影の深淵、全霊の一撃
お読みいただきありがとうございます!
模擬戦はノア一行の圧倒的な「完全分業」により、五人の精鋭が手も足も出ない膠着状態に。
しかしレオンは折れません。獣王の息子としての誇りを懸け、全力の最大の一撃を放ちます。
その黄金の閃光を、漆黒の影が静かに飲み込んだ時。
奈落の底に、かつてない静寂と深淵が広がります。
「…………」
崖の上の沈黙が、重い。
レオンが金属のクッションの上に転がされたまま、天を仰いでいた。
僕は、そっと微笑んだ。
「レオンくん、立てますか?」
「…………うるせえ」
レオンが、ゆっくりと起き上がった。
ドスンさんがきゅるりと金属を引いて、レオンを解放する。
少年が膝をつき、両手を地面について、荒い息を吐いた。
——悔しい。
その気配が、理の糸の震えとして、鮮明に伝わってきた。
十六歳の少年の、焦りと、誇りと、もどかしさが、黄金の糸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。
「……認めねえ」
レオンが呟いた。
「こんの……認めねえぞ……!」
「レオン」
アルヴァの静かな声が、横から飛んだ。
「やめろ。お前の闘気はもう——」
「うるせえって言ってんだろ!!」
レオンが立ち上がった。
双刃槍は、先ほどドスンさんに足を滑らされた時に手放してしまっている。
だが——素手の拳を握り締めたレオンの全身から、黄金の闘気が噴き出した。
さっきまでとは、桁が違う。
「——レオンくん?」
「……俺は、獣王ゲイルの息子だ」
レオンの声が、震えていた。
悔しさではない。
覚悟だった。
「親父の前で……こんな無様に寝転がされて……このまま終われるわけねえんだよ……!」
黄金の闘気が、収縮した。
膨張ではない。
レオンの体の中心に、あらゆる闘気が吸い込まれるように凝縮されていく。
「レオン、やめなさい! あれは——」
アイラの声が、切迫して響いた。
「【覇王の胎動】の全力解放よ! あの距離で受けたら——」
「知ったことか!!」
レオンが吼えた。
黄金の闘気が、臨界に達する。
彼の体が、太陽のように光り始めた。
「これが俺の全部だ——受けてみろ、調律師ッ!!」
レオンの拳が振り抜かれた瞬間——
黄金の闘気が、爆発した。
覇王の胎動。
至近距離のすべてを力技で粉砕する、獣王の血統が持つ絶対の一撃。
レオンが持てるすべてを注ぎ込んだ、十六歳の全霊の咆哮。
黄金の衝撃波が、奈落の底を真正面から薙ぎ払おうとした。
——その時。
「……はぁ」
僕の右肩の上で、シオンが、溜息をついた。
静かで、少しだけ呆れたような、猫の溜息。
「まだ懲りないの、あの子」
「シオン——」
「いいわ」
シオンの声が、すっと冷えた。
猫の体から、何かが——滲み出した。
「こいつらをひれ伏させないと終わらないのよね」
金色の瞳が、闇の中で静かに開く。
次の瞬間——
シオンの足元から、影が広がった。
影、という言葉では足りない。
僕の肩に乗っている小さな黒猫の体の下から、まるで夜そのものが溢れ出すように、漆黒の何かが——奈落の底を這い広がった。
音もなく。
ただ、静かに。
世界の底が、一段深くなったかのような——
——深淵。
レオンの黄金の衝撃波が、僕たちに届く直前。
影が、立ち上がった。
シオンの影が、壁のように——いや、口のように、大きく開いて——
黄金の光を——
——飲み込んだ。
ごくり、と。
まるで、喉を鳴らすように。
レオンの全霊の一撃が、黄金の閃光ごと、漆黒 of 影の中に吸い込まれて消えた。
光が、闇に呑まれた。
完全に。
一片の余波も残さず。
残ったのは——静寂だけだった。
「…………は?」
レオンの声が、虚空に落ちた。
奈落の底が、凍りついたように静まり返った。
フクの炎の壁すら、一瞬だけ揺らいだ。
そして——シオンの気配が、ほんの一瞬だけ、変わった。
小さな黒猫の体から滲み出た影が、まだ地面を覆っている。
