赤い谷と、静かなる蝕
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灰狼族の斥候隊に捕らえられたノアたち。
手首を縛られ、目隠しをされたまま、獣人たちの本拠地へと連行されていきます。
険しい谷の合間で聞こえてくる、獣人兵たちの焦りを孕んだ囁き声。
そこには、この国を脅かす新たな影が潜んでいました。
数時間が、過ぎた。
砂を踏む、砂利の音。
風に混じる、多くの獣たちの乾いた体温。
麻縄で後ろ手に縛られた手首が、乾燥した夜風のせいで少し痛む。
目隠しをされているけれど、僕にとってはあまり意味がなかった。
元から見えない僕の目にとって、世界は「光」ではなく「理の糸」の振動で編まれているから。
「シオン」
僕は、右肩の上にそっと話しかけた。
「今、僕たちはどんな場所にいるんですか」
シオンの長い尻尾が、僕の首筋をぱたりと叩いた。
「……赤い岩壁よ。見渡す限りね」
「赤い、ですか」
「ええ。硝子砂漠の白い砂とは違うわ。鉄分を含んだ赤土の巨大な岩壁が、左右から押し迫るようにそそり立っているの。私たちはその深い谷底を歩かされているわ。頭上を仰いでも、岩に切り取られた細い青空が一筋見えるだけ」
周囲の情景を語るときのシオンの声は、いつもほんの少しだけ柔らかい。
見えない僕に、その色彩を届けてくれようとしているみたいに。
「岩肌の至る所に、爪痕が刻まれているわ。かなり深くて荒々しいものね。古いものは風雨に晒されて丸くなっているけれど、新しいものは刃物のように鋭い。何世代もの獣人が、ここを通った証なのでしょうね」
「爪痕の道標、ですね」
「そうね。彼らは文字ではなく、自らの牙や爪で歴史を刻む。——この国の生々しい息遣いが、岩に染み付いているわ」
文字を持たない、あるいは必要としない種族。
嘘をつけない「肉体の言語」を信じる彼ららしい、力強い道標だ。
「あ。お師匠、左の岩壁の隙間に何かいるッス」
前方で、背中を押されながら歩いているフクが、小声で言った。
小さな子狼の鼻と耳は、拘束されていても鋭敏に働いているらしい。
「何がいますか、フク」
「見えないッスけど、匂いでわかるッス。……子供の匂いッス。すっごくちっちゃい獣人の子が、岩陰からおいらたちを覗き込んでるッス」
獣人の子供。
その気配は、怯えと好奇心が混ざり合った、小刻みな鼓動となって理の糸に伝わってきた。
人間と、見たこともない鉄の獣が、縄で縛られて連れていかれる光景。
子供たちにとっては、恐ろしくも目が離せない異物に映るのだろう。
歩みを先導するアルヴァの足音は、一定の冷徹なリズムを崩さない。
けれど、僕たちを囲む『千耳』の若い兵士たちの間には、言葉にならない緊迫した空気が揺れていた。
彼らは耳元のピアスのような魔導具を微かに震わせ、無言の通信を交わしている。
けれど、時折漏れる肉声には、隠しきれない焦燥が混じっていた。
「……信じられん。あの人間の魔力、本当に表に出ていない。だが——奥が深すぎる。まるで底のない深淵を覗いているようだ」
「あの仔狼も、ただの獣じゃない。それに、あの黒猫の存在感……一瞬、背筋が凍るような冷気を感じたぞ」
「とにかく『五牙』の長たちに引き渡す。俺たちだけで判断していい存在じゃない。下手をすれば……」
そこで、一人の若い兵士の声が、不自然に低くなった。
「……ただでさえ、南から『無音の蝕病』が迫っているというのに。これ以上、妙な厄介事を抱え込むのは御免だ」
「ああ。砂海がじわりと広がっている。あの『砂の女王』の動きも、このところ不穏だ。大地のマナが、あの静寂に吸い込まれるように枯れていく……」
声に、焦りが滲んでいた。
——砂の女王。
僕の肩の上で、シオンの耳が——ぴくり、と跳ねた。
