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硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
6/11

二十機

三十日目の朝。


霧島は記録帳を開いた。


残機数:二十機。


その数字を見た時、何かが変わった気がした。

五十機の時は、まだ余裕があった。三十機の時は、計算しながらも動けた。しかし二十機は——


半分以下だ。

もう半分以上、使った。


霧島は鉛筆を置いた。


壕の外は静かだった。珍しく砲声がなかった。この三十日で、砲声のない朝は片手で数えるほどしかなかった。


大石が起き出してきた。目を擦りながら、まず木箱の方へ向かった。毎朝の習慣になっていた。機体の数を確認して、バッテリーの残量を見て、それから霧島に報告する。


「二十機、異常なしです」


「ああ」


「霧島伍長。今日も飛ばしますか」


霧島はしばらく考えた。


「飛ばす。ただし——今日は西中佐と話してからだ」



*  *  *


西中佐の天幕には、珍しく栗林中将もいた。


霧島は緊張した。栗林中将と直接話すのは、最初の報告以来だった。


「座れ」と西中佐が言った。


霧島は座った。記録帳を膝の上に置いた。


栗林中将は地図を見たまま言った。「残機が二十になったそうだな」


「はい」


「あと何日持つと思う」


霧島は計算した。正直に言うことにした。


「使い方次第です。今のペースで攻撃に使えば十日。偵察中心にすれば三十日以上。ただし——」


「ただし?」


「偵察だけでは戦況を変えられません。情報は取れる。しかし敵を止められない」


栗林中将は地図から顔を上げた。霧島を見た。


初めてまともに顔を見た気がした。穏やかな目だった。しかし何かを見透かすような目だった。


「霧島伍長。お前はこの戦争をどう見ている」


予想外の問いだった。


霧島は少し考えた。上官に対して言っていい言葉と、言ってはいけない言葉がある。しかし栗林中将の目を見ていると、正直に言うべきだという気がした。


「……勝てません」


室内が静まり返った。


「続けろ」と栗林中将は静かに言った。


「勝てませんが、時間は稼げます。時間を稼ぐことで、何かが変わるかもしれない。サターンにできることは、その時間を少しでも延ばすことだと思っています」


栗林中将はしばらく霧島を見ていた。


それから西中佐を見た。二人の間に、言葉のない何かが通った。


「わかった」と栗林中将は言った。「西に任せる」


それだけ言って、地図に戻った。


霧島は天幕を出た。


西中佐が後から来た。「よく言えた」


「叱られると思いました」


「栗林中将はとっくにわかっている。お前と同じことを、ずっと前から」


西中佐は空を見た。


「だから最後まで戦う。それだけだ」



*  *  *


その夜、西中佐が霧島を呼んだ。


「明後日、敵の大規模な前進が予想される。北側の陣地が危ない」


霧島は地図を見た。確かに北側は手薄だった。


「サターンを使いますか」


「使う。ただし、今回は少し違う使い方をしたい」


西中佐は地図の一点を指した。


「ここに九七式を一両、置く」


霧島は地図を見た。崖の手前、開けた場所。


「囮ですか」


「動かない戦車だ。燃料は入れない。しかし砲塔は敵の方向に向ける」


「向こうは戦車だと思う」


「そうだ。主力を引きつける。その間に——」


西中佐は別の場所を指した。砲兵陣地の位置だった。


「サターンが上から見て、砲撃を誘導する。囮に食いついた敵の集団を、上から叩く」


霧島は少し考えた。


「うまくいけば、サターンの消耗を最小限に抑えられます。偵察二機、着弾観測二機。攻撃に使う機体はゼロでも——」


「砲兵が代わりに叩く」


「はい」


西中佐は頷いた。「岩崎軍曹に話を通す。あいつの戦車を使う」


「岩崎軍曹の戦車を囮に……岩崎軍曹は納得しますか」


西中佐は少し笑った。


「あいつは口が悪いが、筋の通った話には従う。俺が説明する」



*  *  *


翌朝、霧島は岩崎軍曹の戦車のそばで充電をしながら、前日の話を思い出していた。


岩崎軍曹がハッチから出てきた。煙草を咥えていた。


「聞いた、電気屋。俺の戦車を囮にするそうだな」


「西中佐から話が……」


「行った。昨夜」


岩崎軍曹は煙草を吹かした。表情は読めなかった。


「文句があるなら——」


「ない」


岩崎軍曹は短く言った。


「え?」


「文句はない。戦車が動かなくても役に立てるなら、それでいい」


霧島は少し驚いた。もっと抵抗があると思っていた。


「ただし」岩崎軍曹は続けた。「お前の玩具が、ちゃんと仕事をすることが条件だ」


「します。必ず」


「そうか」


岩崎軍曹は戦車の装甲を手で叩いた。鈍い音がした。


「こいつも、動けなくなっても戦えるとわかれば、少しは浮かばれる」


霧島は岩崎軍曹の横顔を見た。


戦車を、生き物のように話す人だった。

サターンを生き物のように扱う大石と、どこか似ていた。


「岩崎軍曹」


「なんだ」


「ありがとうございます」


岩崎軍曹は煙草を捨てた。踏み消した。それだけで返事の代わりにした。



*  *  *


二日後の夜明け前、岩崎軍曹の九七式は崖の手前に据えられた。


燃料なし。エンジンなし。

しかし砲塔は、北側に向いていた。


霧島は観測地点に着いた。田村、松下、大石が続いた。


「準備いいか」


「いつでも」と田村が答えた。


夜明けが来た。


霧島は一番機を上げた。偵察型。暗視ポッドを外して、通常カメラで。もう十分に明るかった。


