サターンと名付けよう
昭和二十年の硫黄島を舞台にした、歴史改変(if)を含む物語です。
史実とは異なる展開・結末を含みます。実在の人物・部隊が登場しますが、本作の描写はフィクションです。
全十一話・完結済み。一話あたり3000-5000字程度です。
空を、何かが飛んでいた。
翼があった。胴体があった。しかし操縦席がなかった。人が乗れる大きさではない。そもそも人が乗る必要がない。
エンジン音は小さかった。蜂の羽音を少し太くしたような、頼りない響き。それなのにその機体は風の中で安定していた。傾いても戻る。流されても戻る。まるで自分の意志で空にいるように。
霧島修は目を細めて、それを追った。
青い空だった。硫黄の匂いがした。火山岩の黒い地面に、兵隊たちの影が短く伸びていた。誰も喋らなかった。誰もが、ただ見上げていた。銃を持ったまま。飯盒を持ったまま。手を止めたまま。
西竹一中佐が操縦器を傾けると、その機体は旋回した。翼を傾けて緩やかな弧を描いて、また戻ってくる。低く降りてきて、また上昇した。まるで遊んでいるようだった。
「面白い」
西中佐が言った。独り言のような、しかしよく通る声だった。
「本当に自由に飛ぶな。こいつは」
兵隊の一人が、思わず手を伸ばした。機体が低く降りてきた瞬間に。届くはずもないのに。その手が滑稽で、しかし霧島には笑えなかった。
わかる気がしたから。
霧島は西中佐の横顔を見た。中佐は笑っていた。ロサンゼルスの写真で見たあの顔と、同じ笑い方だった。馬に乗って金メダルを獲った男の、あの顔と。
「霧島」
西中佐が前を向いたまま言った。
「はい」
「これを飛ばす許可を求めてきた時、お前はどんな顔をしていたか、自分でわかるか」
「……わかりません」
「死にそうな顔をしていた」
西中佐は笑った。機体から目を離さないまま。
「それでいて目だけが生きていた。だから許可した」
霧島は何も言えなかった。言葉を探したが、見つからなかった。
機体が上昇した。火山岩の稜線を越えて、海の方へ向かいかけて、また戻ってくる。その動きに無駄がなかった。意志があるように見えた。
「名前はなんという」
「わかりません。説明書に番号らしきものはありましたが、自分には読めない部分が多く——」
「ならば俺が決める」
西中佐は操縦器を小さく動かした。機体が応えるように翼を揺らした。
「サターンだ。こいつの名はサターンとしよう」
サターン。
土星。ジュピターの隣の星。
霧島は空を見上げた。
西中佐がそう呼ぶなら、そうなのだろう。中佐の愛馬の名がジュピターだということは、島の誰もが知っていた。
「はい」と霧島は言った。「サターンです」
風が吹いた。サターンは風の中で翼を傾けて、それでも落ちなかった。
霧島はその時初めて思った。
——こいつは、死なない。
* * *
三日前
木箱を最初に見つけたのは、大石だった。
「霧島伍長。これ、なんですか」
十七歳の大石利夫は、壕の奥に積まれた木箱の前に立って首を傾げていた。漁師の倅らしい日焼けした顔に、子供みたいな表情を浮かべて。
霧島は手を止めた。通信機器の点検の途中だった。
「目録にないやつか」
「はい。昨日の夜、気がついたら増えてて。二十箱くらいあります」
霧島は立ち上がった。
壕の奥に積まれた木箱は、確かに見覚えがなかった。縦横それぞれ一メートルほど。板の継ぎ目が妙に綺麗だった。日本の木工ではない、と霧島は思った。釘の打ち方が違う。
「開けてみるか」
「いいんですか」
「目録にないなら調べるしかないだろう」
霧島は銃剣の柄で蓋の継ぎ目をこじった。思いのほかあっさり開いた。
中には、緩衝材に包まれた機体が、整然と収められていた。
翼があった。胴体があった。プロペラがあった。しかし操縦席がなかった。人が乗れる大きさではない。全長はおよそ一メートル半。翼幅も同じくらい。素材は——
霧島は片手で持ち上げてみた。
軽かった。呆れるほど軽かった。
「段ボールか、これ」
大石が目を丸くした。「段ボール? 飛行機が?」
「段ボールと、何か別の素材だ。フレームだけ金属っぽい。あとは……」
