最終話 この船で
百十五日目。
連合軍が島に入ってくる日だった。
霧島は壕の入口に立って、海を見た。
上陸用舟艇が来ていた。
白旗を掲げた艇だった。
撃つためではなく、受け取るために来た艇だった。
青い空だった。
硫黄の匂いがした。
砲声はなかった。
百十五日間で、これほど静かな朝は初めてだった。
* * *
栗林中将と、米軍の将校が向き合った。
霧島はその場にいなかった。しかし後から西中佐に聞いた。
米軍の将校は、栗林中将の顔を見た時、少し驚いた顔をしたという。
百十五日間、この島を守り切った指揮官の顔を。
痩せていた。しかし立っていた。
目が、生きていた。
「よく戦われた」と将校は言った。
栗林中将は答えなかった。
しかし頷いた、と西中佐は言った。
握手があった。
それだけだった。
言葉はそれだけで十分だった。
* * *
摺鉢山に、星条旗は立たなかった。
米軍は旗を持ってきていた。しかし将校は命令しなかった。
後になって、その将校がなぜ命令しなかったのかを問われた時、こう答えたという。
「あの島に旗を立てる気になれなかった。理由は言えない。ただ、そういう気持ちになれなかった」
霧島はその話を、ずっと後になって聞いた。
旗が立たなかった理由は、おそらく誰にもわからなかった。
しかし霧島には、少しだけわかる気がした。
百十五日間、この島は負けなかった。
陥落しなかった。
最後まで、何かが飛んでいた。
旗を立てる場所ではなかった。
そういうことだったかもしれない。
* * *
霧島は壕の中を片付けた。
木箱は空だった。サターンたちが使っていた緩衝材だけが残っていた。
記録帳を手に取った。百十五日分の記録が入っていた。
分厚くなっていた。最初は薄い帳面だったのに。
操縦器が三組あった。一組は田村が落として壊したもの。一組は使い続けて接触が悪くなったもの。一組はまだ動いた。
暗視ポッドが二基あった。赤外線ポッドが一基あった。
コア部品の入った小さな木箱があった。
霧島は小さな木箱を手に取った。
重かった。
この重さを、持って帰る。
腹巻に入れた。
肌に触れた。冷たかった。
しかし確かにあった。
* * *
壕の外に出た時、米軍の兵士と目が合った。
若い兵士だった。霧島と同じくらいの年齢に見えた。
兵士は霧島を見た。霧島は兵士を見た。
銃は下ろしていた。戦争は終わっていた。
兵士が何か言った。英語だった。霧島には全部はわからなかった。
しかし一つだけ聞き取れた言葉があった。
「Saturn」
霧島は少し驚いた。
兵士は空を指した。それから霧島を指した。
お前がトイプレーンを飛ばしていたのか、と聞いているのだとわかった。
霧島は少し考えた。
頷いた。
兵士は何かを言った。
笑っていた。怒ってはいなかった。
霧島にはその言葉の意味がわからなかった。
しかし兵士の顔は、敵の顔ではなかった。
疲れた顔だった。
百十五日間、眠れなかった人間の顔だった。
霧島は少し頭を下げた。
兵士も少し頭を下げた。
それだけだった。
* * *
出発の前に、霧島は岩崎軍曹を探した。
九七式の横にいた。最後まで、戦車の横にいた。
「岩崎軍曹」
「なんだ」
「長い間、ありがとうございました」
岩崎軍曹は霧島を見た。それから戦車を見た。
「こいつはどうなるんだろうな」
「向こうが持っていくかもしれません。調査するために」
「そうか」
岩崎軍曹は装甲を手で撫でた。ゆっくりと。
「電気屋。お前の玩具は、全部燃やしたか」
「機体は全部。コア部品だけ残しました」
「持って帰るのか」
「はい」
岩崎軍曹はしばらく霧島を見た。
「何に使う」
霧島は少し考えた。正直に言うことにした。
「……まだわかりません。ただ、人が死なずに済むものを作りたいと思っています」
岩崎軍曹は少し間を置いた。
「そうか」
それだけだった。
それだけで十分だった。
霧島は頭を下げた。
岩崎軍曹は頷いた。
また戦車の方を向いた。
霧島は岩崎軍曹の背中を見た。
それから、歩き出した。
* * *
海岸に、上陸用舟艇が来ていた。
島の兵士たちが、順番に乗り込んでいた。
霧島は田村、松下、大石と並んで待った。
西中佐が来た。
「霧島」
「はい」
「コア部品は」
