夜更けの爪音と、星空の匂い
お読みいただきありがとうございます!
無事に(?)牢屋へと収監されたノアたち。
けれど、ドスンさんの見事な変形機能のおかげで、牢の中はまるで特等席のような温かさに包まれていました。
フクが健やかに眠りに落ち、シオンに縄を解いてもらったノアが静かに夜を過ごしていると、暗闇の向こうからひそやかな「爪音」が近づいてきて……。
緊迫した砦の奥で紡がれる、静かで温かな夜の一幕です。
小さな鼾が、牢の岩壁に反響する。
「……この子たちは」
シオンが、静かに笑った。
猫の小さな体がするりと僕の肩から降りて、ドスンさんのソファーの肘掛け部分にちょこんと座った。
長い尻尾が、ゆらりと揺れている。
「……まあ、いいわ。明日の朝までは、何もできることがないのは事実よ」
「そうですね。アルヴァさんも、水と食料は持ってきてくれるそうですし」
「あの狼、律儀ね。——嫌いじゃないわ」
シオンの声のトーンが、ほんの少しだけ柔らかくなる瞬間がある。
他者をけなしているように聞こえても、認めている時の、あの微妙なニュアンス。
それが僕にはちゃんと聞こえているから、シオンはたまにすごく嫌そうな顔をする。
——らしい。
表情は見えないけれど、顔を背ける時に耳が倒れる角度で、なんとなくわかるのだ。
「ノア」
「はい」
「手」
シオンの前足が、僕の左手に触れた。
縛られたままの手首の麻縄を、器用に爪でひっかけて切っていく。
するすると拘束が解けて、血の巡りが戻ってきた。
じんじんとした痺れが、指先から肘へと抜けていく。
「ありがとうございます、シオン」
「……馬鹿。自分で解けるでしょうに。理の糸でちょいと摘めば、縄の一本くらい」
「それだと、アルヴァさんたちの面目が潰れるかなって」
「…………」
シオンが深い溜め息を吐いた。
しかし今度の溜め息には、怒りの成分がほとんど入っていなかった。
代わりに、どこか温かくて、少し切ない響きが混じっていた。
「ほんと……あんたって子は」
シオンの前足が、僕の解かれた手首に、そっと重なった。
小さくて、ひんやりとした肉球。
でも、その奥にある体温は、いつだってどんな焚き火よりも温かい。
しばらく、静寂が続いた。
フクの小さな鼾。
ドスンさんの歯車が刻む、微かな律動。
岩壁から滴る水の、ぽた、ぽた、という一定の拍子。
奇妙に心地の良い時間だった。
牢屋なのに。
囚人なのに。
仲間がそばにいて、温かい鉄の寝床があって、小さな鼾が聞こえる。
それだけで、世界は十分に優しい。
どのくらい微睡んだだろう。
足音で目が覚めた。
——いや、正確には、足音ではなかった。
爪。
硬い岩床を、慎重に踏む爪先の音。
人間の足音とは根本的に質が違う。
獣人たちの爪は、靴を履かない分、直接岩を掻く微かな引っかき音を伴う。
その音が、三つ。
いや、四つ。
牢の鉄格子の向こう側を、ゆっくりと横切っていく。
夜行性。
昼間に砦の外で見かけた犬獣人や狼獣人とは、足音のリズムが違う。
もっと軽くて、しなやかで、粘りのある足運び。
猫科——あるいは、夜目の利く種族だろうか。
「……見に来たわよ」
シオンの声が、耳元で極めて小さく囁いた。
起きていたらしい。
「三人、いいえ四人。全員若いわ。武装はしているけれど、殺気はないわね。——好奇心と、警戒が半々」
「覗きに来たんですね」
「そうよ。珍しいもの。人間と、鉄の塊と、仔狼が、牢の中でソファーに座ってぐっすり寝ている光景なんて、そうそう見られないでしょうからね」
シオンの声に、わずかな皮肉が乗った。
鉄格子の向こうで、小さな吐息が漏れた。
息を殺しているつもりなのだろうが、呼吸の振動は理の糸が正直に拾い上げてしまう。
四人。
確かに全員若い。心臓の鼓動が速い。
——そして、一人だけ、微かに体が震えている。
怖いのだろう。
獣人の子供にとって、「人間」は——おとぎ話に出てくる、同胞の感覚を奪って兵器に変える「強欲な泥棒」だ。
怖くて当然だ。
僕は、わざと少し寝返りを打って、聞こえるか聞こえないか程度の小さな寝言を呟いた。
「…………んぅ。シオン、おかわり……」
鉄格子の向こうで、ぴく、と誰かの耳が跳ねた気配がした。
一拍の沈黙。
それから——ぷっ、と吹き出すように、微かな笑い声が漏れた。
すぐに口を押さえた気配。
別の一人が、小声で何か囁く。
——大丈夫だ。
この子たちは、笑うことができる。
笑える生き物は、殺し合いなんてしたくないはずだ。
足音が、静かに遠ざかっていく。
四つの爪音が、トンネルの奥へ溶けていった。
「……起きてたでしょ」
シオンが、呆れた声で言った。
「バレましたか」
「あんたの寝言は、もっとひどいわよ。『シオンの耳が三つに増えた……』とか言い出すの」
「えっ、僕そんなこと言うんですか」
「言うのよ」
シオンの尻尾が、ぺし、と僕の頬を叩いた。
「……でも」
シオンの声が、ほんの少しだけ真剣な色を帯びた。
「あの子たちが笑ったのは——いい兆候ね」
「ええ」
「明日、この国のお偉いさんたちに引き出される。五牙——五つの部族の長による裁定よ。人間のような書面の裁判じゃないわ。彼らは獣の論理で判断する。匂いと、声と、目で」
「そうですね」
「……あんた、何も考えてないでしょ」
「考えていますよ。——明日の朝ごはんに、お茶が出るかなって」
「…………」
シオンの沈黙が、いつもより三拍ほど長かった。
やがて、小さな、とても小さな——くすっ、という笑い声が聞こえた。
「……バカ」
その一言は、星空の匂いがした。
僕はその匂いに包まれたまま、もう一度——今度は本当に——目を閉じた。
岩壁の水滴が、ぽた、と鳴る。
フクの鼾が、規則正しく続いている。
ドスンさんの歯車が、ゆっくりと、眠る子守唄のように回っている。
明日。
この国の長たちが、僕に何を問うのかはわからない。
ベース、大丈夫だ。
ここには、星空の匂いがする人と、温かい鉄と、小さな仔狼がいる。
——世界で一番安全な牢屋だと思いながら、僕は眠りに沈んでいった。
お読みいただきありがとうございました!
夜更けにこっそりと「人間」を見にやってきた、若い獣人たち。
彼らの警戒心を解いたのは、ノアの「シオン、おかわり……」という、なんとも間抜けで平和な偽寝言でした。
彼らが「笑うことができる」と知ったこと。それは明日、五つの部族の長たち「五牙」と対峙するノアにとって、これ以上ない希望の種となりました。
緊迫した状況にあっても、相手の「生」や「心」を信じようとするノアらしさが光る夜です。
そして、シオンの呆れた「バカ」という言葉に「星空の匂い」を感じるノア。二人が過ごしてきた旅の長さと信頼の深さが、この暗い牢獄を世界で一番安全な場所にしてくれているのかもしれません。
次回、いよいよ「五牙」の長たちとの謁見が始まります。
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