↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/8

第五話 あなた、誰?

襖が開いたのは、祖父の盃が三杯目に入ったところだった。


「来ちゃった」


ベージュのロングコートに、白いマフラー。


立ち止まった拍子に、ベルトで絞った腰の線がすっと伸びた。マフラーをほどく指先ひとつで、座敷の視線が全部、入口へ持っていかれる。


一拍おいて、座敷が「わっ」と鳴った。


紬と敦志が、卓の下からスマホを掲げる。


「本物だ」


「やば、本物じゃん!」


「ほら、ほんとに来たわよ。瑠衣ちゃんよ」


上の叔母が腰を浮かせて、そのまま上座のほうへ向き直った。


「重康(しげやす)兄さん、おめでとう」


「登美枝(とみえ)さん、すごいじゃない。女優さんがお嫁さんなんて」


下の叔母も、膝で伯母のほうへにじり寄る。


「さっき仕事だって言ってたのに。サプライズだったのね、崇史くん」


「いやあ、まあ、崇史が」


伯父が座ったまま、何度も頭を下げた。


伯母は立ち上がって、着物の衿もとを直している。直す必要のない衿を、何度も。


「この子ったら、何にも言わないんだから。ほんとに」


分家の年寄りが、徳利を持って伯父の前へ回った。


「重康、これで鷺沢の家も安泰だなあ。めでたい」


「いやいや、そんな」


上座で、祖父の口元がゆるんでいた。祖母が祖父の盃に、黙って酒を足す。


「崇史。いい嫁を連れてきたな」


「ほんとに。崇史、早くこっちへお通ししなさいよ。寒いところで立たせて」


祖父の声に、祖母がすぐ続いた。


拍手まで起きた。誰が始めたのか分からない、ばらばらの拍手。


崇史だけが、座布団の上から動いていなかった。顔から、血の色が抜けている。


「崇史くん、何してるの。迎えに行きなさい」


下の叔母に肩を押されて、崇史がようやく立ち上がった。


    *


座敷を横切る崇史の足取りは、畳の目を一つずつ数えているように遅かった。


入口の前で止まる。笑顔を作ろうとして、作りきれていない。


「……乙部さん、どうして」


瑠衣が、崇史の顔を見た。首を、ほんの少し傾ける。


「あなた、誰?」


座敷の音が、止まった。


祝いの言葉を言いかけていた口が、そのまま開いている。徳利を傾けかけた年寄りの手が、宙で止まる。


全員の目が、崇史に集まった。


「え、いや、あの」


崇史の手が、空中で何かを探す。


「うちの配信に、出てくださったじゃないですか。年末の、大きいやつ。俺、あの回の担当で」


「録画で出しただけです。どなたとも、話していません」


瑠衣の声は丁寧で、どこまでも平らだった。


「崇史、どういうことだ」


伯父の声が上ずる。


「彼女じゃ、なかったの?」


誰かが小さく言った。上の叔母か、下の叔母か。


崇史は答えなかった。口を何度か開けて、閉じた。


紬のスマホが、崇史の顔に向いたまま止まっている。


「……え、なに。どういうこと」


敦志の声が、やけに大きく響いた。


「敦志、黙って」


紬が小声で言う。


瑠衣はもう、崇史を見ていなかった。座敷を、端から順に見渡していく。


入口にいちばん近い卓の端で、目が止まる。


そこで、笑った。


コートの裾を翻して、畳の上を三歩で渡ってくる。俺が腰を上げるより先に、腕の中へ飛び込んできた。


    *


マフラーの匂いがした。外の冷たい空気を、まだ纏っている。


「来るなって言ったのに」


「既読つけなかったの」


胸のあたりで、くぐもった声がする。


「つけたら、引き返さなきゃいけなくなるでしょう」


「どうなるか分かってる? あそこ、撮ってるぞ」


「分かってる」


瑠衣が顔を上げた。


「仕事を捨ててもいい」


すぐには何も返せなかった。背中に回した手に、勝手に力が入る。


「……ねえ、いつから付き合ってるの」


紬が、スマホを構えたまま聞いた。


「お互い、駆け出しの頃から。私、オーディションに300回は落ちてたから」


「個人事務所を作るって言ったら、断られた」


「自分の足で行きたかったの。それは今も同じ」


瑠衣は俺の胸を軽く押して、言い直すみたいに笑った。


「ドラマみたい」


紬が言う。


「いいなあ。俺もああいうの言われてえ」


敦志が言って、紬に肘で小突かれた。


    *


瑠衣は俺の腕から離れると、入口の卓の前に膝をついた。


母が、座布団の上で固まっている。


「お母さん、はじめまして。乙部瑠衣です。ずっと、ご挨拶したかったんです」


母は返事をしようとして、先に目から涙がこぼれた。


瑠衣が手を伸ばすと、母はその手を両手で包んだ。


「言ってくれれば……征吾、あんた、言ってくれれば」


「ごめん」


「手、冷たいじゃない。ここ、座って。ほら、征吾、お茶」


「うん」


母の座布団の縁に、小さな毛玉がいくつも並んでいた。


父は、母の隣で背筋を伸ばしていた。


「……瑠衣さん。どうも、遠いところを」


それだけ言って、頭を下げる。


上の叔母が、膝でこちらへにじり寄ってきた。


「征吾さん、黙ってるから分からなかったじゃない」


「あんな人に選ばれるなんて。やっぱり征吾さんが一番出世した」


「ほんとよ。征吾さん、女優さんを射止めるなんて」


下の叔母が、すかさず重ねる。


上座では、祖父が黙って盃を空けていた。祖母は、膝の上で手を組んだまま動かない。


伯父と伯母は、さっきの笑顔の形を顔に残したまま、座布団の上で小さくなっていた。


崇史の目が、瑠衣の背中に貼りついている。


その目が俺に移ると、色が変わった。


    *


「瑠衣ちゃん、サイン、もらってもいい?」


「写真も一緒に、ね、一枚だけ」


親戚が瑠衣を囲みはじめたとき、崇史が急に首を伸ばした。


開いたままの襖の向こう、廊下を背広の男が一人、奥の座敷のほうへ歩いていく。


「……社長?」


崇史が、座布団を蹴るようにして立ち上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。