霧島は機体をひっくり返した。腹の部分に、小さな基板が収まっていた。
息を呑んだ。
回路があった。精巧な、見たことのない回路が。配線の細さが尋常ではなかった。基板の表面に、霧島には読めない文字が印刷されていた。英語ではない。数字と記号の羅列。
「……なんだ、これは」
電気工学を四年学んだ霧島には、これが何をするものかの輪郭だけはわかった。
無線受信機。小型のモーター制御基板。そして——
「飛ぶ。これは飛ぶための機械だ」
「飛ぶって、自分で飛ぶんですか?」
「誰かが操縦するんだろう。ただ——誰かが乗るわけじゃない」
大石はしばらく機体と霧島の顔を交互に見ていた。
「どっから来たんですか、これ」
霧島は答えなかった。
答えられなかった。
* * *
別の木箱に、説明書らしきものが入っていた。
薄い冊子だった。表紙に印刷された文字は、霧島にはほとんど読めなかった。しかし図解が豊富で、絵を見ているうちに、おおよその仕組みはわかってきた。
田村一等兵が頭を覗かせた。郵便配達をしていたという男で、地図と方向感覚には異様に長けていた。
「霧島伍長、なんですか、それ」
「無人の飛行機械だ。この器械で操縦する」
霧島は操縦器を持ち上げた。小箱に棒が二本生えたような形をしていた。表面にボタンがいくつか並んでいる。
「無人……パイロットなしで飛ぶんですか」
「操縦者は地上にいる。これで動かす。目はこれだ」
機体の鼻先に、小さなレンズがついていた。説明書の図解によれば、映像をこの操縦器の画面に送ってくるらしかった。
松下上等兵が腕を組んで唸った。写真館の息子で、画像を読む目は隊でいちばんだった。
「映像が送れるなら偵察もできますね」
「そうなる」
「爆弾も積めそうですね、腹の空間に」
霧島は機体の胴体を見た。確かに、ある程度の重量物を搭載できそうな空間があった。
「……積めるな」
沈黙があった。
大石が静かに言った。
「でもパイロットはいない」
誰も何も言わなかった。
大石の言いたいことは、全員にわかった。
* * *
霧島が西中佐に報告したのは、その日の夕方だった。
西中佐は機体を手に取って、しばらく黙っていた。ひっくり返したり、翼を指で弾いたりした。それから操縦器を持って、重さを確かめるように何度か傾けた。
「飛ぶと思うか」
「飛ぶと思います。電源の入れ方がわかれば」
「わかるか」
「説明書と基板の構造から、おそらく」
西中佐はしばらく考えた。それから言った。
「飛ばしてみろ」
「よろしいのですか」
「正体がわからないものは判断できない。飛ぶかどうか確かめてから、栗林中将に報告する」
西中佐は機体を霧島に返した。
「一つ聞くが、霧島」
「はい」
「お前はこれを何だと思う」
霧島は少し考えた。正直に言うことにした。
「わかりません。どこから来たかも、誰が作ったかも。ただ——」
西中佐が待った。
「使えます。確実に、使えます」
西中佐は頷いた。それ以上は聞かなかった。
* * *
三日かかった。
説明書を読み込んで、回路の構造を追って、電源系統を理解するのに。霧島は二日間ほとんど眠らなかった。田村と松下が交代で付き合った。大石は黙って茶を持ってきた。
バッテリーは満充電の状態で木箱に収まっていた。しかし充電器を発電機に繋いだ瞬間、充電器は煙を上げて破裂した。発電機の出力が荒すぎた。
「充電できない」と松下が言った。
「今あるバッテリーで飛ばすしかない」と霧島は言った。「一回一回が本番だ」
大石が機体の数を数えた。全部で五十二機。
「五十二回しか飛ばせない、ということですか」
「偵察なら途中で帰還させられる。攻撃に使えば——その機体は戻らない」
四人は顔を見合わせた。
田村が言った。「一機一機が、命ですね」
命、という言葉を使ったことに、田村自身が少し驚いたような顔をした。機械に命という言葉を使ったことに。しかし誰も訂正しなかった。
* * *
三日目の朝、霧島は西中佐に許可を求めた。
中佐の天幕を訪ねた時、自分がどんな顔をしていたか、霧島には想像もできなかった。後になって、死にそうな顔をしていたと言われた。それでいて目だけが生きていた、とも。
