第六話 君と俺のボス
廊下へ出かけた崇史が、襖の手前で振り返った。
「征吾。お前、こんな人を賃貸のワンルームに住まわせる気かよ」
サインをねだっていた声が、ぱたりとやむ。
「先に言っとくけど、うちの家系にヒモはいないからな」
それだけ投げつけて、崇史は廊下へ飛び出していった。
すぐに、声が戻ってくる。
「社長、偶然ですね。いや、ちょうど親戚が集まってまして。一杯だけ、ぜひ」
「いや、今日は家族と食事に来ていまして」
「ほんの一杯ですから。うちの者、みんな社長のこと尊敬してるんですよ」
背中を押されるようにして、50代くらいの背広の男が座敷に入ってきた。
崇史が、自分の盃を両手で差し出す。男は困った顔のまま受け取り、上座へ向かって軽く会釈をした。
「キオラ配信の脇坂です。皆さんの席に、お邪魔をしてしまって……」
言いかけたところで、男の目が座敷の隅に止まった。
盃を、卓に置く。
畳を踏んで、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「鷺沢さん。こんな所で」
男は俺の前で膝をついて、深く頭を下げた。
「どなた?」
「脇坂です。昨年春に視察に来ていただいたとき、社内をご案内しました」
「……ああ」
窓際の会議室で、名刺を両手で出してきた人がいた気がする。それくらいだ。
崇史が慌てて、脇坂の横に膝をついた。
「社長、人違いですって。こいつ、底辺のサラリーマンですよ。俺の従弟で、ただの」
「君」
脇坂の声が、低くなった。
「俺の目が節穴だと言いたいのか」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「鷺沢さんは、うちの筆頭株主だ。つまり君と俺のボスだ」
崇史の口が、開いたまま閉じなくなった。
「……え。筆頭、って」
「そのままの意味だ」
紬のスマホが、また持ち上がる。今度は、敦志が慌ててその腕を押さえた。
脇坂はもう一度、俺に頭を下げた。
「家族を待たせておりますので、今日はこれで。失礼いたしました」
襖が閉まる。
誰も、しばらく箸を動かさなかった。徳利の首を握ったままの年寄りが、一人。
最初に動いたのは、伯父だった。
座布団から腰を浮かせて、うちの両親の卓のほうへ、膝で寄ってくる。
「敬三、昌代さん」
伯父は、父と母の顔を交互に見た。
「……立派な息子さんで」
伯母が、徳利を持って立ち上がった。
母の前に膝をついて、空になっていた母の杯に酒を注ぐ。
母は、注がれた杯を見下ろしたまま、手を出さなかった。
それを合図に、親戚が両親の卓へ集まってくる。
「敬三さん、いい息子さんを持ったねえ」
「昌代さん、ちょっと、こっちにも座ってよ」
「征吾くんは、昔から頭のいい子だったもんなあ」
父は差し出される盃を一つずつ受けて、そのたびに曖昧に頭を下げる。
崇史は、脇坂が出ていった襖を見たまま、まだ膝をついていた。
上座の祖父だけが、誰とも目を合わせずに盃を口へ運んでいる。
*
小正月が明けてすぐの昼、家の前に黒いセダンが停まった。
玄関の戸を開けると、崇史が立っていた。
スーツじゃない。ジャンパーの襟が、片方だけ内側に折れている。
「征吾、頼む」
崇史は、玄関のたたきに膝をついた。そのまま、額を床に押しつける。
「会社から通知が来た。二月末で契約は終わりだって」
「……」
「切らないでくれ。頭金、入れたばっかりなんだよ。ローン、どうすんだよ」
「出資契約で、経営には口を出さないことになってる」
「そんなの、お前が一言言えば済む話だろ」
崇史が顔を上げた。
「兄弟だろ。子どもの頃から、ずっと一緒だっただろ。昔のは、全部冗談じゃん。なあ」
「……」
「頼むって。聞いてくれるまで、ここ、動かないからな」
崇史はもう一度、額を床に押しつけた。
「死ぬまで土下座する」
「どうぞ」
俺は戸を開けたまま、二階の自分の部屋へ上がった。
ヘッドセットをつけて、友達とオンラインの対戦を一試合。負けて、もう一試合。
30分ほどして、水を取りに下りる。
玄関には、誰もいなかった。たたきに、乾いた泥が少し残っている。
*
夜になって、祖父母と伯父夫婦が揃ってやってきた。
うちの居間は、6人も入ると狭い。こたつを囲む座布団が足りなくて、母が客間から二枚運んできた。
テレビのリモコンは、よく押すボタンの文字だけが薄れて読めなくなっている。
祖父が、父を見た。
「お前の育て方だ」
「父さん、それは……」
「親戚の子が困ってるのに、知らん顔をする。そういう子に育てたのは、お前だ」
祖母が、膝を進める。
「敬三、甥のことなんだから。あんたは叔父さんでしょう。叔父さんが何とかしてあげなくて、誰がするの」
伯母は母の手を取って、声を詰まらせていた。
「昌代さん。うちの子はね、正直者なのよ。会社で誰かに、ひどいこと言われたに決まってる。お願い、征吾くんに一言だけ」
母は、取られた手を引くこともできずに俯いている。
俺はスマホを出して、根岸とのトーク画面を開いた。正月2日の、あの日のままの画面だ。
こたつの上に置いて、伯母のほうへ向ける。
『配信実績が振るいません』
伯母が、画面を覗きこむ。その次の一行まで、目が下りていった。
母の手を握っていた指が、ほどけた。伯母はそれきり、何も言わなかった。
祖父は、画面を見もしない。
「征吾、話だけでも聞いてやってくれ。あいつも、反省してるんだ」
伯父が言ったが、こたつの天板を見たままだった。
「敬三」
「……はい」
「親に逆らう気か」
「いえ、私は……」
「長男の孫を見捨てる家があるか」
父の膝の上で、両手が握られては、また開かれる。
俺は立ち上がった。
「寝る」
背中で、祖父が何か言っていた。階段の途中で、それも聞こえなくなった。
*
翌朝、台所に下りると、父が一人でテーブルについていた。
湯呑みが二つ。片方は、もう湯気が立っていない。
父は俺の顔を見ると、何か言いかけて、やめた。
湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っている。
「征吾」
「うん」
「……助けてやれないか」




