戦車の燃料
七日目の朝、霧島は記録帳を開いて、数字を見つめた。
残機数:三十三機。
七日間で十九機使った。偵察で帰還できたものが六機。攻撃に向かって戻らなかったものが十三機。
一日平均で約二・七機の消耗。
このペースでは、あと十二日しか持たない。
霧島は鉛筆を置いた。壕の外から朝の砲声が聞こえた。もう驚かなくなっていた。七日でそうなった。
大石が茶を持ってきた。無言で置いた。霧島の顔を見て、何も言わなかった。
「充電はどうだ」
「昨日、戦車から二回やりました。今日も朝に一回できると思います」
「西中佐に話を通してあるか」
「田村さんが昨夜のうちに。今日も貸してもらえるそうです」
霧島は茶を飲んだ。硫黄の匂いがする湯だった。最初は気になったが、七日経つと普通になった。人間の慣れというものは恐ろしい、と霧島は思った。
* * *
九七式中戦車は、壕から少し離れた窪地に置かれていた。
霧島が充電に来るたびに、戦車の乗員たちは最初こそ怪訝な顔をしたが、今は当たり前のように場所を空けてくれた。
今朝の担当は、古参の下士官だった。三十代半ば、寡黙な男で、名を岩崎軍曹といった。
「また来たか、電気屋」
「お世話になります」
「何分かかる」
「三十分ほど。低電流でゆっくり入れないと——」
「わかった。その間、エンジンを回してやる」
岩崎軍曹はそれ以上何も言わなかった。戦車のハッチを開けて、中に入った。エンジンがかかった。
霧島は銅線をダイナモの出力端子に繋いだ。電圧計を確認した。十二ボルト。安定している。
バッテリーをゆっくり繋いだ。
爆発しなかった。
電流計の針が、僅かに動いた。
充電が始まった。
三十分、霧島は戦車の脇に座って待った。戦車のエンジン音を聞きながら。この音がバッテリーを生かしている。サターンを飛ばし続けている。
岩崎軍曹がハッチから顔を出した。
「お前のやつ、何機残ってる」
「三十三機です」
「減ってるな」
「使っていますから」
岩崎軍曹は少し考えてから言った。「あれは死ぬのか、使ったら」
霧島は手を止めた。「死ぬ、とは」
「戻ってこないだろう、攻撃に行ったら」
「戻ってきません。攻撃型は」
岩崎軍曹は黙った。それからまたハッチの中に消えた。
しばらくして、中から声が聞こえた。
「……特攻と同じじゃないか」
霧島は答えなかった。
答える言葉を、持っていなかった。
* * *
その日の昼過ぎ、西中佐が霧島を呼んだ。
「座れ」
西中佐の天幕に入ると、地図が広げてあった。
「直接に言う。燃料の問題だ」
霧島は背筋が伸びた。
「戦車の燃料が、予想より速く減っている。理由は二つ。一つは昨日の夜間の陣地転換。もう一つは——」
西中佐は霧島を見た。
「サターンの充電だ」
「申し訳——」
「謝るな。事実を言っている」西中佐は続けた。「このペースで行くと、戦車の燃料は十日ほどで尽きる。それ以後、戦車は動けない」
霧島は計算した。十日後、サターンの残機数は。
「……二十機以下になります」
「そうなる。つまり、戦車が動かなくなる頃に、サターンも残り少なくなる」
二人は地図を見た。
「中佐殿。充電の回数を減らすことはできます。ただその分、サターンの飛行回数も——」
「わかっている」西中佐は言った。「どちらを優先するかではない。どう両立させるかだ」
「両立、ですか」
「戦車が動かなければ上陸部隊を止められない。サターンが飛ばなければ情報が取れない。どちらも必要だ。問題は——」
西中佐は地図の一点を指した。
「どこで、何のために使うか、だ」
霧島は地図を見た。上陸地点。陣地の位置。敵の推定進路。
「サターンを、戦車の補助に使えます」
「詳しく言え」
「戦車が動く前に、サターンで敵の配置を確認する。無駄な動きをなくす。燃料の消耗を抑える」
西中佐は少し考えた。
「つまりサターンが目になる」
「はい。そして戦車が拳になる」
西中佐は頷いた。ゆっくりと。
「やってみろ。今日の夕方、陣地転換がある。その前にサターンで周辺を確認しろ」
