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硫黄島のサターン  作者: ヒロセカズヒ
1/11

サターンと名付けよう

昭和二十年の硫黄島を舞台にした、歴史改変(if)を含む物語です。

史実とは異なる展開・結末を含みます。実在の人物・部隊が登場しますが、本作の描写はフィクションです。

全十一話・完結済み。一話あたり3000-5000字程度です。

空を、何かが飛んでいた。


翼があった。胴体があった。しかし操縦席がなかった。人が乗れる大きさではない。そもそも人が乗る必要がない。

エンジン音は小さかった。蜂の羽音を少し太くしたような、頼りない響き。それなのにその機体は風の中で安定していた。傾いても戻る。流されても戻る。まるで自分の意志で空にいるように。


霧島修は目を細めて、それを追った。


青い空だった。硫黄の匂いがした。火山岩の黒い地面に、兵隊たちの影が短く伸びていた。誰も喋らなかった。誰もが、ただ見上げていた。銃を持ったまま。飯盒を持ったまま。手を止めたまま。


西竹一中佐が操縦器を傾けると、その機体は旋回した。翼を傾けて緩やかな弧を描いて、また戻ってくる。低く降りてきて、また上昇した。まるで遊んでいるようだった。


「面白い」


西中佐が言った。独り言のような、しかしよく通る声だった。


「本当に自由に飛ぶな。こいつは」


兵隊の一人が、思わず手を伸ばした。機体が低く降りてきた瞬間に。届くはずもないのに。その手が滑稽で、しかし霧島には笑えなかった。

わかる気がしたから。


霧島は西中佐の横顔を見た。中佐は笑っていた。ロサンゼルスの写真で見たあの顔と、同じ笑い方だった。馬に乗って金メダルを獲った男の、あの顔と。


「霧島」


西中佐が前を向いたまま言った。


「はい」


「これを飛ばす許可を求めてきた時、お前はどんな顔をしていたか、自分でわかるか」


「……わかりません」


「死にそうな顔をしていた」


西中佐は笑った。機体から目を離さないまま。


「それでいて目だけが生きていた。だから許可した」


霧島は何も言えなかった。言葉を探したが、見つからなかった。


機体が上昇した。火山岩の稜線を越えて、海の方へ向かいかけて、また戻ってくる。その動きに無駄がなかった。意志があるように見えた。


「名前はなんという」


「わかりません。説明書に番号らしきものはありましたが、自分には読めない部分が多く——」


「ならば俺が決める」


西中佐は操縦器を小さく動かした。機体が応えるように翼を揺らした。


「サターンだ。こいつの名はサターンとしよう」


サターン。

土星。ジュピターの隣の星。


霧島は空を見上げた。


西中佐がそう呼ぶなら、そうなのだろう。中佐の愛馬の名がジュピターだということは、島の誰もが知っていた。


「はい」と霧島は言った。「サターンです」


風が吹いた。サターンは風の中で翼を傾けて、それでも落ちなかった。


霧島はその時初めて思った。


——こいつは、死なない。



*  *  *

三日前


木箱を最初に見つけたのは、大石だった。


「霧島伍長。これ、なんですか」


十七歳の大石利夫は、壕の奥に積まれた木箱の前に立って首を傾げていた。漁師の倅らしい日焼けした顔に、子供みたいな表情を浮かべて。


霧島は手を止めた。通信機器の点検の途中だった。


「目録にないやつか」


「はい。昨日の夜、気がついたら増えてて。二十箱くらいあります」


霧島は立ち上がった。


壕の奥に積まれた木箱は、確かに見覚えがなかった。縦横それぞれ一メートルほど。板の継ぎ目が妙に綺麗だった。日本の木工ではない、と霧島は思った。釘の打ち方が違う。


「開けてみるか」


「いいんですか」


「目録にないなら調べるしかないだろう」


霧島は銃剣の柄で蓋の継ぎ目をこじった。思いのほかあっさり開いた。


中には、緩衝材に包まれた機体が、整然と収められていた。


翼があった。胴体があった。プロペラがあった。しかし操縦席がなかった。人が乗れる大きさではない。全長はおよそ一メートル半。翼幅も同じくらい。素材は——


霧島は片手で持ち上げてみた。


軽かった。呆れるほど軽かった。


「段ボールか、これ」


大石が目を丸くした。「段ボール? 飛行機が?」


「段ボールと、何か別の素材だ。フレームだけ金属っぽい。あとは……」


