第五話 あなた、誰?
襖が開いたのは、祖父の盃が三杯目に入ったところだった。
「来ちゃった」
ベージュのロングコートに、白いマフラー。
立ち止まった拍子に、ベルトで絞った腰の線がすっと伸びた。マフラーをほどく指先ひとつで、座敷の視線が全部、入口へ持っていかれる。
一拍おいて、座敷が「わっ」と鳴った。
紬と敦志が、卓の下からスマホを掲げる。
「本物だ」
「やば、本物じゃん!」
「ほら、ほんとに来たわよ。瑠衣ちゃんよ」
上の叔母が腰を浮かせて、そのまま上座のほうへ向き直った。
「重康兄さん、おめでとう」
「登美枝さん、すごいじゃない。女優さんがお嫁さんなんて」
下の叔母も、膝で伯母のほうへにじり寄る。
「さっき仕事だって言ってたのに。サプライズだったのね、崇史くん」
「いやあ、まあ、崇史が」
伯父が座ったまま、何度も頭を下げた。
伯母は立ち上がって、着物の衿もとを直している。直す必要のない衿を、何度も。
「この子ったら、何にも言わないんだから。ほんとに」
分家の年寄りが、徳利を持って伯父の前へ回った。
「重康、これで鷺沢の家も安泰だなあ。めでたい」
「いやいや、そんな」
上座で、祖父の口元がゆるんでいた。祖母が祖父の盃に、黙って酒を足す。
「崇史。いい嫁を連れてきたな」
「ほんとに。崇史、早くこっちへお通ししなさいよ。寒いところで立たせて」
祖父の声に、祖母がすぐ続いた。
拍手まで起きた。誰が始めたのか分からない、ばらばらの拍手。
崇史だけが、座布団の上から動いていなかった。顔から、血の色が抜けている。
「崇史くん、何してるの。迎えに行きなさい」
下の叔母に肩を押されて、崇史がようやく立ち上がった。
*
座敷を横切る崇史の足取りは、畳の目を一つずつ数えているように遅かった。
入口の前で止まる。笑顔を作ろうとして、作りきれていない。
「……乙部さん、どうして」
瑠衣が、崇史の顔を見た。首を、ほんの少し傾ける。
「あなた、誰?」
座敷の音が、止まった。
祝いの言葉を言いかけていた口が、そのまま開いている。徳利を傾けかけた年寄りの手が、宙で止まる。
全員の目が、崇史に集まった。
「え、いや、あの」
崇史の手が、空中で何かを探す。
「うちの配信に、出てくださったじゃないですか。年末の、大きいやつ。俺、あの回の担当で」
「録画で出しただけです。どなたとも、話していません」
瑠衣の声は丁寧で、どこまでも平らだった。
「崇史、どういうことだ」
伯父の声が上ずる。
「彼女じゃ、なかったの?」
誰かが小さく言った。上の叔母か、下の叔母か。
崇史は答えなかった。口を何度か開けて、閉じた。
紬のスマホが、崇史の顔に向いたまま止まっている。
「……え、なに。どういうこと」
敦志の声が、やけに大きく響いた。
「敦志、黙って」
紬が小声で言う。
瑠衣はもう、崇史を見ていなかった。座敷を、端から順に見渡していく。
入口にいちばん近い卓の端で、目が止まる。
そこで、笑った。
コートの裾を翻して、畳の上を三歩で渡ってくる。俺が腰を上げるより先に、腕の中へ飛び込んできた。
*
マフラーの匂いがした。外の冷たい空気を、まだ纏っている。
「来るなって言ったのに」
「既読つけなかったの」
胸のあたりで、くぐもった声がする。
「つけたら、引き返さなきゃいけなくなるでしょう」
「どうなるか分かってる? あそこ、撮ってるぞ」
「分かってる」
瑠衣が顔を上げた。
「仕事を捨ててもいい」
すぐには何も返せなかった。背中に回した手に、勝手に力が入る。
「……ねえ、いつから付き合ってるの」
紬が、スマホを構えたまま聞いた。
「お互い、駆け出しの頃から。私、オーディションに300回は落ちてたから」
「個人事務所を作るって言ったら、断られた」
「自分の足で行きたかったの。それは今も同じ」
瑠衣は俺の胸を軽く押して、言い直すみたいに笑った。
「ドラマみたい」
紬が言う。
「いいなあ。俺もああいうの言われてえ」
敦志が言って、紬に肘で小突かれた。
*
瑠衣は俺の腕から離れると、入口の卓の前に膝をついた。
母が、座布団の上で固まっている。
「お母さん、はじめまして。乙部瑠衣です。ずっと、ご挨拶したかったんです」
母は返事をしようとして、先に目から涙がこぼれた。
瑠衣が手を伸ばすと、母はその手を両手で包んだ。
「言ってくれれば……征吾、あんた、言ってくれれば」
「ごめん」
「手、冷たいじゃない。ここ、座って。ほら、征吾、お茶」
「うん」
母の座布団の縁に、小さな毛玉がいくつも並んでいた。
父は、母の隣で背筋を伸ばしていた。
「……瑠衣さん。どうも、遠いところを」
それだけ言って、頭を下げる。
上の叔母が、膝でこちらへにじり寄ってきた。
「征吾さん、黙ってるから分からなかったじゃない」
「あんな人に選ばれるなんて。やっぱり征吾さんが一番出世した」
「ほんとよ。征吾さん、女優さんを射止めるなんて」
下の叔母が、すかさず重ねる。
上座では、祖父が黙って盃を空けていた。祖母は、膝の上で手を組んだまま動かない。
伯父と伯母は、さっきの笑顔の形を顔に残したまま、座布団の上で小さくなっていた。
崇史の目が、瑠衣の背中に貼りついている。
その目が俺に移ると、色が変わった。
*
「瑠衣ちゃん、サイン、もらってもいい?」
「写真も一緒に、ね、一枚だけ」
親戚が瑠衣を囲みはじめたとき、崇史が急に首を伸ばした。
開いたままの襖の向こう、廊下を背広の男が一人、奥の座敷のほうへ歩いていく。
「……社長?」
崇史が、座布団を蹴るようにして立ち上がった。




