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硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
2/11

サターン、飛べ

1945年2月18日、夜。


霧島修は壕の入口に立って、海を見ていた。


暗かった。当然暗かった。しかし暗闇の中に、無数の光があった。

艦船の灯りだった。


数えられなかった。数えようとして、やめた。あれだけの数の艦船が、明日この島に向かってくる。それが現実だった。


「すごいな」


隣に田村が来ていた。いつの間に。


「すごい、というのか、あれが」


「他に言葉がないじゃないですか」


田村の言う通りだった。壮観、という言葉もあった。しかしそれは美しいものに使う言葉で、あの灯りの群れに美しさを感じるほど霧島は呑気ではなかった。


「田村。明日、頼む」


「はい」


「お前の目が必要だ。サターンの映像だけじゃ、位置の読み違いが起きる。お前が地上から補助してくれ」


「わかりました」と田村は言った。「郵便配達の勘、ここで使います」


霧島は暗闇の中の灯りを、もう一度数えようとした。

やはり数えられなかった。


壕の奥から大石の声がした。「霧島伍長、夜食です」


霧島は海から目を離した。

明日が来る。

来てしまう。



*  *  *


2月19日の夜明けは、砲声で始まった。


米軍の艦砲射撃だった。

島が揺れた。文字通り、地面が揺れた。壕の天井から土が落ちた。大石が咳き込んだ。松下が機材を体で庇った。田村は地図を丸めて胸に抱いた。


霧島はサターンの木箱を押さえた。


轟音が続いた。止まない。終わらない。この島のどこかが、今この瞬間にも削られている。


どれくらいの時間が経ったか。砲声が少し遠のいた。


西中佐の伝令が来た。


「上陸用舟艇、確認。海岸に向かいつつあり」


霧島は立ち上がった。


「行くぞ」



*  *  *


観測地点は、事前に西中佐と決めていた稜線の陰だった。


霧島が操縦器を手に取った。松下が機体を抱えた。田村が双眼鏡を構えた。大石が予備のバッテリーを背負った。


「一番機、行きます」


松下が機体を空に向けて放った。霧島がスロットルを上げた。


サターンが飛んだ。


今日は風が強かった。機体が流された。霧島が操縦器で修正した。傾いた翼が戻った。サターンは安定を取り戻して、上昇した。


操縦器の小さな画面に、映像が映った。


海だった。

艦船だった。

上陸用舟艇だった。


霧島は息を止めた。


画面の中に、それだけの数の船があった。整然と隊列を組んで、この島に向かってくる船が。舟艇の甲板に、兵士の姿があった。ヘルメット。銃。いくつもの顔。


霧島は画面を見た。

人間がいた。

あの船の中に、大勢の人間がいた。


「霧島伍長」


松下の声で我に返った。


「どうします。見えてますか」


「見えてる」霧島は言った。「配置を読む。少し待て」


画面を凝視した。艦船の種別を確認した。輸送艦。上陸用舟艇。支援艦艇。田村に位置を伝えた。田村が地図に書き込んだ。


「LST、三隻。左翼に集中しています。補給物資を積んでいるはずです」


田村が双眼鏡を構えた。「確認。三隻、確かに重そうです」


霧島はサターンを帰還させた。

燃料を無駄にしない。偵察は短く、正確に。


大石が機体を受け取った。丁寧に、両手で。


霧島は西中佐への報告を田村に頼んだ。自分は次の機体の確認をした。


心臓がまだ速く打っていた。

画面の中の顔を、忘れようとした。

今はそれだけのことを考える余裕はなかった。



*  *  *


西中佐からの指示は簡潔だった。


「LSTを叩け。上陸の足を鈍らせろ」


霧島は二番機の腹に、小型の爆発物を取り付けた。木箱に一緒に入っていたものだった。説明書に図解があった。取り付け方は単純だった。


単純すぎて、霧島は一度手を止めた。


「伍長」大石が言った。「手が止まってますよ」


「わかってる」


霧島は取り付けを終えた。


松下が機体を持った。「行きますか」


「行く」


二番機が空に上がった。霧島は操縦器を傾けた。サターンは海に向かった。


画面の中にLSTが映った。大きかった。甲板に車両が積まれているのが見えた。人影があった。


霧島は目標に向けてサターンを降下させた。

速度を上げた。

画面の中の景色が迫ってきた。


ボタンを押した。


画面が白くなった。

それだけだった。


「命中しましたか」と田村が聞いた。


