無音の砂海と、宿命の足音
お読みいただきありがとうございます!
硝子砂漠の境界で一夜を明かしたノアたち。
明朝、いよいよ音が消滅する「無音の領域」へ足を踏み入れます。
しかし、砂塵の向こうから近づいてくる足音は——ノアがずっと遠くに感じていた、あの懐かしい旋律でした。
どうぞお楽しみください!
硝子の大地を踏む音は、薄い氷を割るような、乾いた高音だった。
かつん。かつん。
フクの爪が硝子を弾くたびに、澄んだ音が朝の空気に散っていく。夜明けの砂漠は冷えていて、吐く息がかすかに湿っている。しかし太陽が昇り始めると、その湿り気はあっという間に奪われるだろう。
「行くぞ」
アルヴァの一言で、全員が境界線を越えた。
一歩。
二歩。
三歩目で——世界から、音が消えた。
フクの爪が硝子を踏む音が、ない。自分の呼吸が, ない。心臓の鼓動すら、鼓膜に届かなくなる。
完全な、無音。
まるで耳の奥に綿を詰め込まれたような——いや、それよりもっと根源的な遮断。音という概念そのものが、この空間から削り取られている。
「——っ」
フクの背中の毛が一斉に逆立った。太陽の仔の体温が急激に揺らぐ。怖がっている。当然だ。生き物にとって、音の消失は死の予感に等しい。
僕は指先を持ち上げた。
凍りついた理の糸を、一本だけそっと摘まむ。
リンッ、と爪弾く。
光の糸が揺れ、その振動が波紋のように広がっていく——僕たちを中心に、直径十数メートルほどの薄い膜のような領域が生まれた。
音が、戻った。
かつん、とフクの爪が硝子を叩く音。ざ、とアルヴァの足裏が砂を擦る音。自分自身の呼吸の音。
「——は、っ」
アルヴァが息を吐いた。その呼気に、驚愕が滲んでいる。
「……なんだ、今のは。俺たちは確かに境界を越えたはずだ。なぜ音が——」
「僕の近くにいれば大丈夫ですよ」
僕はフクの首をぽんぽんと叩いて落ち着かせながら、言った。
「凍っている糸を、少しだけほどいて流しているだけです。耳も痛くなりませんから」
沈黙。
背後で、二世たちの息遣いが聞こえた。レオンが何か言いかけて、やめた。バラムが小さく唸った。ガルダが上空で翼を震わせた——信じられない、という種類の振動。
「……歩きながら、常時、調律しているのか」
アルヴァの声は低く、硬かった。
「ええ。まあ、散歩みたいなものですから」
「散歩……」
アルヴァが絶句した。
「お師匠、すごいッス! 音、聞こえるッス!」
フクの尻尾がぶんぶんと振れて、僕の背中に当たった。さっきまでの怯えが嘘のように、足取りが軽くなっている。
「ノア様……」
ヤスハが、かすかに震える声で言った。
「精霊たちの声は、まだ聞こえません。でも——ノア様の糸の音だけが、泉のように響いています。こんなに優しい魔術、初めて聴きました」
「ありがとうございます。でも、あまり離れないでくださいね。僕の手の届く範囲だけなので」
「了解した」
アルヴァが隊列を締め直す声。簡潔で、迷いがない。
——信頼、だと思った。もう疑いのない、純粋な。
「ノア」
シオンが僕の肩の上で、尻尾をぴくりと動かした。
「何ですか?」
「…………前から来るわ。複数。——かなり大きな集団」
僕は指先を広げた。
凍りついた糸の海の中に、遠くから——ぶうん、という振動が伝わってくる。大地を這うような、低く重い共鳴。何か巨大な装置が駆動している音だ。
それだけじゃない。
その装置群の周囲を取り巻くように、マナの残滓が乱れている。人為的に汚染された、嫌な種類のマナ。鉄錆と薬品を混ぜたような不快な匂い。
「帝国の遠征隊だな」
アルヴァが低く唸った。鼻が利く。
「砂漠の奥から北上してきている。規模は——大きい。魔導車両の駆動音が五つ以上。随伴歩兵も相当数いる」
「帝国……ドクトル・メビウスか」
レオンの声が、獣のように低くなった。名前を口にしただけで、殺意が漏れ出ている。
「——落ち着け、レオン」
アルヴァが鋭く制した。
「……ちっ」
レオンが舌打ちを飲み込んだ。だが、拳を握る音が聞こえた。骨が軋むほどの力で。
僕はフクの背中で体を起こし、指先の感覚を遠くへ伸ばした。
凍りついた糸の奥に、帝国の魔導兵器の重い響きがある。金属と金属が擦れ合い、歯車が噛み合い、何かが唸りを上げている。無音の砂漠で音を維持するための装置——力技で空間を震わせているのだろう。酷く無骨で、不安定な音。
でも——その装置の音の向こうに。
僕の指先は、もうひとつ別の音を拾っていた。
清らかで、真っ直ぐで、どこか——痛いほどに眩しい旋律。
「…………」
息が、止まった。
知っている。
この音を、僕は知っている。
世界中のどんな音の中からでも聞き分けられる。どれだけ遠くても、どれだけ歪んでいても——この旋律だけは、僕の魂に刻まれている。
——ルーク。
指先が、震えた。
「ノア?」
シオンが僕の肩の上で身じろぎした。
「……知ってる音がします」
「…………」
シオンは何も言わなかった。ただ、尻尾が僕の首にきゅっと巻きついた。
——分かっている。分かっているわよ、という沈黙だった。
お読みいただきありがとうございました!
無音の砂海へと踏み入り、美しい「音の聖域」を灯したノアたち。
しかし、砂漠の静寂を切り裂いて近づく帝国の気配のなかに、ノアは誰よりも早く、あの懐かしく眩しいルークの旋律を捉えます。
シオンとの無言の沈黙のなか、宿命の再会がすぐそこに迫っていました。
次回、ついに砂塵の向こうからルークたちが姿を現します——どうぞお楽しみに!
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