最後の一機
八十日目の朝、霧島は記録帳を開いた。
残機数:一機。
その数字を、しばらく見た。
一。
五十機から始まった。
四十機になった。三十機になった。二十機になった。十機になった。
そして今、一機だった。
霧島は木箱を開けた。
最後の一機が、緩衝材に包まれていた。
他の機体と同じ形だった。同じ重さだった。段ボールと軽金属でできた、頼りない翼。
しかし今は、これだけだった。
大石が来た。木箱を覗き込んだ。何も言わなかった。
しばらく二人で、最後の一機を見ていた。
* * *
八十日間の消耗は、緩やかだった。
包囲に切り替わってから、攻撃に使う機会は減った。
定期偵察。採魚の護衛。夜間の監視。
それでも少しずつ減った。
着地の失敗で機体が破損したものが二機。
強風に流されて海に落ちたものが一機。
カメラの不具合で偵察中に操縦不能になったものが一機。
バッテリーの完全放電で再起動しなくなったものが三機。
攻撃に使ったものは、包囲以降ゼロだった。
それでも、一機になった。
戦争は兵器を使い果たさなくても、兵器を消耗させる。
霧島はそのことを、八十日かけて学んだ。
* * *
霧島は西中佐に報告した。
「残り一機になりました」
西中佐は黙って聞いた。
「どうしますか」
「お前はどうしたい」
霧島は少し考えた。
「飛ばし続けます。一機でも、飛んでいる間は向こうは来ない」
「バッテリーは」
「充電すれば、あと十回から十五回は飛ばせます。一日一回の定期飛行なら、二週間持ちます」
「二週間か」
西中佐は地図を見た。
戦況は変わっていなかった。包囲は続いていた。補給は来ない。食料は残り一ヶ月分を切っていた。水は、採魚と露と時々のスコールで何とか持ちこたえていた。
「霧島。栗林中将から話がある。一緒に来い」
* * *
栗林中将は地図の前に座っていた。
八十日前より、顔が細くなっていた。しかし目は変わっていなかった。穏やかで、しかし何かを見透かすような目だった。
「霧島伍長。サターンが一機になったそうだな」
「はい」
「最後まで飛ばすつもりか」
「はい。飛べる間は」
栗林中将は少し頷いた。
「一つ頼みがある」
「はい」
「サターンが飛べなくなった時——コア部品を確保しろ。向こうには渡すな」
霧島は少し驚いた。栗林中将がそこまで考えていたとは思わなかった。
「……すでに、帰還した機体からコア部品を取り外して保管しています」
栗林中将は霧島を見た。
「お前は最初からそのつもりだったか」
「……戦後のために、と思っていました」
栗林中将はしばらく霧島を見た。それから静かに言った。
「生きて帰れ。コア部品と一緒に。それが命令だ」
命令、という言葉が出た。
霧島は背筋を伸ばした。
「はい」
栗林中将は地図に戻った。
それで会話は終わりだった。
しかし霧島には、それで十分だった。
* * *
一機になってから、飛行ルーティンを変えた。
一日一回。昼の十二時。島の全周を一周。
それだけだった。
毎日同じ時間に、同じルートを、一機が飛んだ。
米軍の見張りはそれを見た。
「今日もトイプレーンが来た」
「一機だけか」
「いつも一機だ。最近は」
「残りが少ないんじゃないか」
「かもしれない。しかし——」
見張りは双眼鏡を下ろした。
「まだいる」
それだけで、近づかなかった。
近づく命令が来るまで、待った。
命令は来なかった。
一機が飛んでいる間は、命令が来なかった。
* * *
ある夜、大石が霧島に言った。
「伍長。最後の一機に、名前をつけていいですか」
霧島は少し驚いた。「サターンという名前があるだろう」
「サターンはみんなの名前です。最後の一機だけの名前をつけたい」
霧島はしばらく考えた。
「つけろ。お前が決めろ」
大石は少し考えた。
「ジュピター、はどうですか」
霧島は大石を見た。
「西中佐の馬の名前だぞ」
「知っています。でも——西中佐の馬は日本にいる。こっちのジュピターは、ここで最後まで飛ぶ。同じ名前でいいと思って」
霧島はしばらく黙った。
「西中佐に聞いてみろ」
翌朝、大石は西中佐に聞いた。
西中佐は少しの間、大石を見た。
それから言った。
「いい名前だ。使え」
大石は嬉しそうに頷いた。
その日から、最後の一機はジュピターと呼ばれた。
サターンの隣の星の名前が、最初に戻ってきた。
* * *
九十四日目の昼。
ジュピターが定期飛行に出た。
島の東側を飛んだ。北側を飛んだ。西側を飛んだ。南側に差し掛かった時——
操縦器の画面が、チラついた。
「霧島伍長」と松下が言った。「バッテリーが——」
「わかってる。帰還させる」
霧島はジュピターを急いで島の方向に向けた。
スロットルを絞った。高度を下げた。
画面がまたチラついた。
「間に合いますか」と田村が言った。
「……ぎりぎりだ」
ジュピターが島の海岸線を越えた。内陸に入った。
着地点まであと百メートル。
五十メートル。
画面が消えた。
「大石!」
大石はすでに走っていた。画面が消えた方向に。
一分後、大石が戻ってきた。
両手でジュピターを抱えていた。
翼の端が少し折れていた。それだけだった。
「ぎりぎり着地していました」と大石は言った。「危なかった」
「機体は」
「翼の端だけです。胴体は無事です」
霧島はジュピターを受け取った。
軽かった。いつも通り軽かった。
バッテリーを確認した。完全放電していた。