「わからない」霧島は操縦器を下ろした。「画面が消えた」


しばらくして、海の方から煙が上がった。田村の双眼鏡が確認した。


「LSTから煙。直撃かどうかは……確認できません。甲板に何か燃えているものがあります」


大石が声を上げた。「やりました!」


田村と松下も顔を見合わせた。笑っていた。


霧島は煙を見た。


やった、と思った。思おうとした。

しかし画面が白くなった瞬間の感覚が、まだ手の中に残っていた。

あの船の甲板に、人影があった。


「次の機体の準備をしろ」と霧島は言った。「偵察に上げる」



*  *  *


USSブランソン、艦橋。


「見張りより報告。未確認飛行物体、左舷より接近」


航海長が双眼鏡を構えた。


「……小さいな」


「型式不明です。戦闘機ではありません」


「練習機か?」


「練習機にしても小さすぎます。翼幅は……一メートルあるかどうか」


艦橋に笑いが漏れた。


「玩具じゃないか」と誰かが言った。「日本軍は模型飛行機で遊んでいるのか」


「撃つ必要もないな」


「ほっておけ」


その時、後方のLSTで爆発が起きた。


艦橋が静まり返った。


航海長が後方を見た。LSTの甲板に煙が上がっていた。小さな炎。しかし確かな炎。


「……あの玩具か」


誰も笑わなかった。


「対空警戒。全員配置につけ」

「しかし目標が小さすぎて機銃では——」

「やれと言っている!」


機銃が空に向いた。しかしサターンはすでにどこにもいなかった。



*  *  *


その日、霧島たちは六機のサターンを飛ばした。


偵察三回。攻撃三回。


攻撃の成果は、田村の観測によれば、上陸用舟艇一隻に損傷、LSTの甲板に火災、通信アンテナらしき構造物への直撃一件。


六機使って、三機が攻撃に向かった。残りは偵察で帰還した。


夕方、霧島は記録帳に数字を書いた。


残り四十六機。


一日で六機。

このペースでは八日しか持たない。


霧島は計算した。何度も計算した。答えは変わらなかった。


大石が隣に来た。「どうしたんですか、そんな顔して」


「計算してた」


「なんの」


「どのくらい持つか」


大石は少し考えてから言った。「攻撃だけに使わなければいいんじゃないですか」


「攻撃しなければ何のために持ってきた機械なんだ」


「でも偵察だって大事でしょう。飛んでいるだけで向こうは怖いんじゃないですか」


霧島は大石を見た。十七歳の漁師の倅の言葉が、妙に核心を突いていた。


「……そうかもしれない」


「だったら、あんまり急いで全部使わなくていいと思います」


大石はそれだけ言って、バッテリーの確認に戻った。一機ずつ丁寧に、残量を確かめながら。


霧島は記録帳を閉じた。



*  *  *


夜、西中佐が観測地点に来た。


「今日の成果を聞いた」


「大したものではありません。六機使って、艦船への損傷は軽微です」


「向こうは混乱していた」と西中佐は言った。「栗林中将の情報では、米軍の通信が一時乱れた。原因不明の攻撃への対処で、上陸初期の動きが鈍った」


「それほどの効果があったとは思えません」


「お前は戦術を知らない」西中佐は穏やかに言った。「初めて見るものへの恐怖は、数字に表れない。あの混乱は、確実にあった」


霧島は黙った。


「ただ」と西中佐は続けた。「米軍はすぐに慣れる。二日もすれば対処法を考える。その前に、印象を焼き付けておく必要がある」


「印象、ですか」


「これは得体の知れない兵器だ、という印象を。夜も来る、雨でも来る、どこからでも来る、という印象を」


霧島は少し考えた。


「夜間飛行は難しいです。暗視のポッドを使えば可能ですが、操縦者の目が追いつかない」


「できる範囲でいい。完璧でなくていい。向こうが眠れなければそれで十分だ」


西中佐は夜の海を見た。艦船の灯りはまだそこにあった。昨夜より近かった。


「霧島」


「はい」


「サターンを恐れる名前を、向こうはもう使い始めているそうだ」


「なんと呼んでいますか」


西中佐は少し笑った。


「トイプレーン、だそうだ。玩具の飛行機という意味だ」


霧島は脱力した。「玩具……」


「馬鹿にされているうちが華だ。本当に怖いものは、最初は笑われる」


西中佐は踵を返した。去り際に言った。


「明日も頼む、霧島伍長」


伍長、という言葉が、今日初めてちゃんと聞こえた気がした。



*  *  *


深夜、霧島は松下を起こした。


「夜間偵察をやる。付き合ってくれ」


