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第八話 海辺の鍵

三月の初め、俺は両親の前に鍵を二本並べた。


「沖縄にいたあいだに、海の近くに家を買っておいた。二人で住んでほしい」


母が一本を手に取って、裏返した。父は、座卓に残ったもう一本を見ている。


「……これも、ボーナスか」


「違う。俺の金で、俺の名前で買った」


ボーナスの話は、もうしなかった。自分の名義で、初めて渡す鍵だ。


「仕事、そんなに……」


「投資の仕事。それなりに、うまくいってる」


母は鍵を握ったまま、俺と父の顔を交互に見た。


「私たち、本当に行っていいの」


「海まで歩いて5分。庭は狭いけど、母さんの畑くらいなら作れる」


「畑……」


母は鍵を胸のところで握って、それきり黙ってしまった。


「父さん、もう本家には行かないんだろ。だったら、住む所くらいは」


父はしばらく、鍵を見ていた。


それから手を伸ばして、自分の分を取った。


「……すまんな」


「謝るとこじゃないよ」


父は鍵を、財布の小銭入れにしまった。しまってから、一度だけ指で上から押さえる。


「引っ越しの業者は、俺が頼んどくから」


「荷物、そんなにないぞ」


「知ってる」


「征吾。瑠衣さんにも、ちゃんとお礼を言っといてね。お正月、あんな所まで来てくれて」


「言っとく。たぶん、向こうから電話してくるけど」


    *


出発の朝、玄関から段ボールを運び出していると、分家の年寄りが一人、門の前に立っていた。


「敬三。頭を下げれば済む話だろう。あの人も、口では言わんが待っとるんだ」


父は、ボストンバッグを車に積む手を止めた。


「向こうの暮らしは、なかなか慣れんぞ。年を取ってからの引っ越しは、こたえる」


年寄りは、門柱に手をかけたまま続けた。


「もう、戻らない」


年寄りは何か言いかけて、口を閉じた。しばらくしてから、門の前を離れていく。


玄関の靴べらは、握るところだけ色がまだらに剥げている。


母がそれを壁のフックに掛け直して、戸に鍵をかけた。


「行きましょうか、敬三さん」


父は返事の代わりに、運転席のドアを開けた。


    *


正月の座敷で紬と敦志が撮った動画は、春先、どこからかSNSに流れた。


瑠衣のフォロワーは、それから目に見えて減っていく。


ドラマの番宣で、司会者に交際のことを聞かれる回が増えた。瑠衣はそのたび、短く答えて作品の話に戻す。


秋に、瑠衣と式を挙げた。


両親は沖縄から出てきて、いちばん前の列に並んで座った。父は慣れない礼服の襟を、何度も指で直している。


「瑠衣さん、きれいねえ」


「母さん、さっきから5回目」


「いいじゃない。何回言ったって」


披露宴の終わりに、瑠衣が両親の席まで瓶を持っていった。


「お父さん、どうぞ」


「……ああ。ありがとう」


父はグラスを両手で持って、こぼれそうなところまで注がれるのを待っていた。


式の三日後には、瑠衣はもう撮影所に戻っている。


女優は、辞めなかった。


    *


崇史たちのことは、それから一年ほどのあいだに、人づてに少しずつ耳に入ってきた。


たいていは、母の電話だった。


契約は、二月の末で終わったらしい。


前と同じくらい稼げる仕事は、見つからなかったという。


ローンが滞って、マンションは競売にかけられた。


「ネットの賭け事にはまってるんだって。闇金って言うの? ああいうところからも借りてるみたいで」


黒いセダンは、その返済のために売ったと聞いた。


保証人だった伯父夫婦は、自分たちの家を手放した。今は三人で、本家に身を寄せている。


「スマホも、お義兄さんが取り上げたんだって。一日じゅう、交代で見張ってるらしいわよ」


それ以上のことは、知らない。


母の電話に、俺は相槌を一つ打っただけだった。


    *


新年会から一年が過ぎた正月明け、瑠衣のロケの合間に、沖縄の家へ顔を出した。


庭の隅には、母の作った小さな畑がある。葉物と大根の畝が三列、潮風に揺れていた。


「征吾、大根、持って帰る?」


「瑠衣が喜ぶ」


縁側でそんな話をしていると、居間で父の携帯が鳴った。


画面を見た父は、少し迷ってから、耳に当てた。


「……はい」


受話口から、祖父の声がした。俺の座っているところまで届く、大きな声だった。


「敬三か。もう、いいだろう。帰ってこい」


父は、窓の外の海を見ていた。


「帰りません。体には、気をつけてください」


祖父がまだ何か言っている。父は耳から携帯を離して、終話のボタンを押した。


携帯を座卓に置くと、父は縁側の母に声をかけた。


「昌代。昼、何にする」


「お素麺でいい?」


「ああ」


    *


その年の夏に公開された映画で、客は戻ってきた。暮れには、名前の知られた賞をもらっている。


「来月の頭、地方ロケなの。一週間」


授賞式の帰りの車で、瑠衣はもう次の台本をめくっていた。


「うん」


「征吾、ご飯ちゃんと食べてね。あと、お義母さんに電話……じゃなくて、お母さん」


「どっちでもいいよ、もう」


瑠衣は台本で口元を隠して、少し笑った。


    *


父は今も、月に一度、本家の口座に仕送りをしている。


それが今、唯一のつながりだ。


弁護士と決めた額を、一円も上乗せしない。

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