロサンゼルスで金メダルを取った時、ジュピターは俺の言葉を全部わかっていた。言葉ではなく、手綱の重さで伝えていた。ほんの少しの力加減で、ジュピターは理解した」
西中佐はサターンの並んだ木箱を見た。
「サターンも似ている。操縦器の傾きで動く。俺の意志が伝わる。生き物ではないのに——」
「伝わりますよね」と大石が言った。
西中佐は大石を見た。「そうだ」
「ジュピターは今、どこにいますか」と大石は聞いた。
「日本にいる。誰かが世話をしてくれているはずだ」
「会いたいですか」
西中佐は少し笑った。「会いたいな」
「戦争が終わったら会えますよ」
大石は当たり前のように言った。十七歳の漁師の倅が。
西中佐はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「そうだな」とやっと言った。「会いに行こう」
* * *
その夜遅く、霧島は一人で木箱の前に座った。
十二機のサターンが、緩衝材に包まれて並んでいた。
霧島は一機ずつ見た。
どれも同じ形だった。同じ大きさだった。しかし霧島には、それぞれ違って見えた。
最初に飛んだ機体と同じ型。
桜花の日に陽動に使った機体と同じ型。
着弾観測で帰ってきた機体と同じ型。
同じ型なのに、霧島にはそれぞれの記憶があった。
十二機。
これで何ができるか。
これで何をすべきか。
攻撃に使えば、三日で尽きる。
飛ばし続ければ、何週間でも持つ。
しかし飛ばし続けることに、意味があるか。
霧島は少し考えた。
ある、と思った。
サターンが飛んでいる間は、向こうは来られない。
来られない間は、島の兵士たちが死なない。
死なない間は、時間がある。
時間がある間は——何かが変わるかもしれない。
計算ではなかった。
根拠のある話でもなかった。
ただそう思った。
霧島はサターンの一機に手を置いた。
段ボールの感触があった。軽かった。
しかし確かにあった。
「飛び続けろ」と霧島は言った。
誰もいない壕の中で、十二機のサターンに向かって。
「最後まで」
* * *
四十日目の記録帳。
残機数:十二機。
本日使用:一機(定期偵察)。
本日帰還:一機。
消耗:ゼロ。
敵状:包囲状態に移行。積極的攻撃なし。主力艦隊の一部が南下。
特記:
「島が静かになった。戦場とは思えない静けさがある。しかしこれは終わりではない。始まりでもない。ただ、静かな時間だ」
「サターンは今日も飛んだ。爆弾は積んでいない。しかし向こうは来なかった。それだけで十分だと思う」
「西中佐がジュピターに会いに行くと言った。大石が当たり前のようにそう言わせた。十七歳はたまに、必要なことを言う」
「十二機。まだいる。まだ飛べる」
(第八話 了)




