第6話 英雄との対話
数日後、エルドリックは和平使節団とともに聖王国へ向かう予定だった。
その前に討つ。それが任務だった。
夜、エルドリックの滞在先に忍び込んだ。
部屋には灯りが一つだけついていた。エルドリックは机に向かっていた。紙に何かを書いている。
僕が窓から入っても、彼は驚かなかった。
「いずれ来ると思っていた」
手を止めずに、そう言った。
僕は短剣に手をかけた。
「警備が甘すぎます」
「君なら、厳しくしても来ただろう」
エルドリックは顔を上げた。疲れた目だった。けれど、怯えてはいなかった。
机の上を見ると、演説の草稿らしい紙が置かれていた。何度も線が引かれていた。書いては消し、書いては消した跡がある。
「聖王国で話す演説ですか」
「そうだ」
「無駄です」
「そうかもしれない」
あっさり認められた。言葉に詰まった。
「休戦は、まだ平和ではない」
エルドリックは紙に目を落とした。
「剣を鞘に収めただけだ。憎しみは残っている。家族を殺された者に、今日から相手を許せと言っても無理だ」
「なら、なぜ和平など望むのです」
「許すためではない」
エルドリックは僕を見た。
「次の子どもたちを、同じ戦場に送らないためだ」
市場で見た魔族の子どもを思い出した。転んで、人間の子どもに手を引かれていた。
すぐに打ち消した。
「魔族は敵です」
「君は、そう教わったのだね」
責める声ではなかった。
「事実です」
「君の見た魔族も、そうだったか」
布屋の若者の顔が浮かんだ。ここは違います。その声が、耳の奥に残っていた。
「……この国は、何かがおかしいだけだ」
「そうか」
エルドリックは苦く笑った。
「この街では、人が人を見るのは珍しくない。君は目立っていたよ。初めて魔族が商売する姿を見た人間の顔をしていた」
何も言えなかった。
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「私を殺せば、和平は遅れる」
エルドリックは言った。
「関係ない。あなたを殺せば終わりだ」
「だが、和平は完全には止まらない」
「どうして言い切れる」
「人は一度、憎しみ以外の道を知ってしまえば、いずれ戻ってくるからだ。誰かが覚えている。誰かが語り継ぐ。私一人が死んでも、それは消えない」
「死ねば終わりです。死んだ人間は、何も守れない」
「そうだ」
「なら、あなたのしていることは無意味だ」
言ってから、少し驚いた。教会で習った言葉ではなかった。ほんの少しだけ、自分の内側から出た気がした。
エルドリックは責めなかった。
「君は、守りたいものがあるのだね」
僕は答えなかった。
父。母。リナ。ユウ。
いくつも浮かんだ。けれど、どれも口に出せなかった。
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「君は誰の言葉でここに立っている」
エルドリックが言った。
「教会の正義は、僕の正義です」
「本当に?」
静かな問いだった。怒りも嘲りもなかった。だから答えられなかった。
「君が私を殺す理由を、君自身の言葉で言えるか」
世界を守るため。神の秩序のため。家族を守るため。
いくつも浮かんだ。けれど、口に出そうとすると、喉の奥で止まった。
何も言えなかった。
エルドリックは、少しだけ悲しそうに笑った。
「今、答えられなくてもいい。いつか、自分の言葉で答えを出しなさい」
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僕は短剣から手を離した。
殺せる距離だった。今なら殺せた。
だが、殺さなかった。
今はその時ではない。そう自分に言い聞かせた。
「あなたは死にます。僕が殺します」
「なら、考えておくといい。君が私を殺す理由を」
僕は何も言わず、窓へ向かった。
背中に声が届いた。
「君の名前を聞いてもいいかな」
答えなかった。答えてはいけない気がした。
そのまま部屋を出た。
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廊下は静かだった。
君は誰の言葉でここに立っている。
答えはあるはずだった。なのに一つも、自分の言葉には聞こえなかった。
僕は奥歯を噛んだ。
僕は勇者だ。勇者に、自分の言葉など必要ない。
そう思った。
思おうとした。