「わかりました」
霧島が立ち上がりかけた時、西中佐が言った。
「霧島。お前は今、何機が何日持つか、ずっと計算しているだろう」
霧島は足を止めた。
「……はい」
「それでいい。ただ一つだけ言っておく」
「はい」
「計算だけで戦争はできない。計算が外れた時に、どう動くかを考えておけ」
霧島は頷いた。
西中佐が何を言いたいのか、半分しかわからなかった。
しかし半分は、わかった。
* * *
夕方の偵察は、霧島が自分で操縦した。
転換先の陣地周辺、半径三百メートルを、サターンに一周させた。画面を凝視した。茂みの影。岩の陰。動くものがあれば敵だ。
「北東の岩場、人影あり。二名から三名」
田村が地図に書き込んだ。松下が距離を計算した。
「東側、異常なし。南側——」
霧島は操縦器を動かした。サターンが旋回した。
「南側、通路に障害物。自然のものか、設置されたものか判断できません」
「わかった」田村が走った。西中佐への報告に。
サターンを帰還させた。大石が受け取った。ポッドを確認した。
十分後、戦車が動いた。
霧島は壕の入口からそれを見ていた。九七式が稜線を越えた。北東の岩場を大きく迂回するルートで。事前の情報通りに。
無駄な動きがなかった。
燃料が節約できた。
それだけのことだったが、霧島には大きく感じた。
岩崎軍曹の戦車が通り過ぎる時、ハッチから顔が出た。
「助かった、電気屋」
それだけ言って、ハッチが閉まった。
* * *
十日目に、霧島は新しい使い方を思いついた。
きっかけは、砲兵陣地からの愚痴だった。
「撃っても当たらん。着弾がどこに落ちているのか全然わからん」
霧島はその言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
サターンが上から見ている。
砲兵が下から撃っている。
繋げれば——
「西中佐殿。着弾観測をやらせてください」
西中佐は少し考えた。「サターンで、砲撃を誘導するということか」
「はい。上空から着弾を確認して、修正を伝えます。少ない弾薬で最大の効果が出ます」
「砲兵と連携できるか」
「田村が無線を持ちます。自分が画面を見て田村に伝え、田村が砲兵陣地に中継する」
西中佐は頷いた。「やれ」
準備は一時間かかった。砲兵陣地との無線の周波数を合わせた。田村が中継の手順を確認した。松下が標的の座標を計算した。大石が機体を点検した。
霧島はサターンを上げた。
画面に、米軍の集積地点が映った。車両。テント。人影。
「田村、砲兵に伝えろ。目標、北北東五百。方位〇三二。撃て」
田村が無線に向かった。
砲声。
画面の中で土煙が上がった。目標の左前方、およそ三十メートル。
「右に二十、前に三十。修正して撃て」
また砲声。
今度は目標に近かった。車両の一台が動きを止めた。
「命中。次の目標——」
霧島は画面を見続けた。
見なければならなかった。
これが仕事だった。
砲撃が三回続いた。
終わった時、霧島はサターンを帰還させた。操縦器を置いた。
手が微かに震えていた。
松下が隣に来た。「三回で集積地点に損害を与えました。通常なら何十発も必要なところを」
「わかった」
「うまくいきましたね」
「……ああ」
霧島は画面の中で動かなくなった車両を思い出した。その車両の中に人がいたかどうか、確認しなかった。確認できなかった。確認したくなかった。
どれが本当の理由なのか、霧島にはわからなかった。
* * *
その夜、西中佐が霧島を呼んだのではなく、霧島の方から行った。
珍しいことだった。自分でもそう思いながら、足が向いた。
「どうした」
「少し、話を聞いていただけますか」
西中佐は地図から顔を上げた。霧島の顔を見て、地図を畳んだ。「座れ」
霧島は座った。何から言えばいいかわからなかった。
「今日の着弾観測のことか」
「……はい」
「うまくいったな」
「はい。うまくいきました」霧島は言った。「だから——」
言葉が止まった。
西中佐は待った。
