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第三話 二つとも、黒

「急に来て、すみません。母に一式、見立ててもらえますか」


「かしこまりました。どうぞ、奥へ」


店員が母の背に手を添えて、ガラス扉の中へ案内する。


母は一度だけ俺を振り返って、それから扉の向こうへ消えた。


後ろで靴音がした。崇史が、列を抜けてついてきている。


扉の前で、別の店員が片腕を伸ばした。


「お客様、恐れ入ります。後ろにお並びいただけますか」


「なんであいつは並ばないんだよ」


「鷺沢様は、当店のお得意様でいらっしゃいますので」


「あいつが? 底辺の……」


扉が閉まって、続きは聞こえなかった。


サロンは、売り場の奥のガラスで仕切られた一角だった。ソファが二つと、低いテーブル。


出された紅茶を持ち上げると、ソーサーに薄い茶の輪が残っていた。


母は最初、ソファの端に浅く腰かけて、膝の上でハンドバッグの持ち手を握りしめていた。


ジャケットを三着ほど羽織ったあたりから、鏡の前で袖口を気にしはじめる。


「お母様、お袖、少しだけお詰めしましょうか」


「あら、いいの? じゃあ、ほんの少し」


袖を詰めてもらうあいだ、母は鏡の中の自分をじっと見ていた。


「これ、家でも着ていいの?」


「どこで着てもいいよ」


「こっちの紺のほうが、私は好き。そっちは肩が張るから、畑に出るとき困るでしょう」


「畑には着ていかないだろ、さすがに」


店員が笑って、床に膝をついた。靴の甲の革がどう柔らかくなっていくかを、母の足元で説明している。


母はうん、うんと頷きながら、爪先を左右に傾けた。


ガラスの向こうの売り場から、伯母がこっちを見ている。見ていることを、隠そうともしない目だった。


「征吾。この前のマッサージチェアも、ボーナスで買ったって言ってたけど」


母が声をひそめる。


「あんた、ほんとに大丈夫なの」


「大丈夫だよ」


「なら、いいけど。……この靴、ほんとに楽ね」


母は立ち上がって、サロンの中を二歩、三歩と歩いてみせた。


会計は、黒いカードで一度に済ませた。


    *


サロンを出ると、伯母と崇史はまだ鞄の棚の前にいた。


母の手には、紙袋が二つ。伯母の視線がその紙袋に落ちて、なかなか離れない。


店員が、棚から黒い鞄を一つ取り出した。角の立った、昔からある定番の形だ。


「奥様には、こちらがお似合いかと存じます」


伯母の顔が、ぱっと明るくなる。


崇史は値札をちらりと裏返して、すぐに元へ戻した。


「黒はなあ。野暮ったいだろ、母さんには」


「え、でも私、黒ならどの服にも……」


「もっと明るいのにしなよ。若く見えるやつ」


「では、こちらのお色はいかがでしょう」


店員がベージュと、淡いピンクを並べる。


「派手」


「若すぎ」


崇史はそのたびに首を振った。伯母の口が、何か言いたそうに開いて、閉じる。


棚をひと回りして、崇史は小さな丸い鞄の前で足を止めた。手のひらに載るくらいの大きさだ。


「これ、いいじゃん。これ包んで」


色は、黒だった。


「それも黒じゃない?」


思ったときには、もう口に出ていた。


売り場の話し声が、すっと引いていく。


包みかけた店員の手が止まった。崇史がこっちを振り向き、伯母は鞄と崇史の顔を交互に見る。


俺は二つの値札を、順に指で示した。


「こっちは10万、あっちは100万」


誰も、何も言わなかった。


崇史の喉が、一度だけ上下した。


「……形が違うだろ、形が。俺はこっちのほうが好きなんだよ」


「そっか」


俺は、さっきの店員に向き直った。


「すみません。最初の定番のほう、包んでもらえますか。母に」


「かしこまりました」


店員は定番の鞄を両手で受け取った。崇史の横を通るとき、彼の手の中の小さな鞄に一度だけ目を落としていった。


「征吾、ちょっと。100万って、聞こえたけど」


「いいから」


母は俺の袖をつかんだまま、包装台のほうを何度も振り返った。


伯母は、小さな紙袋を持たされて、棚の前に立っていた。


「崇史、これ、いいわね。小さくて」


伯母の声だけが、やけに明るかった。


    *


駐車場へ下りるエレベーターの中で、母は紙袋の口を何度ものぞいた。


「全部で、いくらしたの」


「大したことないよ」


「家賃だって、8万円もするんでしょう。無理してない?」


「してないって」


「お父さんには、なんて言おうかしら」


「好きに言えばいいよ。お正月に着ていけば」


母はそれ以上聞かなかった。紙袋の持ち手を、指に二重に巻きつけている。


金のことを黙っているのは、父さんの口から「じいちゃんに頭を下げろ」を聞きたくないからだ。


エレベーターの扉が開くと、コンクリートの冷気が足元から上がってきた。


車の前まで来たところで、後ろから靴音が追いついてくる。


「おい、征吾」


崇史が、小さな紙袋を提げて立っていた。


「カード、限度額まで使ったか? あとで泣くぞ」


「……」


「返品とかするなよ。みっともないからな。親戚中に知れ渡るぞ」


俺は答えないまま、助手席のドアを開けた。


母が乗り込み、紙袋を足元に置こうとして、やめる。


ドアを閉めると、崇史の声は聞こえなくなった。


「シートベルト、締めて」


「うん」


エンジンをかけて、スロープを下りる。出口のバーが上がるのを待つあいだ、母はずっと前を見ていた。


膝の上に、黒い鞄が載っている。母の両手は、その上に重ねられたままだった。


県道に出ても、母は何も言わない。


信号を二つ、青のまま通り過ぎた。

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