霧島は機体をひっくり返した。腹の部分に、小さな基板が収まっていた。


息を呑んだ。


回路があった。精巧な、見たことのない回路が。配線の細さが尋常ではなかった。基板の表面に、霧島には読めない文字が印刷されていた。英語ではない。数字と記号の羅列。


「……なんだ、これは」


電気工学を四年学んだ霧島には、これが何をするものかの輪郭だけはわかった。

無線受信機。小型のモーター制御基板。そして——


「飛ぶ。これは飛ぶための機械だ」


「飛ぶって、自分で飛ぶんですか?」


「誰かが操縦するんだろう。ただ——誰かが乗るわけじゃない」


大石はしばらく機体と霧島の顔を交互に見ていた。


「どっから来たんですか、これ」


霧島は答えなかった。

答えられなかった。



*  *  *


別の木箱に、説明書らしきものが入っていた。


薄い冊子だった。表紙に印刷された文字は、霧島にはほとんど読めなかった。しかし図解が豊富で、絵を見ているうちに、おおよその仕組みはわかってきた。


田村一等兵が頭を覗かせた。郵便配達をしていたという男で、地図と方向感覚には異様に長けていた。


「霧島伍長、なんですか、それ」


「無人の飛行機械だ。この器械で操縦する」


霧島は操縦器を持ち上げた。小箱に棒が二本生えたような形をしていた。表面にボタンがいくつか並んでいる。


「無人……パイロットなしで飛ぶんですか」


「操縦者は地上にいる。これで動かす。目はこれだ」


機体の鼻先に、小さなレンズがついていた。説明書の図解によれば、映像をこの操縦器の画面に送ってくるらしかった。


松下上等兵が腕を組んで唸った。写真館の息子で、画像を読む目は隊でいちばんだった。


「映像が送れるなら偵察もできますね」


「そうなる」


「爆弾も積めそうですね、腹の空間に」


霧島は機体の胴体を見た。確かに、ある程度の重量物を搭載できそうな空間があった。


「……積めるな」


沈黙があった。


大石が静かに言った。


「でもパイロットはいない」


誰も何も言わなかった。

大石の言いたいことは、全員にわかった。



*  *  *


霧島が西中佐に報告したのは、その日の夕方だった。


西中佐は機体を手に取って、しばらく黙っていた。ひっくり返したり、翼を指で弾いたりした。それから操縦器を持って、重さを確かめるように何度か傾けた。


「飛ぶと思うか」


「飛ぶと思います。電源の入れ方がわかれば」


「わかるか」


「説明書と基板の構造から、おそらく」


西中佐はしばらく考えた。それから言った。


「飛ばしてみろ」


「よろしいのですか」


「正体がわからないものは判断できない。飛ぶかどうか確かめてから、栗林中将に報告する」


西中佐は機体を霧島に返した。


「一つ聞くが、霧島」


「はい」


「お前はこれを何だと思う」


霧島は少し考えた。正直に言うことにした。


「わかりません。どこから来たかも、誰が作ったかも。ただ——」


西中佐が待った。


「使えます。確実に、使えます」


西中佐は頷いた。それ以上は聞かなかった。



*  *  *


三日かかった。


説明書を読み込んで、回路の構造を追って、電源系統を理解するのに。霧島は二日間ほとんど眠らなかった。田村と松下が交代で付き合った。大石は黙って茶を持ってきた。


バッテリーは満充電の状態で木箱に収まっていた。しかし充電器を発電機に繋いだ瞬間、充電器は煙を上げて破裂した。発電機の出力が荒すぎた。


「充電できない」と松下が言った。


「今あるバッテリーで飛ばすしかない」と霧島は言った。「一回一回が本番だ」


大石が機体の数を数えた。全部で五十二機。


「五十二回しか飛ばせない、ということですか」


「偵察なら途中で帰還させられる。攻撃に使えば——その機体は戻らない」


四人は顔を見合わせた。


田村が言った。「一機一機が、命ですね」


命、という言葉を使ったことに、田村自身が少し驚いたような顔をした。機械に命という言葉を使ったことに。しかし誰も訂正しなかった。



*  *  *


三日目の朝、霧島は西中佐に許可を求めた。


中佐の天幕を訪ねた時、自分がどんな顔をしていたか、霧島には想像もできなかった。後になって、死にそうな顔をしていたと言われた。それでいて目だけが生きていた、とも。


