第8話 英雄殺し
広場はまだ壊れていた。
悲鳴。
怒号。
走る足。
僕は魔族の使者のそばに立っていた。
弾いた刃が、石畳に転がっていた。
使者は壁際に下がっていた。
まだアレンを見ていた。
人混みの向こうで、教会の連絡役が見ている。
唇が動く。
今だ。
僕は壇の方へ歩き始めた。
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頭の中で、声が重なった。
アウレリウスの声。
これは暗殺ではない。世界を守るための処刑だ。
リディアの声。
あなたが迷わずにいられるよう、私も祈っています。
母の字。
あなたが教会で立派に務めてくれているから、私たちは生きています。
ユウの声。
お兄ちゃん、いつ帰ってくるの。
全部が、アレンを前へ押した。
エルドリックの声も浮かんだ。
君は誰の言葉でここに立っている。
僕はそれを押しつぶした。
考えるな。
考えれば、止まる。
逃げ惑う人の間を縫うように歩いた。
誰かにぶつかった。
子どもだった。
僕は目を逸らして、歩き続けた。
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壇が近くなった。
護衛の兵士がアレンに気づいた。
「止まれ! 武器を——」
「下がれ」
エルドリックの声だった。
静かだったが、兵士は足を止めた。
「でも、閣下——」
「下がれ」
もう一度、同じ声で言った。
兵士は口を閉じた。
一歩、二歩、後ろへ退いた。
エルドリックは静かに壇を降りた。
一段。
二段。
石畳に足がついた。
距離が縮まる。
僕は短剣を構えた。
殺せる距離だった。
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「君には、守りたい人がいるのだろう」
エルドリックは小さな声で言った。
広場の悲鳴にかき消されない程度の、アレンにだけ届く声だった。
僕は答えなかった。
父。
母。
リナ。
ユウ。
言葉にした瞬間、何かが崩れそうだった。
「ならば、成すべきことを成しなさい」
僕は息が詰まった。
「ただし、覚えていてくれ」
エルドリックは続けた。
「君が殺すのは、私の命だ。私の願いではない」
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願い。
休戦を和平に変えること。
人間と魔族が、殺し合わずに生きること。
次の子どもたちを戦場に送らないこと。
そんなものは、任務に関係ない。
僕は短剣を握り直した。
人混みの向こうで、連絡役が見ている。
エルドリックが目の前にいた。
アレンには、自分の言葉がなかった。
だから、動いた。
神の秩序のために。
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刃が、深く入った。
エルドリックは抵抗しなかった。
倒れながら、アレンの肩に手を置いた。
重くなかった。
ただ、そこにあった。
「いつか……君自身の言葉で……」
声が途切れた。
エルドリック・セレーンは、民衆の前で倒れた。
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一瞬、広場から音が消えた。
誰も動かなかった。
次の瞬間、悲鳴が爆発した。
人間の悲鳴。
魔族の悲鳴。
兵士の怒号。
誰かがエルドリックの名前を叫んだ。
僕は血のついた短剣を握ったまま立っていた。
任務は完了した。
英雄は死んだ。
そう思うはずだった。
なのに、胸の奥で何かが沈んでいった。
水の底へ落ちていくように。
音もなく。
ゆっくりと。
エルドリック・セレーンは死んだ。
和平の英雄が死んだ。
僕が殺した。
僕は勇者として、正しいことをした。
なのに、肩の上にエルドリックの手の重さが残っていた。