いつもは眠たげに伏せられている黒い耳が、今は油断なくピンと張り詰め、周囲の風を捉えようとしている。
硝子砂漠の主。
その名は、旅の途中で、風の噂に聞いたことがあった。
砂を操り、侵入する者をすべて硝子に変えてしまうという、砂漠の支配者。
でも——その実態は、まだ僕には何もわからない。
それよりも、僕が気になったのは別の言葉だった。
——無音の蝕病。
大地のマナが、静寂に吸い込まれるように枯れていく。
その言葉を聞いた瞬間、僕の耳の奥で、かすかな「音の乱れ」が聞こえた気がした。
まるで、本来あるべき美しい和音が、一部だけぽっかりと削り取られてしまったかのような、不気味な空白。
世界を調律する者として、その言葉は無視できない響きを持っていた。
考えに沈んでいるうちに、谷底の風の音が変わった。
左右の岩壁がさらに狭まり、正面に、圧倒的な質量を持つ「影」が立ちはだかった。
理の糸が、途方もなく巨大な構造物の輪郭を拾い上げる。
「到着したわよ、ノア」
シオンが、息を呑むような気配と共に囁いた。
「これが……獣人たちの都。山をくり抜いて作られた要塞都市ね。本当に、山から直接建物が生えているみたいだわ」
獣王の咆哮砦。
ローリング・キープ。
大山脈の峻険な岩肌と、彼らの圧倒的な力強さが生み出した、不落の心臓部。
「門の前に、大勢の気配があるわ。みんな、武装している。——私たちを、歓迎しているわけではなさそうね」
先導していたアルヴァの気配が、すっと止まった。
砂利を踏む、じゃり、という音がやむ。
次の瞬間、アルヴァの喉が大きく震えた。
——オオオオオオオオオオオオオオン!
天を仰ぎ、喉の奥から放たれた、低く長い遠吠え。
それは、帰還を告げる合図であり、同時に「異物を連れてきた」という警告の響きを含んでいた。
すると、正面の巨大な岩壁の上から、呼応する遠吠えが返ってきた。
一つ。
二つ。
三つ。
いくつもの遠吠えが重なり、重厚な和音となって狭い谷間に反響し、大気をびりびりと震わせる。
「——通れ」
頭上から、地鳴りのような門番の太い声が降ってきた。
「ただし、そいつらの拘束は解くな。『五牙』の長たちへ報告を送る。指示があるまで、砦の広場で待機させろ」
ズズズズズ……と、大地を揺らす重い音が響いた。
岩と岩が擦れ合う、途方もない摩擦の音。
厚みのある巨大な石の門が、ゆっくりと左右に開いていく。
その瞬間、風が一気に切り替わった。
外の乾燥した砂漠の風が消え、岩山の内側から吹き出す、冷たくて湿った空気に包まれる。
地下水の匂い。
深い苔の匂い。
そして——何千匹もの獣たちが暮らす、圧倒的な生命の匂い。
——国だ。
この冷徹な岩山の内部に、確かに彼らの温かい営みがある。
「お師匠」
フクの声が、小さく震えていた。
「……すごい匂いッス。おいらたちと似たような、でも全然違う獣の匂いが、空気に満ち満ちてるッス」
「怖いですか、フク」
「怖くないッス! ……でも、なんだか、胸がドキドキするッス」
ドスンさんの歯車が、きゅる、と小さく鳴った。
不安そうなその響きに、僕は「大丈夫ですよ」と心の中で語りかける。
手首を縛られ、目隠しをされ、裸足のまま。
それでも僕は、不思議と落ち着いた気持ちで、獣人たちの国の門をくぐり抜けた。
お読みいただきありがとうございました!
ついに獣人たちの本拠地『獣王の咆哮砦』へと足を踏み入れたノアたち。
彼らを取り巻く『無音の蝕病』や『砂の女王』の不穏な噂。
この国で待ち受ける『五牙』との邂逅は、一体どのようなものになるのでしょうか。
ノアの「匂い」と「調律」が、頑なな彼らの心をどう揺らすのか、どうぞご期待ください!
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