五牙の奈落と、名もなき匂い
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獣王の咆哮砦の地下牢で一夜を過ごしたノアたち。
朝を迎え、いよいよ大山脈の最高意思決定機関『五牙』の長たちの前へと引き出されます。
盲目の新魔王に下される裁定は——死か、生か。
肩を、揺さぶられた。
小さくて柔らかい、猫の前脚。
「ノア。起きなさい」
シオンの声は静かだったけれど、その下に、研ぎ澄まされた緊張の糸がひとすじ張っているのが、僕にはわかった。
「……おはようございます、シオン」
「おはようじゃないわよ。来たわ」
鉄格子の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
昨日までの、ひとりかふたりの見張りとは違う。
四つ、五つ——いや、もっと多い。
爪が石床を叩く硬質な音、革の鎧が擦れる音、そして何よりも、彼らの体から立ち昇る緊張した体温が、地下牢の冷たい空気をじわりと押し返していた。
「……お師匠、やばいッスよ」
フクが僕の膝の上から跳び起きた気配がした。
低い声で唸るような、仔狼の警戒の呼吸。
「大丈夫ですよ、フク」
僕はソファー形態のドスンさんの背もたれから身を起こして、寝癖を軽く手で撫でつけた。
がちゃり、と鍵が外れる音。
ぎい、と鉄格子が引き開けられる。
流れ込んでくる空気が変わった。
地下牢の湿った苔の匂いに、赤土と獣脂の乾いた匂いが混じる。
外の空気だ。
「——出ろ」
アルヴァの声だった。
冷徹で、端的で、余計な言葉が一切ない。
昨日と同じ声。
だけど、彼の心拍が、ほんの僅かに速い。
理の糸越しに触れる彼の気配は、僕たちに向けた敵意ではなかった。
何かを——心配しているような、そんな揺れ方をしている。
「おはようございます、アルヴァさん。今日はお天気ですか?」
「…………」
アルヴァは答えなかった。
代わりに、小さく——本当に小さく、溜め息のような息を吐いた。
「……余計なことを喋るな。黙ってついてこい」
その声が、どこか不器用に優しく聞こえたのは、僕の気のせいだろうか。
ドスンさんがきゅるりと流体音を鳴らし、ソファーの形を解いて、するりときゅるっと小さな金属の球体へと可変した。
水銀のように滑らかに形を縮めたドスンさんを、僕は両手で抱きかえるようにして抱っこする。ひんやりと温かい、不思議な重み。
牢の外で待機していた獣人の兵士たちの間に、微かなざわめきが走ったのがわかった。
——金属なのに、まるで生き物のスライムのように縮んで腕に収まる。
初めてドスンさんの変形を見る者は、たいていこの反応をする。
フクが僕の足元にぴたりとくっつき、シオンが僕の右肩に飛び乗った。
小さな肉球が、ぎゅ、と僕のローブの肩を掴む。
「……いい? 何を訊かれても、余計なことは言わないの。あんたは黙っていなさい」
「はい」
「絶対よ」
「はい」
「……信用してないけど」
「えぇ?」
シオンの尻尾が、ぺし、と僕の首を叩いた。
僕たちは、アルヴァに先導されて、地下牢のトンネルを戻り始めた。
昨日、連行された道を逆に辿っている。
石畳を踏む僕の足音と、ドスンさんの重い——けれどどこか柔らかい歩行音と、フクの軽い爪の音が、規則正しく反響していた。
*
トンネルの先で、空気が——爆ぜた。
そうとしか表現できなかった。
地下の冷たく閉じた空間から一歩踏み出した瞬間、頭上から途方もない量の風が、まるで巨大な滝のように僕の全身に叩きつけてきた。
冷たい風ではない。
大山脈の岩肌が朝日に焼かれた、乾いた土と鉄錆の熱を含んだ上昇気流だ。
そして——下だ。
足元の地面の先が、ぷつりと途切れている。
漂う理の糸が、崖の縁でふっと途切れて泳ぐ感触が伝わってきた。
——落ちている。
深い。
果てしなく深い。
崖の下から吹き上げる風を撫でていた糸の感覚からして、底まではかなりの距離がある。
崖だ。
巨大な、垂直の崖。
砦の内部にぽっかりと口を開けた、天然の縦穴のような構造で、頭上は遥か高くまで吹き抜けており、朝の空が筒のように切り取られている。
「……すごい場所ね」
シオンが、僕の肩の上で息を呑んだ。
「直径百メートル以上はある巨大な縦穴よ。崖の壁面にいくつもの洞窟が穿たれていて、それぞれが部族の居住区になっているみたい。正面の崖の一番高いところに——五つの巨大な岩が、牙のように突き出しているわ」
「牙ですか」
「ええ。それぞれの岩が椅子のようになっていて、その上に——」
シオンが、言葉を切った。
切ったのではない。
シオンの喉が、僅かに詰まったのだ。
なぜなら、理の糸が——崖の上から、押し潰されるように、軋み始めたからだ。
凄まじい圧力。
音ではない。
熱でもない。
大気そのものに、太く黄金色の大綱のような何かが、重力みたいにのしかかってくる。
マナの圧——覇気だ。
それも、僕が今まで感じたことのないほどの、途方もない密度の。
空間に漂う理の糸が、その圧力に押されて一斉にびりびりと震え、まるで嵐の中の蜘蛛の巣のように激しく揺れている。