「腹巻の下です」
西中佐は頷いた。「生きて帰れ」
「はい」
「それが、この百十五日間の、最後の命令だ」
霧島は頭を下げた。
順番が来た。
霧島は上陸用舟艇を見た。
星条旗が描かれていた。
この艇で、島を出る。
田村が乗り込んだ。松下が乗り込んだ。大石が乗り込んだ。
霧島が乗り込もうとした時——
「霧島伍長」
大石の声だった。
「この船で島を出ることになるなんてなあ」
田村が笑った。「サターンがいたら、俺は乗らないぞ」
松下が続けた。「まったくだ。沈めてしまえ」
笑いが起きた。
米兵が何事かと振り返った。
意味はわからなかったはずだ。
霧島は笑いながら乗り込んだ。
腹巻の下に手を当てた。
コア部品の重さがあった。
温かくはなかった。
しかし重かった。
——いつか、また。
* * *
舟艇が動き出した。
硫黄島が遠ざかった。
霧島は島を見た。
火山岩の黒い地面。
硫黄の煙が、細く上がっていた。
摺鉢山があった。星条旗は立っていなかった。
空は青かった。
何も飛んでいなかった。
田村が島を見ていた。
松下が島を見ていた。
大石が島を見ていた。
誰も喋らなかった。
島が小さくなった。
もっと小さくなった。
霧島は空を見た。
百十五日間、サターンが飛んでいた空だった。
今は何も飛んでいなかった。
しかしどこかに、飛んだ跡があるような気がした。
空気の中に。光の中に。
硫黄の匂いが薄くなった。
波の匂いがした。
海の匂いがした。
大石が言った。「島、小さくなりましたね」
「そうだな」
「でも、ちゃんと見えます。まだ」
「ああ」
「見えなくなっても——あそこにあるのは変わりませんよね」
霧島は大石を見た。
十七歳が、そういうことを言った。
「そうだな」と霧島は言った。「変わらない」
* * *
島が見えなくなった。
霧島は海を見た。
腹巻の下に手を当てた。
コア部品があった。
制御基板。小型モーター。カメラモジュール。バッテリー。
サターンの心臓だった。
これを持って帰る。
何に使うかは、まだわからない。
しかし持って帰る。
人が死なずに済むものを作る。
それだけがわかっていた。
サターンは飛んだ。
百十五日間、飛んだ。
攻撃した。観測した。採魚の護衛をした。ただ飛んだ。
その間、霧島たちは生きていた。
大石も田村も松下も。
西中佐も岩崎軍曹も。
栗林中将も。
全員が、生きていた。
機械が死んだ。
人間が生きた。
それだけのことだった。
しかしそれだけのことが、霧島には何よりも大きかった。
* * *
舟艇の中で、霧島は記録帳を開いた。
最後のページだった。百十五日目の記録の下に、まだ余白があった。
霧島は書いた。
「島を出た。全員、生きている。
コア部品は腹巻の下にある。
サターンは燃えた。しかし誰も、サターンに殺されなかった。味方は。
いつかまた、飛ばす。
次は戦場ではないところで。
誰かを殺すためではなく。
誰かが生きるために。」
書いてから、記録帳を閉じた。
波の音がした。
風があった。
硫黄の匂いは、もうしなかった。
* * *
戦後。
霧島修は大阪に小さな町工場を開いた。
何を作っているのか、と聞かれると、いつも同じ答えを返した。
「人が死なずに済むものを」
聞いた人間は、たいてい首を傾げた。
それでいい、と霧島は思っていた。
工場の棚の奥に、小さな木箱があった。
誰も触らなかった。
霧島だけが、時々開けた。
制御基板。小型モーター。カメラモジュール。バッテリー。
古びていた。
しかし確かにあった。
霧島はそれを見るたびに、青い空を思い出した。
硫黄の匂いを思い出した。
蜂の羽音を太くしたような音を思い出した。
サターンが飛んでいた空を。
いつか、また飛ばす。
そう思っていた。
戦後の日本の空は広かった。
何も飛んでいなかった。
まだ。
― 了 ―
「硫黄島のサターン」 全十一話 完
お読みいただきありがとうございました。
全十一話、完結となります。
明日から、「草刈り機にプロペラ付けてアメリカ本土爆撃を命じられた俺たちがメキシコで密輸する話」を連載します。こちらもよろしくお願いします。
「メーレスブルクの秘録」「TOKYO PMC」など、他の作品もよろしければ。




