二十機
三十日目の朝。
霧島は記録帳を開いた。
残機数:二十機。
その数字を見た時、何かが変わった気がした。
五十機の時は、まだ余裕があった。三十機の時は、計算しながらも動けた。しかし二十機は——
半分以下だ。
もう半分以上、使った。
霧島は鉛筆を置いた。
壕の外は静かだった。珍しく砲声がなかった。この三十日で、砲声のない朝は片手で数えるほどしかなかった。
大石が起き出してきた。目を擦りながら、まず木箱の方へ向かった。毎朝の習慣になっていた。機体の数を確認して、バッテリーの残量を見て、それから霧島に報告する。
「二十機、異常なしです」
「ああ」
「霧島伍長。今日も飛ばしますか」
霧島はしばらく考えた。
「飛ばす。ただし——今日は西中佐と話してからだ」
* * *
西中佐の天幕には、珍しく栗林中将もいた。
霧島は緊張した。栗林中将と直接話すのは、最初の報告以来だった。
「座れ」と西中佐が言った。
霧島は座った。記録帳を膝の上に置いた。
栗林中将は地図を見たまま言った。「残機が二十になったそうだな」
「はい」
「あと何日持つと思う」
霧島は計算した。正直に言うことにした。
「使い方次第です。今のペースで攻撃に使えば十日。偵察中心にすれば三十日以上。ただし——」
「ただし?」
「偵察だけでは戦況を変えられません。情報は取れる。しかし敵を止められない」
栗林中将は地図から顔を上げた。霧島を見た。
初めてまともに顔を見た気がした。穏やかな目だった。しかし何かを見透かすような目だった。
「霧島伍長。お前はこの戦争をどう見ている」
予想外の問いだった。
霧島は少し考えた。上官に対して言っていい言葉と、言ってはいけない言葉がある。しかし栗林中将の目を見ていると、正直に言うべきだという気がした。
「……勝てません」
室内が静まり返った。
「続けろ」と栗林中将は静かに言った。
「勝てませんが、時間は稼げます。時間を稼ぐことで、何かが変わるかもしれない。サターンにできることは、その時間を少しでも延ばすことだと思っています」
栗林中将はしばらく霧島を見ていた。
それから西中佐を見た。二人の間に、言葉のない何かが通った。
「わかった」と栗林中将は言った。「西に任せる」
それだけ言って、地図に戻った。
霧島は天幕を出た。
西中佐が後から来た。「よく言えた」
「叱られると思いました」
「栗林中将はとっくにわかっている。お前と同じことを、ずっと前から」
西中佐は空を見た。
「だから最後まで戦う。それだけだ」
* * *
その夜、西中佐が霧島を呼んだ。
「明後日、敵の大規模な前進が予想される。北側の陣地が危ない」
霧島は地図を見た。確かに北側は手薄だった。
「サターンを使いますか」
「使う。ただし、今回は少し違う使い方をしたい」
西中佐は地図の一点を指した。
「ここに九七式を一両、置く」
霧島は地図を見た。崖の手前、開けた場所。
「囮ですか」
「動かない戦車だ。燃料は入れない。しかし砲塔は敵の方向に向ける」
「向こうは戦車だと思う」
「そうだ。主力を引きつける。その間に——」
西中佐は別の場所を指した。砲兵陣地の位置だった。
「サターンが上から見て、砲撃を誘導する。囮に食いついた敵の集団を、上から叩く」
霧島は少し考えた。
「うまくいけば、サターンの消耗を最小限に抑えられます。偵察二機、着弾観測二機。攻撃に使う機体はゼロでも——」
「砲兵が代わりに叩く」
「はい」
西中佐は頷いた。「岩崎軍曹に話を通す。あいつの戦車を使う」
「岩崎軍曹の戦車を囮に……岩崎軍曹は納得しますか」
西中佐は少し笑った。
「あいつは口が悪いが、筋の通った話には従う。俺が説明する」
* * *
翌朝、霧島は岩崎軍曹の戦車のそばで充電をしながら、前日の話を思い出していた。
岩崎軍曹がハッチから出てきた。煙草を咥えていた。
「聞いた、電気屋。俺の戦車を囮にするそうだな」
「西中佐から話が……」
「行った。昨夜」
岩崎軍曹は煙草を吹かした。表情は読めなかった。
「文句があるなら——」
「ない」
岩崎軍曹は短く言った。
「え?」
「文句はない。戦車が動かなくても役に立てるなら、それでいい」
霧島は少し驚いた。もっと抵抗があると思っていた。
「ただし」岩崎軍曹は続けた。「お前の玩具が、ちゃんと仕事をすることが条件だ」
「します。必ず」
「そうか」
岩崎軍曹は戦車の装甲を手で叩いた。鈍い音がした。
「こいつも、動けなくなっても戦えるとわかれば、少しは浮かばれる」
霧島は岩崎軍曹の横顔を見た。
戦車を、生き物のように話す人だった。
サターンを生き物のように扱う大石と、どこか似ていた。
「岩崎軍曹」
「なんだ」
「ありがとうございます」
岩崎軍曹は煙草を捨てた。踏み消した。それだけで返事の代わりにした。
* * *
二日後の夜明け前、岩崎軍曹の九七式は崖の手前に据えられた。
燃料なし。エンジンなし。
しかし砲塔は、北側に向いていた。
霧島は観測地点に着いた。田村、松下、大石が続いた。
「準備いいか」
「いつでも」と田村が答えた。
夜明けが来た。
霧島は一番機を上げた。偵察型。暗視ポッドを外して、通常カメラで。もう十分に明るかった。
北側の地形が映った。木立。岩。そして——動く影。
「田村。北北東に敵の前進部隊。規模は……二十から三十」
