無音のピラミッドと、音の結界
ピラミッドの最深部を目指すノアたちが遭遇した、音が完全に消失した不気味な世界。
ノアの周囲にだけ生じる小さな「音の泡」——その奇妙なルールでの探索をお届けします。
砂の匂いで目が覚めた。
乾いた、けれどどこか甘い——黄金の砂糖菓子を砕いたような、不思議な朝の匂い。
昨夜の焚き火はとうに消えていて、ドスンさんのテントの中にはひんやりとした砂漠の朝の空気だけが満ちている。
右肩が、少しだけ重い。
シオンが猫 of 姿のまま、僕の肩口に丸くなって眠っていた。小さな寝息が、規則正しく僕の首筋をくすぐっている。いつもより深い眠りの匂い。泣き疲れたのだろう。
僕はそっと左手を伸ばして、シオンの背中を撫でた。
柔らかい毛並みが指先に触れる。温かい。昨夜よりも、ずっと温かい。
「……ん」
シオンの耳がぴくりと動いて、小さく身じろぎした。
「……おはようございます、シオン」
「…………おはよう」
いつもより少しだけ低い、寝起きの声。けれどその声には、昨夜まで纏っていた硬い殻のようなものが溶けている。
まるで——雪解けの水が、石の隙間からこぽりと湧き出すような。そんな柔らかさ。
「お師匠ぉ、朝メシまだッスかぁ……」
足元のほうから、フクのとろけた声が聞こえる。ドスンさんの腹の上で、きっとまた丸くなっているのだろう。
きゅるる、とドスンさんが小さく鳴った。ランプが黄色く点滅しているのが、糸の振動で伝わってくる。温もりの色。朝ごはんの合図。
「はいはい、すぐに準備しますからねぇ」
僕はシオンをそっと肩から下ろして——下ろそうとして、失敗した。
シオンの尻尾が、僕の手首にくるりと巻きついていたからだ。
「……シオン?」
「……別に。寝ぼけてるだけよ」
尻尾が、するりとほどけた。
朝食は、ドスンさんの体内に収納してあった保存食の干し肉と、砂漠 of 朝露を集めた水。
フクが干し肉をハグハグと噛みちぎりながら、僕の膝の上に乗って尻尾を振っている。
「お師匠、今日からあのでっかいピラミッドの中に入るんスよね?」
「そうですねぇ。クレオさんに頼まれましたから」
「あの砂の女王、なんか怖いッス……でも、お師匠が行くなら俺も行くッス!」
フクの声が、ほんの少しだけ震えている。けれどその震えを隠すように、干し肉をさらに大きく噛みちぎった。
「ありがとう、フク。頼りにしていますよ」
「と、当然ッス! 俺を誰だと思ってるんスか!」
フクの尻尾が、ぶんぶんと空気を叩いている。匂いで分かる。太陽の匂いが、ふわりと弾けた。
「……行くわよ」
シオンが、静かに言った。
人間の姿に戻っている。すぐ隣から、星空の匂いが凛と立ち昇っている。昨夜とは違う。もう震えてはいない。
僕の手を取る指先が——しっかりと、温かかった。
ピラミッドの入り口は、黄金の砂岩で出来た巨大な門だった。
クレオの案内で宮殿の奥を抜け、長い回廊を下ったその先に、古い石の匂いと、乾ききった風の匂いが混じり合う巨大な空間が広がっている。
「ここから先は、妾の力も及ばぬ領域よ」
クレオの声が、不思議な重さを帯びていた。アンクレットのしゃらんという音が、少しだけ寂しげに響く。
「セトの……あの子の悲鳴が、もう何百年もこの中から聞こえているの。妾にはそれを止めることができなかった」
「……大丈夫ですよ、クレオさん」
僕は、門の前で立ち止まった。
理の糸が——震えている。
門の向こう側から、途方もなく巨大で、途方もなく悲しい振動が伝わってくる何百年も泣き続けている魂の、枯れ果てた慟哭。
音ではない。糸そのものが、泣いている。
