奈落の若き牙と、太陽の少年
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五牙の長たちの前で、死か生かを賭けた実力証明を求められたノア。
奈落の底へと姿を現す五人の第二世代たち。
その中に、かつての友の面影を見出したノアは——。
崖の反対側——奈落の底から、微かな足音が聞こえてきた。
複数。
五つの気配が、砂を踏みながらこちらへ近づいてくる。
雨上がりの冷たい風と針葉樹林の匂い——アルヴァ。
雲の上の乾いた空気と猛禽の尖った匂い——空を飛ぶ者。
焼けた鉄と煤の匂い——鍛冶の熱。
高地の涼しい風と薬草の匂い——冷涼な知性。
そして——太陽に干した砂と柑橘の匂い。
さっき、崖の上で唇を噛んでいた少年だ。
「我が国の若き精鋭たちだ」
ゲイルが言った。
「この奈落の底で、模擬戦を行え。——俺の目で、お前の力を量る」
模擬戦。
五対一——いや、五対四か。
シオン、フク、ドスンさんを入れれば。
「お待ちください、獣王様!」
ヤスハの声が、再び崖の上から響いた。
今度は、さっきよりも切迫していた。
「彼は盲目なんです! 模擬戦なんて——怪我をしたら——」
「ヤスハ」
ゲイルの声が、ほんの僅かに——柔らかくなった。
「だからこそだ。——盲目で、丸腰で、あの体格で。それでも『魔王』を名乗る者が、本当に力を持っているのなら。見てみたいとは思わんか」
ヤスハが、言葉に詰まった。
崖の上に、しん、と沈黙が落ちた。
五牙の長たちが、それぞれの思惑を胸に、僕を見下ろしている。
処刑を望む者。
興味を抱く者。
疑う者。
心配する者。
——そして、黙って見据える、絶対の王。
「さて」
僕は、そっと息を吸い込んだ。
奈落の底に吹き込む風は、赤土と鉄錆の匂いがした。
朝の空気は澄んでいて、岩壁に反響する風の音が、まるで巨大な楽器の内側にいるみたいに美しかった。
フクが、僕の足元で唸りを上げている。
シオンが、僕の肩の上で爪を立てている。
ドスンさんのランプが、赤く点灯している。
三人とも、臨戦態勢だ。
——切迫した風は、しかし怒りの匂いじゃない。
試されているだけだ。
「おや」
僕は、にこりと笑った。
「運動ですか。いいですねぇ」
「…………」
奈落の底が、しん、と静まり返った。
「シオン、聞きましたか。朝ごはんの前に、良い準備運動ができそうですよ」
「……あんた、今のこの状況が理解できてるの?」
「はい。模擬戦ですよね。体を動かすのは久しぶりですから、楽しみです。——あ、でも、お肉は模擬戦の後にいただけるんでしょうか。シオンが、この山のお肉はジューシーで美味しいって言っていたので、フクにも食べさせてあげたいんですけれど」
「……お師匠」
フクが、力の抜けた声を出した。
「今そこッスか?」
「だって、フクも山の肉は食べたいでしょう?」
「食べたいけど! 今はそういう話じゃなくてッ!」
崖の上で、ぶっ、と誰かが吹き出した。
すぐに咳払いで誤魔化す音が聞こえたが、遅い。
——ああ、笑った。
昨晩、地下牢を覗きに来た子たちと同じだ。
崖の上で、ゲイルが——低く、腹の底から、地響きのような笑い声を上げた。
「ハッハッハ!」
その笑い声は、覇気とは違う種類の圧力で、奈落全体を揺らした。
「面白い! 面白い小僧だ! 帝国と教会が血相を変えて追い回す新魔王が、肉の心配をしているとは!」
ゲイルの笑い声が、ゆっくりと収まった。
けれど、その声の温度は、さっきより少しだけ上がっていた。
「……いいだろう」
ゲイルが言った。
「気に入った。——小僧、お前の名は」
僕は、のんびりとお辞儀をした。
「ノアです。ただのしがない調律師です。よろしくお願いします」
「調律師だと」
「はい。ちょっとした、世界のお手入れみたいなものです」
「……ヴォルダ」
ゲイルが、五牙のひとりに声をかけた。