フクが、くぅん、と小さく鳴いた。
本能的に腰が引けてしまったらしい。
ドスンさんのランプが、きゅるっと赤に切り替わった。
——大丈夫。
僕は、フクの頭をそっと撫でた。
「大丈夫ですよ。この風、すごく大きいけれど——怒っているわけじゃないです。ただ、そこに在るだけ」
崖の上から、声が降ってきた。
空気をびりびりと振動させ、岩壁を共鳴させる、地響きのような重低音。
話すだけで、その場のすべてを黙らせてしまう、王の声だった。
「——それが、人間どもの間で『新魔王』と恐れられている小僧か」
風が、止まった。
いや——止まったのではない。
その声が発せられた瞬間、奈落を吹き抜ける大気の流れそのものが、まるで王の言葉に道を譲るように、一瞬だけ息を潜めたのだ。
「……あれが、この国の王ね」
シオンが、僕の耳元で極めて小さく囁いた。
「崖の一番上、中央の岩。とんでもない巨体——二メートルを優に超えてるわ。金色の、たてがみのような髪。全身の筋肉が異常。そして、頭の上に——骨で出来た冠を被っている」
なるほど。
この圧倒的な覇気の主か。
理の糸越しに触れる気配は、太陽に焼かれた乾いた赤土と、凄まじい闘気の残り香。
そして——その奥に、不思議なほど真っ直ぐな芯が通っている。
傲慢ではない。
ただ、圧倒的に強いだけだ。
「ゲイル王」
崖の上から、冷たく、凍てついたような細い糸が響いた。
氷点下に近い体温。
深夜の吹雪と、乾いた冷たい鉄の匂い。
アルヴァと非常によく似た、冷たく静かな気配だ。
「人間どもの国々での噂は聞いております。そこの盲目の小僧は特異点とやらを荒らし回り、大陸中の均衡を根底からひっくり返しているとか。——帝国と教会が討伐令まで出して騒ぎ立てているほどです。人間の中でも極めて危険とみなされた個体、生かしておく理由はありません」
灰狼の長——ルーガスと呼ばれる男の発言だった。
すぐ隣の岩から、今度は正反対の声が飛んできた。
氷を削り出すような、キンと冷たく響く高い声。
「議論など不要だ、ゲイル!」
それは、大気全体を鋭く切り裂くような翼の長、ゼピュロスの声だった。
「地を這う羽なしの分際で、魔王を騙るなど……。そ奴がこの地で吐く汚い呼吸で、我が国の澄んだ空気が汚れるだけでも万死に値する! 我が天空の矢をもって、今すぐその首を山壁に縫い止めてくれよう!」
大きな翼が、ばさりと崖の上で広がった。
その風圧だけで、僕の前髪がふわりと揺れた。
「——お待ちください!」
高い方の崖から、澄んだ、凛とした少女の声が響いた。
柔らかいのに、折れない。
薄氷の上に咲いた花のような、透き通った声だ。
理の糸を通して触れる気配は、小さな鈴のような清らかな旋律。
彼女の周囲だけ、大気がほんのりと甘い草の匂いに包まれている。
「彼は、盲目です。目が見えないんです。そのような方を、問答無用で処刑するなど——」
「ヤスハ様」
灰狼の長ルーガスが、静かに遮った。
「あなたの慈悲深さは美徳ですが、人間はいつの時代も、握手を交わす裏で牙を研ぐ生き物だ。盲目であろうとなかろうと、それは変わらない」
少女——ヤスハの息が、きゅっと詰まったのが聞こえた。
その横で、もうひとつ、若い気配がぴくりと動いた。
太陽に干した乾いた砂と、柑橘のような若い匂い。
黄金色の細い糸が、未完成ながらも激しく渦巻いている。
若い、熱い、焦っている——少年の気配だ。
彼は何か言いかけて、しかし唇を噛んだらしく、歯を鳴らす小さな音だけが聞こえた。
何かを言いたくて、でも言えない。
そんな悔しさが、彼の周囲の理の糸を小さく震わせていた。
——ああ。
この子は、きっと真っ直ぐな子だ。
ゲイルが、ゆっくりと立ち上がった気配がした。
岩が軋むような、重い音。
大気が、再び彼の覇気に押されてびりびりと鳴る。
「静まれ」
たった一言。
けれどその一言で、奈落のすべての風と声と、鳥の鳴き声までが、しん、と凍りついた。
「殺すのは簡単だ。だが——」
ゲイルの視線が、僕を射抜いているのが、理の糸越しにわかった。
見下ろされている。
二十メートル以上も高い崖の上から、絶対の王が、たったひとりの盲目の人間を。
「——小僧。お前が何者かは知らん。魔王だろうが、旅人だろうが、俺にとってはどちらでも構わん」
ゲイルの声は、不思議と、怒りの色が薄かった。
「だが、死にたくないのであれば——その実力を示せ」
実力。
「お前が本当に『魔王』と恐れられるだけの力を持っているのか。あるいは、ただの小悪党がハッタリで虚勢を張っているだけなのか。——それを、この場で確かめる」
お読みいただきありがとうございました! 牢から引き出され、五牙の長たちと対峙したノア。 人間たちの噂を危険視する長たちに対し、獣王ゲイルの下した判断は「実力を示せ」というものでした。 次回、いよいよ奈落の底で模擬戦の火蓋が切られます! ブックマークや評価、ご感想をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




