硝子の境界と、凍てつくマナ
お読みいただきありがとうございます!
二世たちと共に南下を続けるノアたち。
道中で一息つき、ドスンさんの変幻自在な活躍や思い出のハーブティーを囲む穏やかなひととき。
しかし、そこから一歩進んだ先で待ち受けていたのは、大地のマナすら凍りつき、音が全く消えてしまった不気味な「硝子砂漠」の境界でした。
どうぞお楽しみください!
正午を少し過ぎた頃、アルヴァが隊列を止めた。
「ここで休憩を取る。——水場がある」
岩陰から湧き出ている冷たい泉の音が聞こえた。僕がフクの背中から降りると、足の裏に焼けた石の熱が伝わってくる。もう随分と南に来たらしい。空気が乾いて、喉が渇く。
「ドスンさん、降りて大丈夫ですよ」
背中のドスンさんに声をかけると、球体がぽとんと僕の背から離れ、ころころと地面を転がり——きゅるるるる、と音を立てて展開した。
装甲板が開き、関節が伸び、ずんぐりとした元の体躯に戻る。そして地面にどっしりと腰を据えると、背面の装甲が倒れて——平たいベンチのような形に変形した。
「おっ」
レオンが目を丸くした。
「こいつ、椅子になんのか」
「ドスンさん、色々な形になれるんです。ソファーにも、テーブルにも」
きゅる。
ドスンさんのランプが誇らしげに黄色く光った。
「フク、座るッス!」
フクが小さく戻り、ドスンさんのベンチにぽふんと飛び乗った。尻尾をぱたぱた振っている。
「……あの」
バラムが、おずおずと近づいてきた。
「座っても、いい?」
きゅる。
ドスンさんのランプが青に——歓迎の色に変わった。
バラムがそっと腰掛けると、巨体に合わせてドスンさんの座面が微調整された。きゅる、きゅる、と小さな駆動音。
「……座り心地、いいな」
「でしょう?」
僕がお茶を淹れ始めると、アイラが「何それ、いい匂い」と寄ってきた。
携帯用の小さな茶器を取り出して、泉の水を沸かす。ドスンさんが表面の一部を発熱させて、やかん代わりになってくれた。
「ハーブティーです。ドール・ガリアで分けてもらった茶葉で」
「へえ。……人間って、旅の途中にお茶なんか飲むの?」
「僕は飲みます」
「ノアだけよ、こんなのんびりしてるのは」
シオンが呆れたように言ったが、差し出された茶碗にはちゃんと鼻先を近づけていた。
僕は人数分の茶碗を並べた。
「皆さんもどうぞ」
「……」
アルヴァが、一瞬だけ間を置いてから——静かに茶碗を受け取った。
レオンも、ぶっきらぼうに受け取る。ガルダは無言で翼を畳んで降りてきて、爪の先で器用に茶碗を掴んだ。
「ノア様、ありがとうございます」
ヤスハが両手で受け取り、湯気にそっと顔を寄せた。
「……いい香り。草原の風みたい」
「でしょう? この茶葉、ベルさんが——」
そこまで言いかけて、止まった。
——ベルさん。
ドール・ガリアで、最後に僕たちの背中を見送ってくれた女性。
泣きそうな顔で、でも笑っていた人。
あの人たちは、今——元気だろうか。
「ノア」
「……はい。ええと、知り合いの宿屋の女将さんが、餞別にくれたんです。大事に飲んでます」
「ふうん」
アイラが茶碗を傾けて、ぷはっと息を吐いた。
「悔しいけど、美味い」
「レオンは?」
「……まあ、飲めるな」
「素直じゃないわね、あんた」
「うるせえ」
岩場に座って茶を飲む七人と、一匹と、一匹と、一つの鉄塊。
不思議な光景だろうなと思う。見えないけれど。
午後の行軍は、地形が目に見えて——いや、足裏で感じるほどに変わった。
岩場の石が、ざらざらとした砂混じりになっていく。風に乗る匂いから、木の気配がほとんど消えた。代わりに、鉄錆のような、焦げた砂のような匂いが鼻の奥にかすかに刺さる。
「砂漠の匂いね」
シオンが呟いた。
「もう近いわ」
アルヴァが、前方で足を止めた。