返ってきたのは、極めて短く、ぶっきらぼうなダミ声だった。
「……王。生かして見る価値はある」
それだけ。
けれど、その短い言葉には、不思議な重みがあった。
「ルーガスは反対だろう。ゼピュロスも」
「…………」
凍てついた沈黙と、キンと冷たい舌打ち。
「反対派にも見せてやれ」
ゲイルが、巨大な大剣を——崖の上から、奈落の底に投げ落とした。
ずどん、という轟音とともに、大剣が砂の地面に深々と突き刺さった。
その衝撃波が僕の足元を揺らし、フクが「ひゃっ」と小さく跳ねた。
「我が若き牙どもよ!」
ゲイルの咆咆が、奈落を震わせた。
「この盲目の人間に、お前たちの全力を見せてやれ。——手加減するな。手加減をすれば、死ぬのは己だと思え」
奈落の底で、五つの気配が——ぴりっと、引き締まった。
アルヴァの冷たい糸が、鋭く研ぎ澄まされる。
猛禽の気配が、ばさりと翼を広げた。
鍛冶の熱が、ぐっと足場を踏み固めた。
薬草の匂いが、すっと静かに集中した。
そして——太陽に干した砂と柑橘の匂い。
さっき、崖の上で唇を噛んでいた少年だ。
にやりと。
真っ直ぐで、隠し事のない、若い笑み。
「よっしゃ!」
少年の声が、朗々と奈落に響いた。
「聞いたかアルヴァ、ガルダ! 親父が手加減するなって言ったぞ! ——おい、盲目の調律師! 俺はレオン・レグリア・ヴォルグ! 獣王ゲイルの息子だ! お前が魔王だろうが何だろうが——全力でぶっ飛ばす!!」
若い。
真っ直ぐ。
あまりにも真っ直ぐで、思わず胸が——きゅ、と痛くなった。
なぜだろう。
この声と、この匂いと、この焦るような真っ直ぐさが——誰かに、とてもよく似ている気がした。
誰だったかな。
僕の知っている誰か。
太陽のような金髪で、いつも一番に突っ込んでいって、いつも一番に怪我をして、それでも絶対に折れない——
——ああ。
……ルーク。
ほんの一瞬だけ、胸の奥で、とても古い糸が震えた。
大剣を振るう彼の、眩しい笑顔。
でも、その名前は、もう僕から世界に届くことはない。
だから——。
「よろしくお願いします、レオンくん」
僕は、にこりと笑った。
「あまり激しくしないでくださいね。僕、運動は苦手なので」
「はぁ!? ナメてんのか!?」
「ナメてないですよ。本当に苦手なんです」
「お師匠ぉ……」
フクが、頭を抱えるような声を出した。
シオンが、深い深い溜め息を吐いて、僕の肩の上で爪を研ぎ直した。
「……はいはい。どうせ何を言っても無駄ね。——ドスンさん、準備して。フク、あんたもよ」
僕の腕の中からするりと抜け出したドスンさんが、きゅるる……と体表を波打たせながら、滑らかな液体金属のように広がっていった。
黒銀色の金属が、するりと流れるように巨大な壁へと形を変え、僕たちの正面へとぬるりと移動する。
フクが、ぶるっと全身の毛を逆立てた。
白金の毛並みの根元から、微かな——けれど確かな熱が立ち昇る。
太陽の欠片のような、乾いた熱。
崖の上から、ゲイルが見下ろしている。
五牙の長たちが、腕を組み、あるいは杖を握り、それぞれの思惑を胸に——じっと、奈落の底を見つめている。
朝日が、筒状に切り取られた空から差し込んで、奈落の底に細い光の柱を立てた。
その光の中に、僕たちは立っている。
盲目の調律師と、黒猫と、仔狼と、鉄の騎獣。
対するは、大山脈が誇る若き精鋭——五つの部族の、未来そのもの。
風が、ゆっくりと動き始めた。
奈落の底に、赤土と獣と、朝露の匂いが満ちていた。
「——始め」
ゲイルの声が、落ちた。
お読みいただきありがとうございました!
ついに始まった、第二世代の精鋭たちとの模擬戦。
かつての勇者ルークを彷彿とさせる、獣王の息子レオンの真っ直ぐな言葉に、ノアは何を思うのか。
次回、いよいよ戦闘開始です!
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