「だから、というのが、自分でもわからないんです。うまくいった。成果が出た。それは正しい。しかし——」
「画面の中の車両が気になっているか」
霧島は頷いた。
西中佐は少しの間、黙っていた。
「霧島。サターンは誰も殺していない」
「しかし自分が観測しなければ——」
「砲を撃ったのは砲兵だ。引き金を引いたのは人間だ。サターンはただ空から見ていた」
「ただ見ていた、では済まない気がします。自分が見なければ、あの砲弾はあそこに落ちなかった」
西中佐は霧島を見た。少しの間、真剣な顔で。
「お前は正直だな」
「正直かどうかではなく——」
「正直だと言っている」西中佐は繰り返した。「目を開けて見て、それで苦しくなるのは、正直に生きている証拠だ。目を閉じていれば苦しくならない。しかしそれは——」
西中佐は少し間を置いた。
「お前のやることじゃない」
霧島は西中佐の顔を見た。
「目を開けて戦うことが、なぜ悪い。それがお前の戦い方だ。サターンの戦い方だ」
沈黙があった。
霧島には、完全には納得できなかった。おそらく戦争が終わっても納得できないだろう、という気がした。しかしそれでいい、とも思った。
納得できないまま、それでも目を開けていることが、自分にできる唯一のことだった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺もわからないことを言っただけだ」
西中佐は苦笑した。霧島も少し笑った。
* * *
翌朝、霧島はまた戦車に充電に来た。
岩崎軍曹は今日も無口だった。エンジンをかけて、ハッチの中に入った。
三十分の充電を待ちながら、霧島は戦車を見た。装甲の傷。泥。昨日の戦闘の跡。
ハッチが開いた。岩崎軍曹が煙草を咥えて出てきた。
「お前の玩具は、今日も飛ぶか」
「飛ばします」
「昨日、砲兵を助けたそうだな」
「少しは役に立てたかもしれません」
岩崎軍曹は煙草を吹かした。煙が硫黄の空気に溶けた。
「俺は最初、お前らのことを邪魔だと思っていた」
「……存じています」
「なんで俺の戦車の燃料を使わなければならないのか、と。こっちは本物の戦争をしているのに、玩具に付き合っている場合か、と」
霧島は黙って聞いた。
「だが昨日の陣地転換は助かった。お前の目がなければ北東の岩場で時間を食っていた。燃料を余計に使っていた」
「それは——」
「礼を言っているんじゃない」岩崎軍曹は素っ気なく言った。「事実を言っている」
霧島は少し笑いそうになった。
「一つ聞いていいか、電気屋」
「はい」
「お前の玩具は、最終的に何機残るつもりだ」
霧島は少し考えた。正直に言うことにした。
「最後の一機まで飛ばします」
「全部なくなったら、お前らはどうする」
「……普通の兵隊になります」
岩崎軍曹は少しの間、霧島を見た。それから煙草を地面に捨てて踏み消した。
「そうか」
それだけ言って、またハッチの中に消えた。
霧島は電流計を確認した。充電は順調だった。
最後の一機まで飛ばす。
そう口にしてみて、初めて自分がそう決めていたことに気がついた。
* * *
十日目の夜。
霧島は記録帳を開いた。
残機数:三十三機。
操縦器:三組。
暗視ポッド:三基。
赤外線ポッド:二基(一基、着地時に損傷・修理中)。
戦車燃料:残量六割程度。
十日で十九機使った。
しかし戦車との連携で、一機あたりの効果は上がっている。
着弾観測の導入で、砲兵の弾薬消耗が減った。
数字だけ見れば、悪くなかった。
霧島は記録帳の余白に、小さく書いた。
「サターンは目になった。拳はまだ戦車にある」
書いてから、もう一行加えた。
「目を開けていることが、この戦い方だ」
西中佐の言葉だった。自分の言葉にするには、まだ時間がかかりそうだった。
壕の外で風が鳴った。
硫黄の匂いがした。
大石がサターンの機体を並べ直す音がした。毎晩やっている儀式のように、丁寧に、一機ずつ。
霧島は記録帳を閉じた。
明日も飛ばす。
目を開けたまま。
(第三話 了)