「……全員、止まれ」
声が硬い。
フクの耳がぴんと立ったのが、毛の動きで分かった。
「どうした、アルヴァ」
レオンが低い声で問う。
「——見ろ」
沈黙。
二世たちの呼吸が、一斉に浅くなった。何か——よくないものが、目の前に広がっているのだろう。
「シオン」
「……ええ」
シオンの声が、かすかに震えていた。
「硝子砂漠の境界線よ、ノア。地面が——普通の砂と岩から、自然にガラスに変わっている。溶けた砂が冷えて固まったような、不自然な地面がどこまでも続いてる」
「綺麗ですか?」
「……綺麗よ。綺麗だけど、異常。自然にこうはならない」
僕は、フクの背中からそっと降りた。
靴の裏が、じゃり、と音を立てた。砂を踏む感触。そこから一歩踏み出すと——かつん、と硬い音に変わった。
硝子だ。
靴底を通じて伝わる温度が、一気に冷えた。灼けた砂漠の中に、氷のように冷たいガラスの大地。
「……マナが凍っている」
僕は、指先をそっと地面に触れた。
理の糸が——止まっていた。
流れるはずのマナの糸が、一本残らず静止して、ガラスの中に閉じ込められている。川の水が一瞬で凍りついたような、不自然な静寂。
「ノア様」
ヤスハが、声を震わせた。
「精霊たちの声が……ここから先、何も聞こえません」
「ああ」
アルヴァが低く頷いた。
「ここが境界だ。——これより南が、無音の領域」
風が吹いた。
だが、その風が硝子の大地に触れた瞬間——音が、消えた。
風の音が、ない。
砂を巻き上げる音が、ない。
空気は動いているのに、鼓膜に届く情報だけが消失している。
世界から、音だけが抜き取られたような——
「…………」
僕は、指先を硝子の地面から離した。
糸の先に触れたものは、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ——とてつもなく、深い孤独だった。
何千年も、ひとりぼっちで泣いている誰かの——凍りついた涙のような。
「ノア」
シオンが、僕の肩の上で身じろぎした。
その声には、珍しく——焦りに似たものが混じっていた。
「……この先にいるもの、私は知ってる」
「シオン?」
「後で話す。——今は、ここまでにしましょう」
シオンの尻尾が、僕の首にきゅっと巻きつく。
冷たかった。いつもより、ずっと。
アルヴァが振り返った。
「今日はここで野営する。——明朝、境界を越える」
二世たちが頷いて、手際よく野営の準備を始めた。
僕は背中のドスンさんを降ろした。きゅるるると展開し、今度は小さな焚き火台のような形に変形してくれる。
フクがとてとてと僕の足元に来て、鼻先をぐりぐりと膝に押しつけた。
「お師匠……なんか、ここ、怖いッス」
「大丈夫ですよ、フク」
僕はフクの頭を撫でた。
太陽の仔の毛は、いつもより少しだけ——冷えていた。
硝子砂漠の境界線から、音のない風が吹いてくる。
その風の奥に、僕の指先は確かに感じていた。
——泣いている。
この砂漠の奥で、何千年もの間、誰にも聞こえない声で、誰かが泣いている。
僕のすべきことは、最初から変わらない。
星の綻びを、直す。
ただ——シオンの冷たい尻尾の震えが、気にかかった。
お読みいただきありがとうございました!
前半の穏やかなお茶会から一転、辿り着いた「硝子砂漠」の不気味な境界。
音が消滅し、マナの糸すら凍りつく不自然な大地の奥底に、ノアは深く凍てついた「誰かの涙と孤独」を感じ取ります。
そしてかつての記憶に顔をしかめるシオン。彼女が語った「知っている」という存在の正体とは……?
次回、いよいよこの絶対の静寂を孕む「無音の領域」へと歩みを進めます。
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