松下は目を擦りながら起きた。文句は言わなかった。


暗視ポッドを機体に取り付けた。画面の映像が緑がかった色になった。熱源が白く映る設定にした。


「飛ばします」


夜のサターンは、音だけだった。姿が見えない。蜂の羽音だけが暗闇を動く。


画面に海が映った。暗視の映像は昼間より情報量が少なかった。しかし艦船の輪郭はわかった。動いているものと、停まっているものの区別がついた。


「艦船、動きなし。錨泊中と思われます」霧島は松下に伝えた。松下が記録した。


サターンを低く飛ばした。艦船のそばを通過させた。


向こうが気づいたかどうかはわからなかった。しかし甲板の灯りが増えた。対空見張りが増えた、ということかもしれなかった。


霧島はサターンを帰還させた。


夜の偵察は十五分で終わった。


松下が記録帳を閉じながら言った。「向こうは気づきましたかね」


「気づいたかもしれない。気づかなかったかもしれない」


「どっちでもいいんですか」


「どっちでもいい」霧島は言った。「飛んでいたという事実だけで十分だ。向こうが眠れなければ」


松下は少し考えてから、「なるほど」と言った。


霧島は暗視ポッドを機体から外した。次の機体に使いまわすために。


手が、少し震えていた。

昼間の画面の中の顔のせいかどうか、自分でもわからなかった。



*  *  *


USSブランソン、士官室。


「昨夜、未確認飛行物体が艦隊付近を通過した。見張りの報告によれば、音のみで視認できず」


「トイプレーンか」


「おそらく。暗闇の中を飛べるとは思っていなかった」


「偵察か、それとも攻撃か」


「攻撃はなかった。偵察と思われる」


上官が腕を組んだ。


「日本軍が模型飛行機ごときで我々の足を止められると本気で思っているのか」


「しかし昨日のLSTへの被害は——」


「軽微だ。作戦に支障はない。そんなものに怯えていては上陸作戦が笑い話になる」


会議室に沈黙が落ちた。


若い将校が、小さな声で言った。


「ただ……どこから来るかわからない、というのは」


上官が鋭く見た。若い将校は口を閉じた。


「トイプレーンだ」と上官は言った。「玩具だ。気にするな」


会議は終わった。


廊下に出た若い将校は、空を見上げた。

青い空だった。何も飛んでいなかった。

それがかえって、不気味だった。



*  *  *


二日目が終わった。


霧島は記録帳を開いた。


使用機数:五機(偵察三、攻撃二)

残機数:四十一機

操縦器:三組(異常なし)

暗視ポッド:三基(異常なし)

赤外線ポッド:三基(異常なし)

バッテリー:良好(戦車充電、本日一回実施)


その下に、霧島は一行書いた。


「サターンは今日も飛んだ。死ななかった」


書いてから、少し迷って、消さなかった。



*  *  *


消灯の後、大石がまだ起きていた。


「眠れないのか」と霧島は言った。


「眠れます。ただ、もう少し起きていたくて」


「なんで」


大石はしばらく黙った。それから言った。


「サターンを見ていたいんです。暗いとよく見えないけど。そこにいるのがわかるから」


霧島は木箱の方を見た。暗くて、形しかわからなかった。しかし確かにそこにあった。


「今日の攻撃、自分も画面を見ていました」と大石は続けた。「霧島伍長の横で」


「ああ」


「向こうの船に人がいましたよね。見えました」


霧島は答えなかった。


「サターンが当たった時、その人たちはどうなったんですか」


「……わからない」


「わからない、ですよね」大石は静かに言った。「サターンは画面が消えたら終わりだから」


霧島はしばらく黙っていた。


「大石」


「はい」


「それでもサターンを飛ばすのか、と聞いているか」


大石は少し驚いたような間を置いた。


「いいえ」と大石は言った。「飛ばします。飛ばし続けます。ただ……ちゃんと覚えておきたいと思って。向こうにも人がいたということを」


霧島は大石を見た。

十七歳だった。

漁師の倅だった。

難しい言葉は何一つ使わなかった。


「そうだな」と霧島は言った。「覚えておこう」


大石は頷いた。それから機体の方を向いて、また静かになった。


霧島も同じ方向を向いた。


暗闇の中で、四十一機のサターンが眠っていた。

明日も飛ぶ。

また飛ぶ。

画面が消えるまで、飛ぶ。


外で砲声がした。遠かった。

硫黄島の夜は、まだ長かった。




(第二話 了)

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