その影の中に——途方もなく巨大な、冷たい、底のない深淵が口を開けていた。
それは、ほんの数秒だった。
ほんの数秒だけ、シオンは——その底知れぬ力の一端を、見せた。
——だが。
それだけで、十分だった。
「な……」
バラムの声が、震えた。
巨大な体躯を持つ鋼熊の青年が、無意識に一歩、後退っていた。
「……なんだ、これは……」
アルヴァの耳が、後ろにぺたりと倒れた。
歴戦の斥候隊長の体が、本能的に硬直している。
「……っ」
アイラが杖を握り締めたまま、動けなくなっていた。
クールで冷静な知性の少女の顔から、すべての色が抜け落ちている。
「——空気が」
ガルダが、上空で翼を広げたまま、動けなくなっていた。
「空気が、違う……。あの猫の下に、何がいる……?」
獣人たちの本能が、叫んでいた。
あの小さな黒猫の中に眠っているものが——自分たちとは、存在の次元が違うと。
あれは、猫ではない。
あれは——
「…………」
レオンが、膝から崩れ落ちた。
闘気の全力解放の反動もある。
だが、それ以上に——目の前の深淵に、魂が竦んでいた。
五人全員が、戦意を失っていた。
シオンが、ふ、と影を引いた。
地面を覆っていた漆黒が、するりと猫の足元に戻っていく。
何事もなかったかのように。
小さな黒猫が、僕の右肩の上で、ぺろりと前脚を舐めた。
「——ノア。終わったわ」
「……シオン」
僕は、苦笑した。
「……ちょっとだけ、やりすぎじゃないですか?」
「あら。あの子が全力で殴りかかってきたんだから、これくらいの躾は必要よ」
「躾って……」
僕は小さく溜息をつき、そして——レオンのほうへ歩き出した。
一歩、二歩。
ドスンさんの防壁が、きゅるりと左右に開いて道を作ってくれる。
膝をついたまま動けなくなっているレオンの前に、僕はしゃがみ込んだ。
「レオンくん」
「…………」
返事がない。
レオンの体が、まだ震えている。
全力を出し切った反動と、シオンの深淵を垣間見た恐怖で、体が言うことを聞かないのだろう。
僕は、そっと手を伸ばした。
指先が、レオンの肩に触れる。
——ぴくり、と。
レオンの肩が跳ねた。
「……大丈夫ですよ」
僕は、できるだけ穏やかな声で言った。
「怖かったですよね。ごめんなさい、うちの猫が少し意地悪をしちゃって」
「い、意地悪って……あんなの……」
レオンの声が掠れていた。
「あんなの、意地悪のレベルじゃ——」
「レオンくん」
僕は、にこりと笑った。
「あなたの一撃、とても綺麗でしたよ」
「……は?」
「黄金の糸が、ぎゅっと一点に集まって、それが一気に弾けた。……まるで、小さな太陽が生まれたみたいでした」
「…………」
「あなたのお父さんの糸と、とてもよく似ている。でも、お父さんのものとは違う——レオンくんだけの音がしました」
レオンの震えが、少しだけ収まった。
「……俺だけの、音?」
「ええ。まだ荒削りで、少し焦っている音でしたけど——芯がとても太くて、温かい音です」
僕は、レオンの肩をぽんぽんと叩いた。
「だから、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「…………」
レオンが、長い沈黙の後——ふっ、と力を抜いた。
膝をついたまま、がくりと頭を垂れる。
「……負けだ」
小さく、小さく。
十六歳の少年が、初めて——明確な敗北を受け入れた。
お読みいただきありがとうございました!
レオンの全身全霊の一撃を、シオンの影がごくりと飲み込む——あの瞬間、奈落の底の空気が根こそぎ変わりました。
シオンの中に眠る深淵の片鱗。それを「うちの猫が意地悪してすみません」と笑って済ませるノア。
そして、レオンが初めて明確な敗北を受け入れました。
次回、この模擬戦を見届けていた獣王ゲイルが、ついに裁定を下します!
ブックマークや評価、ご感想をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