北側の地形が映った。木立。岩。そして——動く影。


「田村。北北東に敵の前進部隊。規模は……二十から三十」


田村が地図に書き込んだ。無線で砲兵陣地に伝えた。


敵部隊が進んできた。

そして崖の手前に置かれた九七式を見た。


動きが止まった。


画面の中で、敵部隊が散開するのが見えた。戦車に対する教科書通りの対応だった。左翼と右翼に分かれて、包囲しようとする動き。


「食いついた」と霧島は言った。「松下、二番機を上げろ。着弾観測に入る」


二番機が上がった。松下が操縦した。


霧島は一番機で全体を見ながら、松下に指示を出した。


「右翼の集団、砲兵に座標を伝えろ。左翼は俺が見る」


田村が無線に向かった。


砲声。


「松下、着弾確認」


「左前方に二十。修正します」


また砲声。


画面の中で土煙が上がった。今度は近かった。


「もう一発。同座標」


三発目が落ちた。


右翼の動きが止まった。


「左翼——」霧島は一番機のカメラを動かした。「左翼、後退し始めています」


田村が報告した。「砲兵、弾薬節約できたと言っています。通常の三分の一の消費です」


霧島は操縦器を持ったまま、画面を見続けた。


動かない戦車が、敵の主力を引きつけた。

サターンが上から見た。

砲兵が叩いた。


サターンは一機も攻撃に使わなかった。


二機飛ばして、二機戻ってきた。



*  *  *


大石が機体を受け取った。一機目。二機目。


丁寧に点検した。損傷なし。バッテリー残量を確認した。


「霧島伍長」


「なんだ」


「今日、死ななかったです。サターン」


「ああ」


「二機とも帰ってきました」


「ああ」


大石はしばらく機体を抱えていた。それから木箱に戻した。丁寧に。


「こういう使い方が、一番いいですね」


霧島は大石を見た。


「そうだな」


「死なせなくて済む」


霧島は記録帳を開いた。


残機数:二十機。


変わっていない。

今日は変わらなかった。


それだけのことが、今日は大きく感じた。



*  *  *


夕方、霧島は岩崎軍曹のところに行った。


九七式はまだ崖の手前にあった。燃料を入れて、元の位置に戻す予定だったが、燃料が足りなかった。


岩崎軍曹は戦車の脇に座っていた。装甲を背もたれにして。


「うまくいったそうだな」


「はい。岩崎軍曹の戦車のおかげです」


「俺は何もしていない。座っていただけだ」


「それが必要でした」


岩崎軍曹は少し黙った。


「電気屋。お前の玩具は、今日は死ななかったそうだな」


「はい」


「それはよかった」


素っ気ない言葉だったが、霧島には本心だとわかった。


「岩崎軍曹。この戦車、もう動けないかもしれませんね」


「燃料次第だ。ただ——」


岩崎軍曹は装甲を手で叩いた。


「動かなくても今日みたいに役に立てるなら、まあいい」


霧島は九七式を見た。


傷だらけだった。泥だらけだった。しかし砲塔はまだ北を向いていた。


動かなくても、向いている方向があった。


霧島はその砲塔を見て、なぜかサターンのことを思った。

飛べなくなっても、向いている方向がある。

それでいい、という気がした。



*  *  *


その夜、田村が霧島の隣に来た。


珍しく、自分から話しかけてきた。


「霧島伍長。一つ聞いていいですか」


「なんだ」


「サターンがなくなったら、自分たちはどうなりますか」


霧島は少し考えた。


「普通の兵隊だ」


「銃を持って戦うんですか」


「そうなる」


田村はしばらく黙った。


「自分、銃はあまり得意じゃなくて」


「郵便配達だったな」


「はい。毎日自転車で走ってました。雨の日も風の日も。地図を見なくても道がわかるようになりました」


霧島は田村を見た。入隊してから何ヶ月も共に過ごしてきたが、田村の前の暮らしを聞いたのは初めてかもしれなかった。


「どこの出身だ」


「静岡です。お茶の産地で。茶畑の中を毎日走ってました」


「茶畑か」


「はい。朝は霧が出て、空気が甘いんですよ。こんな硫黄の匂いじゃなくて」


田村は少し笑った。


「サターンで飛ぶと、上から見える景色って綺麗じゃないですか。操縦していると、自分が空を飛んでいる気分になります」


「なるな」


「茶畑の上を飛んでみたいな、とたまに思います。戦争が終わったら」


霧島は何も言わなかった。


戦争が終わったら、という言葉が、田村の口から自然に出た。

この島でその言葉を言えることが、どういうことか。


「飛ばせてやれるといいな」と霧島は言った。「茶畑の上を」


「そうなったら最高ですね」


田村は笑った。

霧島も少し笑った。



*  *  *


深夜、霧島は記録帳を開いた。


残機数:二十機。

本日使用:二機(偵察・着弾観測)。

本日帰還:二機。

本日消耗:ゼロ。


消耗ゼロ、という数字を見るのは、初めてだった。


霧島はしばらくその数字を見ていた。


動かない戦車が囮になった。

サターンが目になった。

砲兵が拳になった。

誰も——サターンは——死ななかった。


これが正しい戦い方なのかどうか、霧島にはわからなかった。

戦争に正しい戦い方があるのかどうかも、わからなかった。


ただ。


今日という一日は、誰も死なせなかった。

サターンも。


それだけを記録帳に書いた。


「三十日目。消耗ゼロ。サターン二十機、健在」


書いてから、もう一行加えた。


「田村は茶畑の上を飛ばせてやりたい」


関係のないことだった。

記録帳に書くことではなかった。

しかし消さなかった。




(第六話 了)

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