「飛ばしてみます。見ていただけますか」


西中佐は二つ返事で外に出た。


霧島は機体を地面に置いた。大石が翼の角度を確認した。田村が風向きを読んだ。松下が操縦器の画面を覗き込んだ。


霧島は操縦器のスロットルを、説明書に書かれた通りにゆっくりと上げた。


モーターが回り始めた。あの音が、その時初めて聞こえた。蜂の羽音を少し太くしたような音。


機体が浮いた。


ふわり、という言葉がある。それ以外に表現できなかった。段ボールと金属の塊が、まるで紙切れが風に乗るように、地面を離れた。


大石が声を上げた。田村が笑った。松下が画面を凝視した。


霧島は操縦器を握ったまま、動けなかった。


飛んでいる。

飛んでいる。

誰も乗っていないのに。


操縦器を傾けた。機体が右に曲がった。戻した。機体が正面を向いた。スロットルを上げた。機体が上昇した。


——手の中に空がある。


そんな感覚だった。おかしな感覚だった。しかし確かにそう感じた。


しばらく操縦していると、西中佐が隣に来た。


「貸せ」


霧島は操縦器を渡した。


西中佐は操縦器を持った瞬間、馬の手綱を握る時と同じ顔をした、と霧島は思った。何かを感じ取ろうとする顔を。


スロットルを上げた。機体が加速した。傾けた。機体が旋回した。


「面白い」


西中佐が笑った。


「本当に自由に飛ぶな、こいつは」


気がつくと、周囲に兵隊たちが集まっていた。壕から出てきた者、通りかかった者、遠くから走ってきた者。十人、二十人。誰もが空を見上げていた。


硫黄の匂いがした。

遠くに砲声が聞こえた。

それでも誰も動かなかった。


サターンが島の上空を、自由に飛んでいた。



*  *  *


「名前はなんという」


しばらくして、西中佐が言った。機体を着地させた後、操縦器を霧島に返しながら。


「わかりません。型番らしき数字はありましたが——」


「ならば俺が決める」


西中佐は空を見上げた。機体はもう地面にいたが、中佐の目はまだどこか遠くを見ていた。


「サターンだ。こいつの名はサターンとしよう」


霧島の隣で大石が首を傾けた。「サターン?」


「俺の馬はジュピターという。木星だ」と西中佐は言った。「隣の星の名をもらえ」


土星。ジュピターの隣の星。


霧島は機体を見た。段ボールと軽金属でできた、頼りない翼。しかし今日の空をあれほど自由に飛んだ翼。


「サターンです」と霧島は言った。「わかりました」


大石がその名を繰り返した。「サターン……」

田村が笑った。「いい名前だ」

松下は何も言わなかったが、機体をそっと撫でた。



*  *  *


その夜、西中佐は栗林中将に報告した。霧島は入口の外で待っていた。天幕の中の声は聞こえなかった。


しばらくして西中佐が出てきた。


「中将はなんと」


西中佐は少し間を置いた。


「軍令部には報告するなと言われた」


「なぜですか」


「取り上げられるからだ、とのことだ」


霧島は黙った。


「霧島」


「はい」


「サターンの運用は、特務として俺の指揮下に置く。お前たちの部隊だ。名前を決めろ」


「特務飛行隊、でよろしいでしょうか」


「それでいい」


西中佐は夜空を見た。星が出ていた。硫黄島の夜は、不思議なほど星が近かった。


「土星はどの星だ」


霧島は空を見上げた。少し考えて、一点を指した。


「あれです。あの黄みがかった星」


西中佐はしばらくその星を見ていた。


「ジュピターよりくすんでいるな」


「土星は輪があります。遠くからだと、その分だけ光が散ります」


「そうか」


中佐は静かに笑った。


「輪を持った星か。悪くない」



その夜、霧島は壕に戻って木箱の前に座った。五十二機のサターンが、緩衝材に包まれて眠っていた。


大石がバッテリーの残量を一機ずつ確認していた。丁寧に、大事にするように。


「霧島伍長」


「なんだ」


「これ、全部飛ぶんですか。最後まで」


霧島はしばらく考えた。


「飛ぶ。全部飛ばす」


「そうですよね」


大石は次の機体に手を伸ばした。確かめるように、その翼を触った。


「死なないんですよね、こいつら」


霧島は答えなかった。


答えの代わりに、木箱の蓋をそっと閉めた。




(第一話 了)

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