檻の中の微睡みと、明日の兆し
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獣人たちの不落の本拠地『獣王の咆哮砦』の門をくぐったノアたち。
待っていたのは、謁見でも歓迎でもなく、冷たい岩牢でした。
けれど、この一行にとって「牢獄」という言葉は、どうやら世間一般とは少しだけ意味が違うようで——。
苔の匂いが、濃くなった。
足の裏に触れる地面の感触が、乾いた砂利から、ひんやりと湿った石畳に変わっている。
砦の内部に入ってから、空気の層が何度も切り替わった。
地表に近い荒々しい獣の体温と砂埃の層。
少し下りれば、地下水脈から滲む冷涼な鉄の匂い。
さらに奥へ進むたびに、天井が低くなっているのか、自分の息遣いが反響する距離が短くなっていくのがわかる。
「……ずいぶんと深いところに降りてきたわね」
シオンが、低い声で囁いた。
「岩盤を掘り抜いたトンネルよ。壁に等間隔で松明が灯っていて、天井からは鍾乳石のような岩が垂れ下がっているわ。——ところどころに、獣脂を塗り込んだ爪痕が光を反射して、まるで星のように光っている」
「星ですか.綺麗ですねぇ」
「……あんたの感想回路は一体どこに繋がっているのかしら」
頭上の低い天井に、ドスンさんの背中が擦れて、がり、と硬い音を立てた。
ドスンさんが小さく歯車を軋ませる。
このトンネルは獣人の体格に合わせて作られているから、鉄の騎獣であるドスンさんにはだいぶ窮屈らしい。
「大丈夫ですか、ドスンさん。痛くないですか」
きゅる、とドスンさんのスリットのランプが短く点滅した。
たぶん、大丈夫、という意味だろう。
先導するアルヴァの足音が、不意に止まった。
じゃり、という砂利の最後の一音が、ぽとりと落ちるように消える。
「——ここだ」
アルヴァの声は、これまでと変わらない冷徹な響きだったが、ほんの僅かに——ほんの一瞬だけ、間があった。
ぎい、と重い金属の音が鳴る。
鉄格子を引き開ける、嫌に甲高い軋みだ。
「『五牙』の長たちへの報告は済ませた。明朝、招集がかかるまでここで待て。——水と食料は後から運ばせる」
牢屋か。
僕は、理の糸で周囲を軽く撫でてみた。
四方を囲む分厚い岩壁。正面には鉄格子。天井は低く、奥行きは十五歩ほど。床に敷かれているのは乾燥した藁と、革を張っただけの粗末な寝台が二つ。
隅の方で、ぽた、ぽた、と岩の間から水が滴る音がする。
冷たくて、暗くて、静かな場所。
「——おお!」
僕は、思わず声を上げた。
「牢屋ですか! 僕、牢屋に入るのは初めてです!」
「…………」
「…………」
シオンとフクの、心底呆れ返った沈黙が、じわりと僕の肩に圧し掛かった。
「いえいえ、だって、旅の記録としては珍しい体験じゃないですか。宿屋とも野宿とも違う、独特の風情がありますよ。この苔の匂いと、水滴の反響——ほら、すごく良い残響ですよこれ」
「お師匠……!!」
フクが、もうどこから怒っていいかわからないという風に、爪を岩床にがりがりと立てた。
「こ、こういう時は怒るところッス! おいらたち今、囚人ッスよ!? 手も縛られてるし、目隠しもされてるし——」
「ああ、目隠しはもう取られましたよ、フク。さっきアルヴァさんが外してくれました」
「お師匠にとっては同じッスよね!?」
——それもそうだ。
見えない僕にとって、目隠しの有無はほとんど変わらない。
「……はあ」
シオンが、深い深い溜め息を吐いた。
その息が、猫の小さな鼻先から、僕の首筋にふわりとかかる。
「フク。怒っても無駄よ。この子の頭のネジは、私が何年かけてもまだ見つけられてないんだから」
「ねえさんもうちょっと探す気出してほしいッス……」
「探したわよ。八年かけて」
シオンの尻尾が、ぱたん、と僕の背中を叩いた。