「セトさんが待っているなら、行かないわけにはいきませんからねぇ」
「…………ふん。行ってらっしゃい、調律師」
クレオの声が、わずかに掠れていた。
僕はドスンさんの広い肩から下りて、シオンの手を借りて門の前に立った。
ひんやりとした石の匂い。何千年も人の手が触れなかった、古い古い空気の匂い。
「シオン、フク、ドスンさん——行きましょう」
一歩、踏み出した。
そして——世界から、音が消えた。
足が、石の床を踏んだ。
その感触は確かにある。靴底を通じて伝わる、硬くて冷たい石の感触。
けれど——音がない。
足音が、しない。
衣擦れの音が、しない。
自分の呼吸の音すら——聞こえない。
完全な、完膚なきまでの無音。
世界から音という概念が丸ごと引き抜かれたような、途方もない静寂。
「——やっぱり、ここもか」
声が、出た。僕自身の声だけは、ちゃんと聞こえている。
砂漠で無音の蝕病を調律した時と同じだ。僕の周りだけは、マナが正常に編まれている。だからこの小さな範囲だけは、音が死なずに済んでいる。
ただ——あの時とは規模が違う。
「……ノア、砂漠の時より範囲が狭いわ」
シオンの声が、右肩から聞こえた。いつの間にか猫の姿に変わって、僕の肩に飛び乗っている。
「あの時は蝕病の侵食を押し返す余裕があったけど、ここは特異点の本体が近い分だけ無音の圧が桁違いよ。あんたの調律でも、せいぜい泡みたいな範囲しか保てない。三歩も離れたらもう聞こえなくなるわ」
「お師匠、俺の声聞こえるッスか!?」
フクが僕の足元で叫んだ。聞こえる。彼はまだ僕の結界の中にいる。
きゅるる、とドスンさんも鳴った。ランプが赤く点滅しているのが、糸を通じて伝わってくる。警戒の色。
「みんな、なるべく僕のそばにいてくださいね。離れると——」
試しに、僕は一歩前に出た。
フクの尻尾が僕の足に当たる感触。けれどその瞬間、フクの小さな呼吸の音が——ふっと途切れた。
たった一歩。それだけで、フクの息遣いが完全に消えた。
「フク! こっちに来て!」
慌てて半歩戻ると、フクの「ひゃあっ!」という悲鳴が、ぽんっと音として復活した。
「な、なんスかこれ! いきなり何にも聞こえなくなったッス! 自分の心臓の音すら! 怖いッス!」
「……大丈夫。僕のそばにいれば、音は消えませんから」
フクが全身をぶるぶると震わせながら、僕のローブの裾に噛みついた。離れたくないのだろう。分かる。音のない世界は、恐ろしい。
けれど僕にとっては——不思議なことに、この無音の世界はむしろ心地よかった。
普段、空気を伝わる物理的な音は僕にとって「雑音」に近い。理の糸の振動——世界の本当の声は、もっと深い層で響いているからだ。
そしていま、その雑音がすべて消えたことで——糸の声が、かつてないほど鮮明に聞こえていた。
遥か下方、この迷宮の最深部から。
泣いている。
何百年も、誰にも聞こえない声で泣き続けている、ひとつの魂の震え。
「……セトさん」
僕はそう呟いて、一歩を踏み出した。
「ノア、左に二歩。その先に下り階段よ」
「はい」
第24話をお読みいただき、ありがとうございます!
ピラミッドに入った瞬間、世界から音が消えるという「無音の世界」。
盲目のノアにとって、音が聞こえないことは非常に大きな恐怖ですが、彼の「音の結界」によって仲間たちとの声は繋ぎ止められます。
しかし、結界の外に出ると一歩で音が消えてしまう……そんな奇妙なルールの中、彼らは最深部へと足を進めます。
次回はいよいよ、無音の迷宮での戦闘が始まります。お楽しみに!
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