田村が地図に書き込んだ。無線で砲兵陣地に伝えた。
敵部隊が進んできた。
そして崖の手前に置かれた九七式を見た。
動きが止まった。
画面の中で、敵部隊が散開するのが見えた。戦車に対する教科書通りの対応だった。左翼と右翼に分かれて、包囲しようとする動き。
「食いついた」と霧島は言った。「松下、二番機を上げろ。着弾観測に入る」
二番機が上がった。松下が操縦した。
霧島は一番機で全体を見ながら、松下に指示を出した。
「右翼の集団、砲兵に座標を伝えろ。左翼は俺が見る」
田村が無線に向かった。
砲声。
「松下、着弾確認」
「左前方に二十。修正します」
また砲声。
画面の中で土煙が上がった。今度は近かった。
「もう一発。同座標」
三発目が落ちた。
右翼の動きが止まった。
「左翼——」霧島は一番機のカメラを動かした。「左翼、後退し始めています」
田村が報告した。「砲兵、弾薬節約できたと言っています。通常の三分の一の消費です」
霧島は操縦器を持ったまま、画面を見続けた。
動かない戦車が、敵の主力を引きつけた。
サターンが上から見た。
砲兵が叩いた。
サターンは一機も攻撃に使わなかった。
二機飛ばして、二機戻ってきた。
* * *
大石が機体を受け取った。一機目。二機目。
丁寧に点検した。損傷なし。バッテリー残量を確認した。
「霧島伍長」
「なんだ」
「今日、死ななかったです。サターン」
「ああ」
「二機とも帰ってきました」
「ああ」
大石はしばらく機体を抱えていた。それから木箱に戻した。丁寧に。
「こういう使い方が、一番いいですね」
霧島は大石を見た。
「そうだな」
「死なせなくて済む」
霧島は記録帳を開いた。
残機数:二十機。
変わっていない。
今日は変わらなかった。
それだけのことが、今日は大きく感じた。
* * *
夕方、霧島は岩崎軍曹のところに行った。
九七式はまだ崖の手前にあった。燃料を入れて、元の位置に戻す予定だったが、燃料が足りなかった。
岩崎軍曹は戦車の脇に座っていた。装甲を背もたれにして。
「うまくいったそうだな」
「はい。岩崎軍曹の戦車のおかげです」
「俺は何もしていない。座っていただけだ」
「それが必要でした」
岩崎軍曹は少し黙った。
「電気屋。お前の玩具は、今日は死ななかったそうだな」
「はい」
「それはよかった」
素っ気ない言葉だったが、霧島には本心だとわかった。
「岩崎軍曹。この戦車、もう動けないかもしれませんね」
「燃料次第だ。ただ——」
岩崎軍曹は装甲を手で叩いた。
「動かなくても今日みたいに役に立てるなら、まあいい」
霧島は九七式を見た。
傷だらけだった。泥だらけだった。しかし砲塔はまだ北を向いていた。
動かなくても、向いている方向があった。
霧島はその砲塔を見て、なぜかサターンのことを思った。
飛べなくなっても、向いている方向がある。
それでいい、という気がした。
* * *
その夜、田村が霧島の隣に来た。
珍しく、自分から話しかけてきた。
「霧島伍長。一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「サターンがなくなったら、自分たちはどうなりますか」
霧島は少し考えた。
「普通の兵隊だ」
「銃を持って戦うんですか」
「そうなる」
田村はしばらく黙った。
「自分、銃はあまり得意じゃなくて」
「郵便配達だったな」
「はい。毎日自転車で走ってました。雨の日も風の日も。地図を見なくても道がわかるようになりました」
霧島は田村を見た。入隊してから何ヶ月も共に過ごしてきたが、田村の前の暮らしを聞いたのは初めてかもしれなかった。
「どこの出身だ」
「静岡です。お茶の産地で。茶畑の中を毎日走ってました」
「茶畑か」
「はい。朝は霧が出て、空気が甘いんですよ。こんな硫黄の匂いじゃなくて」
田村は少し笑った。
「サターンで飛ぶと、上から見える景色って綺麗じゃないですか。操縦していると、自分が空を飛んでいる気分になります」
「なるな」
「茶畑の上を飛んでみたいな、とたまに思います。戦争が終わったら」
霧島は何も言わなかった。
戦争が終わったら、という言葉が、田村の口から自然に出た。
この島でその言葉を言えることが、どういうことか。
「飛ばせてやれるといいな」と霧島は言った。「茶畑の上を」
「そうなったら最高ですね」
田村は笑った。
霧島も少し笑った。
* * *
深夜、霧島は記録帳を開いた。
残機数:二十機。
本日使用:二機(偵察・着弾観測)。
本日帰還:二機。
本日消耗:ゼロ。
消耗ゼロ、という数字を見るのは、初めてだった。
霧島はしばらくその数字を見ていた。
動かない戦車が囮になった。
サターンが目になった。
砲兵が拳になった。
誰も——サターンは——死ななかった。
これが正しい戦い方なのかどうか、霧島にはわからなかった。
戦争に正しい戦い方があるのかどうかも、わからなかった。
ただ。
今日という一日は、誰も死なせなかった。
サターンも。
それだけを記録帳に書いた。
「三十日目。消耗ゼロ。サターン二十機、健在」
書いてから、もう一行加えた。
「田村は茶畑の上を飛ばせてやりたい」
関係のないことだった。
記録帳に書くことではなかった。
しかし消さなかった。
(第六話 了)




