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硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
10/11

最後の一機

八十日目の朝、霧島は記録帳を開いた。


残機数:一機。


その数字を、しばらく見た。


一。


五十機から始まった。

四十機になった。三十機になった。二十機になった。十機になった。

そして今、一機だった。


霧島は木箱を開けた。


最後の一機が、緩衝材に包まれていた。

他の機体と同じ形だった。同じ重さだった。段ボールと軽金属でできた、頼りない翼。

しかし今は、これだけだった。


大石が来た。木箱を覗き込んだ。何も言わなかった。


しばらく二人で、最後の一機を見ていた。



*  *  *


八十日間の消耗は、緩やかだった。


包囲に切り替わってから、攻撃に使う機会は減った。

定期偵察。採魚の護衛。夜間の監視。

それでも少しずつ減った。


着地の失敗で機体が破損したものが二機。

強風に流されて海に落ちたものが一機。

カメラの不具合で偵察中に操縦不能になったものが一機。

バッテリーの完全放電で再起動しなくなったものが三機。


攻撃に使ったものは、包囲以降ゼロだった。


それでも、一機になった。


戦争は兵器を使い果たさなくても、兵器を消耗させる。

霧島はそのことを、八十日かけて学んだ。



*  *  *


霧島は西中佐に報告した。


「残り一機になりました」


西中佐は黙って聞いた。


「どうしますか」


「お前はどうしたい」


霧島は少し考えた。


「飛ばし続けます。一機でも、飛んでいる間は向こうは来ない」


「バッテリーは」


「充電すれば、あと十回から十五回は飛ばせます。一日一回の定期飛行なら、二週間持ちます」


「二週間か」


西中佐は地図を見た。


戦況は変わっていなかった。包囲は続いていた。補給は来ない。食料は残り一ヶ月分を切っていた。水は、採魚と露と時々のスコールで何とか持ちこたえていた。


「霧島。栗林中将から話がある。一緒に来い」



*  *  *


栗林中将は地図の前に座っていた。


八十日前より、顔が細くなっていた。しかし目は変わっていなかった。穏やかで、しかし何かを見透かすような目だった。


「霧島伍長。サターンが一機になったそうだな」


「はい」


「最後まで飛ばすつもりか」


「はい。飛べる間は」


栗林中将は少し頷いた。


「一つ頼みがある」


「はい」


「サターンが飛べなくなった時——コア部品を確保しろ。向こうには渡すな」


霧島は少し驚いた。栗林中将がそこまで考えていたとは思わなかった。


「……すでに、帰還した機体からコア部品を取り外して保管しています」


栗林中将は霧島を見た。


「お前は最初からそのつもりだったか」


「……戦後のために、と思っていました」


栗林中将はしばらく霧島を見た。それから静かに言った。


「生きて帰れ。コア部品と一緒に。それが命令だ」


命令、という言葉が出た。

霧島は背筋を伸ばした。


「はい」


栗林中将は地図に戻った。

それで会話は終わりだった。

しかし霧島には、それで十分だった。



*  *  *


一機になってから、飛行ルーティンを変えた。


一日一回。昼の十二時。島の全周を一周。


それだけだった。


毎日同じ時間に、同じルートを、一機が飛んだ。


米軍の見張りはそれを見た。


「今日もトイプレーンが来た」

「一機だけか」

「いつも一機だ。最近は」

「残りが少ないんじゃないか」

「かもしれない。しかし——」


見張りは双眼鏡を下ろした。


「まだいる」


それだけで、近づかなかった。

近づく命令が来るまで、待った。

命令は来なかった。


一機が飛んでいる間は、命令が来なかった。



*  *  *


ある夜、大石が霧島に言った。


「伍長。最後の一機に、名前をつけていいですか」


霧島は少し驚いた。「サターンという名前があるだろう」


「サターンはみんなの名前です。最後の一機だけの名前をつけたい」


霧島はしばらく考えた。


「つけろ。お前が決めろ」


大石は少し考えた。


「ジュピター、はどうですか」


霧島は大石を見た。


「西中佐の馬の名前だぞ」


「知っています。でも——西中佐の馬は日本にいる。こっちのジュピターは、ここで最後まで飛ぶ。同じ名前でいいと思って」


霧島はしばらく黙った。


「西中佐に聞いてみろ」


翌朝、大石は西中佐に聞いた。


西中佐は少しの間、大石を見た。

それから言った。


「いい名前だ。使え」


大石は嬉しそうに頷いた。


その日から、最後の一機はジュピターと呼ばれた。


サターンの隣の星の名前が、最初に戻ってきた。



*  *  *


九十四日目の昼。


ジュピターが定期飛行に出た。


島の東側を飛んだ。北側を飛んだ。西側を飛んだ。南側に差し掛かった時——


操縦器の画面が、チラついた。


「霧島伍長」と松下が言った。「バッテリーが——」


「わかってる。帰還させる」


霧島はジュピターを急いで島の方向に向けた。

スロットルを絞った。高度を下げた。


画面がまたチラついた。


「間に合いますか」と田村が言った。


「……ぎりぎりだ」


ジュピターが島の海岸線を越えた。内陸に入った。

着地点まであと百メートル。

五十メートル。


画面が消えた。


「大石!」


大石はすでに走っていた。画面が消えた方向に。


一分後、大石が戻ってきた。


両手でジュピターを抱えていた。

翼の端が少し折れていた。それだけだった。


「ぎりぎり着地していました」と大石は言った。「危なかった」


「機体は」


「翼の端だけです。胴体は無事です」


霧島はジュピターを受け取った。

軽かった。いつも通り軽かった。


