第七話 父さんと呼ぶのは
「出資契約で、経営には口を出さないことになってる」
俺は、父の向かいの椅子を引いた。
「それ以前に、助ける義理がある?」
父は、湯呑みから目を上げなかった。
「農道で、父さんが何て言われてたか。昨日の夜、母さんが何をされてたか」
「……」
「それでも?」
父は答えない。湯呑みの縁を、親指で何度もなぞっている。
「……そうだな。そうなんだが」
「兄さんのところも、ローンがあるらしくてな。崇史の」
「知ってる。保証人だって、正月に自分で言ってた」
「……ああ」
言いかけたまま、その先は出てこなかった。
その日から、祖父か祖母のどちらかが、毎日うちの玄関に顔を出すようになった。
*
瑠衣との式の日取りを相談するので、俺はまだ実家に残っていた。
その週のうちに、沖縄行きの航空券を三人分取った。
「一か月くらい、向こうで暖かくしてよう」
「でも、お義父さんたちが……」
「父さんも行くって。さっき聞いた」
母が台所から顔を出して、父を見た。父は新聞を広げたまま、小さく頷く。
向こうの宿には、屋内の温水プールがあった。
母は毎朝、プールの端から端まで、首を上げた平泳ぎで往復する。父は最初の一週間、プールサイドの寝椅子で新聞を広げているだけだった。
二週目に入って、ようやく父が水に足を入れた。
「ぬるいな」
「温水だから」
「……そうか。温水か」
父はそのまま膝まで浸かって、しばらく突っ立っていた。母が、水の中から笑った。
「敬三さん、泳げるの」
「昔はな。……昔は、川で」
夕方になると、父は一人で浜まで歩いていって、暗くなるまで戻ってこなかった。
プールサイドに脱いだ俺のサンダルが、濡れて色を変えている。
伯父から電話が来たのは、その週の終わりだ。
「敬三の家、誰もいないじゃないか。どこにいるんだ」
「沖縄。泳いでる」
「は? 泳いで……」
電話の向こうで、伯父が言葉を探しているのが分かった。俺は、そのまま通話を切った。
*
二月の下旬、朝飯の途中で、父のスマホが鳴った。
「母さん? ……え」
父の顔から、色が引いていく。スピーカーにしていないのに、祖母の声がこちらまで漏れてきた。
「お父さんがね、脳梗塞で倒れたの。敬三、すぐ帰ってきて」
父は箸を置いた。部屋に戻って、ボストンバッグに服を詰めはじめる。
「父さん。出てくるとき、じいちゃんは元気だったよ」
「母さんが言ってるんだぞ」
「……」
「母さんが、倒れたって言ってるんだ」
シャツをたたむ父の手が、三回続けて袖を取り落とす。
俺は母と目を見交わして、自分の荷物をまとめにかかった。
「征吾、あんたも来るの」
「行くよ。三人で出てきたんだから」
帰りの飛行機で、父は一度も窓の外を見ない。
本家の居間の戸を開けると、煙草の煙が天井の近くに溜まっていた。
祖父は、いつもの座椅子にいた。灰皿に、吸い殻が三本。
その横に、伯父と伯母と崇史が並んで座っている。
父が、戸口で立ち止まった。
「父さん……。元気、そうで」
祖父は煙を吐いて、父を横目で見た。
「なんだ。俺が死ねば安心だったか」
「そんな……」
「家の者がこれだけ心配してるのに、お前は旅行か。いい身分だな」
*
祖父が、顎で崇史を促した。
崇史が、座卓の上に紙を三枚揃えて置き、父の前へ滑らせる。
「贈与契約書」
一番上の文字を、崇史は自分で読み上げた。
「征吾の資産は調べた。数十億あるんだろ。従兄の俺に5億は当然だろ」
「叔父さんから言えば、あいつも断れないって。親なんだから」
崇史は、うちの玄関で額を床に押しつけていたのと同じ顔で、笑っていた。
祖父が、灰皿で煙草をもみ消す。
「敬三。征吾にサインさせろ。そうすれば、崇史の仕事のことはもうお前に頼まん」
伯母が、膝の上でハンカチを握りしめていた。伯父は、紙のほうを見ていない。
父は、紙を取り上げた。
一枚目。二枚目。
「ほら、そこ。名前のとこ、ちゃんと征吾になってるだろ」
崇史が、身を乗り出して指をさす。
贈与者の欄に、俺の名前が印字されている。その下の署名欄は、空白のままだ。
父は三枚目まで読んで、端を揃えた。それから、両手で持ち直した。
紙の裂ける音が、居間に響いた。
父は裂いた紙を重ねて、もう一度裂く。
「一円もやらん」
声は、大きくなかった。
崇史が、口を開けたまま固まっている。伯母が「敬三さん」と言いかけて、伯父に袖を引かれた。
祖父の手が、座卓を叩いた。灰皿が跳ねて、灰がこぼれる。
「敬三」
「……」
「今日、あいつにサインさせないなら、お前はもう息子じゃない」
父は、裂いた紙を座卓の端に置いた。
正座のまま、祖父に向き直る。両手を、膝の上に揃えた。
「父さん」
一度、息を吸う。
「父さんと呼ぶのは、これが最後です」
父は、畳に手をついて頭を下げた。
それから立ち上がって、戸口のほうへ歩いていった。
「敬三、あんた、何てことを」
祖母の声が追いかける。祖父は、何も言わなかった。
母が、父の背中だけを見ていた。
*
戸口で、父は立ち止まった。
振り返らない。土間の冷たい空気のほうへ、独り言のように言った。
「……俺は、好かれてなかったんだな」
誰も、返事をしなかった。
父は靴を履いた。踵を、指で押しこむ。
戸を開けると、二月の風が入ってきた。
「もっと辛いと思っていた。……楽だ」




