第7話 出立式の日
聖王国へ向かう和平使節団の出立式は、朝から始まっていた。
広場には、すでに多くの人が集まっていた。
共和国の兵士。商人。子ども。老人。人間。魔族。
誰もが、これから聖王国へ向かう使節団を見送るために来ていた。
僕は群衆に紛れて立っていた。
短剣は腰の内側にある。
指を少し動かせば、すぐに抜ける位置だった。
任務は変わらない。
エルドリック・セレーンを討つ。
聖王国で和平の演説をされる前に。
それだけだった。
広場の中央には壇が組まれていた。
その周りに、人間と魔族の代表が並んでいる。
人間の兵士の隣に、魔族の護衛が立っていた。
魔族の老人の隣で、人間の子どもが背伸びをして壇を見ようとしていた。
布屋の若者の姿も見えた。父親らしい男と並んで、静かに壇の方を見ている。
昨日までなら、見過ごしていたはずだった。
けれど今は、妙にはっきり見えた。
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やがて、広場がざわめいた。
エルドリックが現れた。
歓声が上がる。
エルドリックは壇に上がった。
豪華な鎧は着ていない。
昨日と同じ、質素な服だった。
彼の隣には、聖王国へ同行する代表たちが並ぶ。
共和国の使者。魔族側の使者。護衛の兵士たち。
僕は魔族側の使者を見た。
背の高い女だった。
灰色の髪を後ろで束ね、短い角が額の横に伸びている。
鋭い目をしていたが、怯えているようにも見えた。
聖王国へ行く。
それが、魔族にとってどれほど危険なことなのか。
僕にも分かった。
広場が静まった。
エルドリックが前に出る。
「これは、終わりではありません」
声は大きくなかった。
けれど、不思議と広場の端まで届いた。
「休戦は、ただ剣を止めただけです。憎しみが消えたわけではありません。失った者が戻るわけでもありません」
誰も声を出さなかった。
風が、旗を揺らしていた。
「許し合う必要はありません。忘れる必要もありません。憎むことを、すぐにやめられるはずもない」
エルドリックは広場を見渡した。
「それでも、殺し合いをやめることはできます」
僕は短剣の柄に指を添えた。
今なら届く距離ではない。
まだ遠い。
人が多すぎる。
だが混乱が起きれば、近づける。
「それだけでいい」
エルドリックは言った。
「それだけで、次の子どもたちは生きていける」
広場のどこかで、誰かが泣いた。
人間だった。
別の場所で、魔族も泣いていた。
同じように。
同じ顔で。
僕はその光景を見ていた。
泣き方は同じだった。
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その瞬間、空気が変わった。
殺気。
体が先に反応した。
群衆の中で、誰かの腕が動く。
光が一瞬だけ走った。
短剣だった。
狙いはエルドリックではない。
魔族側の使者。
僕は考える前に動いていた。
人混みを押し分ける。
足が石畳を蹴る。
使者の前に飛び込む。
「下がれ!」
自分の声だった。
魔族の使者の肩を突き飛ばす。
同時に短剣を抜き、飛んできた刃を弾いた。
金属音が鳴った。
一拍遅れて、広場が壊れた。
悲鳴。
怒号。
走る足音。
兵士たちが叫ぶ声。
誰かが転ぶ。
誰かが子どもを抱える。
さっきまで一つだった広場が、一瞬でばらばらになっていく。
僕は弾いた刃を見下ろした。
なぜ動いた。
なぜ、守った。
魔族だ。
敵だ。
守る理由などない。
なのに体は動いていた。
考えるより先に。
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視線を感じた。
壇上を見る。
エルドリックが、僕を見ていた。
驚いてはいなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、何かを理解した顔だった。
僕は短剣を握り直した。
違う。
任務は変わっていない。
エルドリックを討つ。
そのために来た。
さっきの行動に意味などない。
ただ体が動いただけだ。
敵の刃を見れば弾く。
訓練された体が勝手に反応した。
それだけだ。
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兵士たちが群衆の中へ走っていく。
暗殺者は逃げたらしい。
広場はまだ混乱していた。
エルドリックは壇を降りていなかった。
逃げることもできた。
護衛の後ろに下がることもできた。
それなのに、彼は壇上に残っていた。
民衆を見ていた。
人間も、魔族も、混乱する広場全体を見ていた。
そして、もう一度僕を見た。
まるで、待っているようだった。
そのとき、人混みの向こうに、教会の連絡役が見えた。
表情のない男だった。
男は僕を見ていた。
そして、唇だけを動かした。
今だ。
声は聞こえなかった。
だが、意味は分かった。
今なら殺せる。
警備は乱れている。
民衆は逃げている。
兵士の目は暗殺者の方へ向いている。
エルドリックは壇上に残っている。
今、殺せ。
僕は短剣を握りしめた。
手の中で、柄が汗ばんでいた。
魔族の使者が、まだ僕を見ていた。
僕は勇者だ。
勇者は命じられたことを果たす。
僕はエルドリックの顔を見た。
彼は逃げなかった。
ただ、僕を見ていた。
僕は一歩、壇の方へ踏み出した。