諦観と愛情が半分ずつ混じったような、いつもの叩き方だ。
僕たちが牢に足を踏み入れると、背後で鉄格子が——がしゃん、と重い音を立てて閉じた。
鍵を掛ける、かちゃり、という金属音。
そして、アルヴァの足音が遠ざかっていく。
……去り際に、彼の尻尾が一瞬だけ僕たちの方へ揺れたのを、理の糸が拾い上げた。
あれは、何の感情だったのだろう。
まあ、いい。
今は考えても仕方がない。
「さて」
僕は、縛られたままの手首をもぞもぞと動かしながら、牢の奥へとゆっくり歩いた。
粗末な寝台に腰を下ろす。
板が軋んで、ぎし、と不安定に鳴った。
「ドスンさん。入れますか?」
鉄格子の向こうで、ドスンさんが困ったように歯車を鳴らしていた。
やはり、鉄格子の幅が足りないらしい。
でも、ドスンさんは僕が呼ぶと、がこん、と体の関節をひとつずつ折り畳んで、器用に横幅を縮めながら格子の隙間を擦り抜けてきた。
ずず、と重い金属の体が石床を滑る音。
牢の中に、ドスンさんの暖かい蒸気の匂いが広がった。
「よかった。ドスンさんがいないと、少し寒いですからね」
きゅるる、とドスンさんが嬉しそうにランプを点滅させた。
——と。
次の瞬間、がしゃがしゃがしゃ、という派手な変形音が牢の中に響き渡った。
「な,何ッスか!?」
フクが飛び退く気配。
ドスンさんの体が、みるみるうちに姿を変えていく。
鉄の騎獣だった四肢が折り畳まれ、背面のパネルが展開し、内部から柔らかい革張りのクッションのようなものがせり出してきた。
歯車が回り、蒸気がしゅう、と噴き出し、やがて——。
静かになった。
僕は恐る恐る手を伸ばして、変形後のドスンさんの表面に触れた。
滑らしで、ほんのりと暖かい革のような感触。
座面は程よい弾力を持ち、背もたれは緩やかにカーブして背中を支えてくれる形状になっている。
「……ドスンさん。これ、もしかして」
ソファーだ。
ドスンさんが、牢の中で、ソファーに変形した。
「…………」
フクが、ぽかんとした気配のまま固まっていた。
「ドスンさん……すごいッス……」
「本当ですねぇ。あ、ここ、足を乗せる部分まである。ドスンさん、これはオットマンですか?」
きゅる、とドスンさんのランプが黄色に灯った。
肯定だ。
「……あんた、こんな機能いつの間に追加したの」
シオンが、呆れを通り越して感心したような声を出した。
「たぶんドール・ガリアで、トロさんたちが装甲を強化してくれた時に、内装も改良してくれたんだと思います。ドスンさんは普段からこういう——僕たちが楽になることを、一生懸命考えてくれていますから」
きゅるるる、とドスンさんのランプが、じわりと明るくなった。
照れているのだと思う。
「ほら、フク。こっちに来てごらんなさい。暖かいですよ」
「う、うぅ……」
フクの足音が、おずおずと近づいてきた。
小さな前足が、ドスンさんのクッションの端に触れる。
一瞬の沈黙。
——そして、ぼすん、と小さな体がクッションに沈み込む音がした。
「…………あったかいッス」
フクの声が、とろん、と溶けた。
緊張で逆立っていた毛並みが、ほわほわと弛緩していくのが理の糸越しに伝わってくる。
うとうとと丸くなりかけて、はっと我に返ったらしく、フクが慌てて首を上げた。
「い、いや、今はくつろいでる場合じゃないッス! おいらたち囚人——」
「フク」
「——ッス」
「おやすみなさい」
「……くぅ」
三秒で落ちた。
お読みいただきありがとうございました!
牢に入れられても変わらないノアたちの温かな日常。
ドスンさんのソファー変形は、ドール・ガリアの職人たちが密かに仕込んでくれた愛情の塊です。
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