「充電できるか」と田村が聞いた。
霧島は戦車の方を見た。岩崎軍曹の九七式。
「燃料が残っているか確認する」
* * *
岩崎軍曹は燃料計を見た。
「残り僅かだ」
「一回だけ充電できますか」
岩崎軍曹はしばらく考えた。
「できる。ただしそれで終わりだ。その後、この戦車は二度と動かない」
霧島は頷いた。「わかっています。それでもお願いします」
岩崎軍曹はエンジンをかけた。
戦車のエンジン音が響いた。八十日以上聞いてきた音だった。充電のたびに聞いた音だった。
霧島は銅線をつないだ。電圧を確認した。十二ボルト。安定していた。
バッテリーをゆっくりつないだ。
電流計の針が動いた。
充電が始まった。
三十分、二人は黙っていた。
エンジン音だけがあった。
充電が終わった。
岩崎軍曹がエンジンを切った。
静かになった。
「これで終わりだ、電気屋」
「はい。長い間、ありがとうございました」
岩崎軍曹は戦車の装甲を叩いた。
鈍い音がした。
「こいつもよく頑張った」
霧島はその言葉を聞いた。
戦車に向かって言った言葉だった。
しかし霧島には、サターンたちへの言葉にも聞こえた。
* * *
九十五日目の昼。
霧島はジュピターを手に持った。
充電は満タンだった。最後の充電で、満タンになっていた。
「飛ばします」
田村と松下と大石が、横に並んだ。
西中佐もいた。
栗林中将もいた。
岩崎軍曹もいた。
霧島はスロットルを上げた。
ジュピターが浮いた。
ふわり、と。
最初の日と同じように。
青い空に上がっていった。
島の東側を飛んだ。
北側を飛んだ。
西側を飛んだ。
南側を飛んだ。
米軍の見張りが双眼鏡を向けた。
「トイプレーンだ」
「今日も来た」
「……一機だけだ。いつも一機だ」
ジュピターは島の上空を、もう一周した。
霧島は画面を見た。
島が映っていた。
火山岩の黒い地面。硫黄の煙。壕の入口。
そして海。
青い海が、島を取り囲んでいた。
きれいだった。
戦場だったが、きれいだった。
ジュピターは二周した。三周した。
バッテリーが減っていった。
霧島は帰還させた。
大石が受け取った。両手で。丁寧に。
「帰ってきました」と大石は言った。
「ああ」
「バッテリーは」
「残り三割ほどだ。もう一回飛ばせる」
大石はジュピターを見た。
少し折れた翼を。段ボールの胴体を。
「飛ばさなくていいんじゃないですか」
霧島は大石を見た。
「サターンは全部飛んだ。最後のこいつは、ただここにいてもいいんじゃないですか」
霧島はジュピターを見た。
「死なせなくていいと思って」
大石の言葉が、静かに落ちた。
霧島はしばらく考えた。
「……そうだな」
「そうですよね」
大石はジュピターを木箱に戻した。
蓋を閉めた。
それで決まった。
言葉はそれだけだった。
* * *
百十四日目の夜。
通信が入った。
霧島には内容を知る立場になかった。しかし壕の中の空気が変わったのはわかった。
西中佐が来た。
「霧島。栗林中将から全員に伝達がある」
集まった。特務飛行隊の四人。岩崎軍曹とその部下たち。島に残った全員が。
栗林中将の声は静かだった。
長い話ではなかった。
終わった、という言葉が最後にあった。
誰も声を上げなかった。
誰も泣かなかった。
ただ静かだった。
霧島は木箱を見た。
ジュピターが、蓋の中にいた。
明日、やることがある。
まだ終わっていないことがある。
* * *
夜明け前、霧島は工具を取り出した。
大石が隣にいた。田村と松下も起きていた。
霧島は木箱を開けた。
ジュピターを取り出した。
ドライバーを当てた。丁寧に。急がずに。
制御基板を外した。
小型モーターを外した。
カメラモジュールを外した。
バッテリーを外した。
一つずつ、布に包んだ。
小さな木箱に入れた。
蓋を閉めた。
残った機体は、段ボールと軽金属だけになった。
霧島はその機体を手に持った。
軽かった。さらに軽くなっていた。
中身がなかった。
「燃やします」と霧島は言った。
大石が火をつけた。霧島が頼む前に。
段ボールはよく燃えた。
呆気ないほど簡単に、ジュピターは灰になった。
煙が空に上がった。
朝の光の中で、煙は細く、まっすぐ上に伸びた。
田村が空を見た。「きれいですね」
「そうだな」と霧島は言った。
松下が「煙が風に流れています。北の方に」と言った。
「そうだな」
大石は何も言わなかった。煙を見ていた。
長い間、見ていた。
* * *
霧島は記録帳を開いた。最後のページに書いた。
「百十五日目。終戦。
サターン、全機消耗または燃焼。残機ゼロ。
ジュピター、コア部品を回収。機体を燃焼。
コア部品、保管済み。
サターンは飛んだ。最初の日から最後の日まで。
攻撃したこともあった。観測したこともあった。採魚の護衛をしたこともあった。ただ飛んでいたこともあった。
どれが本当の使い方だったか、今もわからない。
ただ、飛んでいる間は誰かが死ななかった。
それだけは確かだ。
大石、田村、松下、全員生きている。
西中佐、生きている。
岩崎軍曹、生きている。
栗林中将、生きている。
コア部品は腹巻の下にある。重い。しかし確かにある。
生きて帰る理由として、十分な重さだ。」
霧島は記録帳を閉じた。
外が明るくなっていた。
硫黄の匂いがした。
砲声はなかった。
空に何も飛んでいなかった。
まだ。
(第十話 了)