バッテリーを確認した。完全放電していた。


「充電できるか」と田村が聞いた。


霧島は戦車の方を見た。岩崎軍曹の九七式。


「燃料が残っているか確認する」



*  *  *


岩崎軍曹は燃料計を見た。


「残り僅かだ」


「一回だけ充電できますか」


岩崎軍曹はしばらく考えた。


「できる。ただしそれで終わりだ。その後、この戦車は二度と動かない」


霧島は頷いた。「わかっています。それでもお願いします」


岩崎軍曹はエンジンをかけた。


戦車のエンジン音が響いた。八十日以上聞いてきた音だった。充電のたびに聞いた音だった。


霧島は銅線をつないだ。電圧を確認した。十二ボルト。安定していた。


バッテリーをゆっくりつないだ。

電流計の針が動いた。


充電が始まった。


三十分、二人は黙っていた。

エンジン音だけがあった。


充電が終わった。


岩崎軍曹がエンジンを切った。


静かになった。


「これで終わりだ、電気屋」


「はい。長い間、ありがとうございました」


岩崎軍曹は戦車の装甲を叩いた。

鈍い音がした。


「こいつもよく頑張った」


霧島はその言葉を聞いた。


戦車に向かって言った言葉だった。

しかし霧島には、サターンたちへの言葉にも聞こえた。



*  *  *


九十五日目の昼。


霧島はジュピターを手に持った。


充電は満タンだった。最後の充電で、満タンになっていた。


「飛ばします」


田村と松下と大石が、横に並んだ。


西中佐もいた。

栗林中将もいた。

岩崎軍曹もいた。


霧島はスロットルを上げた。


ジュピターが浮いた。

ふわり、と。

最初の日と同じように。


青い空に上がっていった。


島の東側を飛んだ。

北側を飛んだ。

西側を飛んだ。

南側を飛んだ。


米軍の見張りが双眼鏡を向けた。


「トイプレーンだ」

「今日も来た」

「……一機だけだ。いつも一機だ」


ジュピターは島の上空を、もう一周した。


霧島は画面を見た。

島が映っていた。

火山岩の黒い地面。硫黄の煙。壕の入口。

そして海。

青い海が、島を取り囲んでいた。


きれいだった。


戦場だったが、きれいだった。


ジュピターは二周した。三周した。


バッテリーが減っていった。


霧島は帰還させた。

大石が受け取った。両手で。丁寧に。


「帰ってきました」と大石は言った。


「ああ」


「バッテリーは」


「残り三割ほどだ。もう一回飛ばせる」


大石はジュピターを見た。

少し折れた翼を。段ボールの胴体を。


「飛ばさなくていいんじゃないですか」


霧島は大石を見た。


「サターンは全部飛んだ。最後のこいつは、ただここにいてもいいんじゃないですか」


霧島はジュピターを見た。


「死なせなくていいと思って」


大石の言葉が、静かに落ちた。


霧島はしばらく考えた。


「……そうだな」


「そうですよね」


大石はジュピターを木箱に戻した。

蓋を閉めた。


それで決まった。

言葉はそれだけだった。



*  *  *


百十四日目の夜。


通信が入った。


霧島には内容を知る立場になかった。しかし壕の中の空気が変わったのはわかった。


西中佐が来た。


「霧島。栗林中将から全員に伝達がある」


集まった。特務飛行隊の四人。岩崎軍曹とその部下たち。島に残った全員が。


栗林中将の声は静かだった。


長い話ではなかった。


終わった、という言葉が最後にあった。


誰も声を上げなかった。

誰も泣かなかった。

ただ静かだった。


霧島は木箱を見た。

ジュピターが、蓋の中にいた。


明日、やることがある。

まだ終わっていないことがある。



*  *  *


夜明け前、霧島は工具を取り出した。


大石が隣にいた。田村と松下も起きていた。


霧島は木箱を開けた。


ジュピターを取り出した。


ドライバーを当てた。丁寧に。急がずに。


制御基板を外した。

小型モーターを外した。

カメラモジュールを外した。

バッテリーを外した。


一つずつ、布に包んだ。

小さな木箱に入れた。

蓋を閉めた。


残った機体は、段ボールと軽金属だけになった。


霧島はその機体を手に持った。

軽かった。さらに軽くなっていた。

中身がなかった。


「燃やします」と霧島は言った。


大石が火をつけた。霧島が頼む前に。


段ボールはよく燃えた。

呆気ないほど簡単に、ジュピターは灰になった。


煙が空に上がった。


朝の光の中で、煙は細く、まっすぐ上に伸びた。


田村が空を見た。「きれいですね」


「そうだな」と霧島は言った。


松下が「煙が風に流れています。北の方に」と言った。


「そうだな」


大石は何も言わなかった。煙を見ていた。

長い間、見ていた。



*  *  *


霧島は記録帳を開いた。最後のページに書いた。


「百十五日目。終戦。


サターン、全機消耗または燃焼。残機ゼロ。

ジュピター、コア部品を回収。機体を燃焼。

コア部品、保管済み。


サターンは飛んだ。最初の日から最後の日まで。

攻撃したこともあった。観測したこともあった。採魚の護衛をしたこともあった。ただ飛んでいたこともあった。


どれが本当の使い方だったか、今もわからない。

ただ、飛んでいる間は誰かが死ななかった。

それだけは確かだ。


大石、田村、松下、全員生きている。

西中佐、生きている。

岩崎軍曹、生きている。

栗林中将、生きている。


コア部品は腹巻の下にある。重い。しかし確かにある。

生きて帰る理由として、十分な重さだ。」


霧島は記録帳を閉じた。


外が明るくなっていた。

硫黄の匂いがした。

砲声はなかった。

空に何も飛んでいなかった。


まだ。




(第十話 了)

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