「飛ばしてみます。見ていただけますか」
西中佐は二つ返事で外に出た。
霧島は機体を地面に置いた。大石が翼の角度を確認した。田村が風向きを読んだ。松下が操縦器の画面を覗き込んだ。
霧島は操縦器のスロットルを、説明書に書かれた通りにゆっくりと上げた。
モーターが回り始めた。あの音が、その時初めて聞こえた。蜂の羽音を少し太くしたような音。
機体が浮いた。
ふわり、という言葉がある。それ以外に表現できなかった。段ボールと金属の塊が、まるで紙切れが風に乗るように、地面を離れた。
大石が声を上げた。田村が笑った。松下が画面を凝視した。
霧島は操縦器を握ったまま、動けなかった。
飛んでいる。
飛んでいる。
誰も乗っていないのに。
操縦器を傾けた。機体が右に曲がった。戻した。機体が正面を向いた。スロットルを上げた。機体が上昇した。
——手の中に空がある。
そんな感覚だった。おかしな感覚だった。しかし確かにそう感じた。
しばらく操縦していると、西中佐が隣に来た。
「貸せ」
霧島は操縦器を渡した。
西中佐は操縦器を持った瞬間、馬の手綱を握る時と同じ顔をした、と霧島は思った。何かを感じ取ろうとする顔を。
スロットルを上げた。機体が加速した。傾けた。機体が旋回した。
「面白い」
西中佐が笑った。
「本当に自由に飛ぶな、こいつは」
気がつくと、周囲に兵隊たちが集まっていた。壕から出てきた者、通りかかった者、遠くから走ってきた者。十人、二十人。誰もが空を見上げていた。
硫黄の匂いがした。
遠くに砲声が聞こえた。
それでも誰も動かなかった。
サターンが島の上空を、自由に飛んでいた。
* * *
「名前はなんという」
しばらくして、西中佐が言った。機体を着地させた後、操縦器を霧島に返しながら。
「わかりません。型番らしき数字はありましたが——」
「ならば俺が決める」
西中佐は空を見上げた。機体はもう地面にいたが、中佐の目はまだどこか遠くを見ていた。
「サターンだ。こいつの名はサターンとしよう」
霧島の隣で大石が首を傾けた。「サターン?」
「俺の馬はジュピターという。木星だ」と西中佐は言った。「隣の星の名をもらえ」
土星。ジュピターの隣の星。
霧島は機体を見た。段ボールと軽金属でできた、頼りない翼。しかし今日の空をあれほど自由に飛んだ翼。
「サターンです」と霧島は言った。「わかりました」
大石がその名を繰り返した。「サターン……」
田村が笑った。「いい名前だ」
松下は何も言わなかったが、機体をそっと撫でた。
* * *
その夜、西中佐は栗林中将に報告した。霧島は入口の外で待っていた。天幕の中の声は聞こえなかった。
しばらくして西中佐が出てきた。
「中将はなんと」
西中佐は少し間を置いた。
「軍令部には報告するなと言われた」
「なぜですか」
「取り上げられるからだ、とのことだ」
霧島は黙った。
「霧島」
「はい」
「サターンの運用は、特務として俺の指揮下に置く。お前たちの部隊だ。名前を決めろ」
「特務飛行隊、でよろしいでしょうか」
「それでいい」
西中佐は夜空を見た。星が出ていた。硫黄島の夜は、不思議なほど星が近かった。
「土星はどの星だ」
霧島は空を見上げた。少し考えて、一点を指した。
「あれです。あの黄みがかった星」
西中佐はしばらくその星を見ていた。
「ジュピターよりくすんでいるな」
「土星は輪があります。遠くからだと、その分だけ光が散ります」
「そうか」
中佐は静かに笑った。
「輪を持った星か。悪くない」
その夜、霧島は壕に戻って木箱の前に座った。五十二機のサターンが、緩衝材に包まれて眠っていた。
大石がバッテリーの残量を一機ずつ確認していた。丁寧に、大事にするように。
「霧島伍長」
「なんだ」
「これ、全部飛ぶんですか。最後まで」
霧島はしばらく考えた。
「飛ぶ。全部飛ばす」
「そうですよね」
大石は次の機体に手を伸ばした。確かめるように、その翼を触った。
「死なないんですよね、こいつら」
霧島は答えなかった。
答えの代わりに、木箱の蓋をそっと閉めた。
(第一話 了)




