千の耳と、聞かぬ者たち
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第4章、開幕です。
大山脈を越えた先で待ち受けていたのは——獣の瞳と、人間への深い憎悪でした。
獣の息が、近い。
砂の匂いとは違う——毛皮と、血と、大地の湿った匂いが混じった、熱い呼気。
それが四方から、じわりじわりと距離を詰めてくる。
「——動くな。人間」
低い声が、繰り返した。
さっきよりも、近い。
三歩ぶん。
——いや、二歩。
僕の理の糸が、その声の主の輪郭を拾う。
大きい。
人間よりも一回り大きな体躯。けれど四肢の筋肉の密度が桁違いで、踏み込みの重心が低い——獣の構えだ。
そして、その背後に。
さらに多くの気配が、扇状に広がっている。
全員が、音を殺している。
息すらも統制して、完璧な包囲陣を敷いている。
——訓練された軍勢。
「僕たちは——」
「黙れ」
一言で、遮られた。
声の主が、もう一歩踏み込んだ。
砂利が、じゃり、と軋む。
裸足だ。
靴の底の硬さがない。
柔らかい肉球と、鋭い爪が地面を掴む音。
「人間の言葉は聞き飽きた。——お前たちはいつもそうだ。口を開けば嘘を吐き、嘘で飾った約束で俺たちの牙を抜く」
低く、唸るような声だった。
言葉というよりも——咆哮を無理やり人語に押し込めたような、喉の奥から絞り出す振動。
「アルヴァ隊長。対象は四。人間の男が一。——他に、獣が三」
別の声が、右斜め後方から報告した。
若い。
でも、声に震えはない。
「獣が三?」
「はい。白い仔狼が一。小型。戦闘力は低いと推察しますが——魔力の残滓が妙に濃い。それから——」
報告者の声が、一瞬だけ詰まった。
「——人間の男の右肩に、猫。黒猫です。ただ——」
「ただ?」
「……匂いが、おかしい。猫の匂いじゃない。もっと——深い。底が見えない。闇の——」
「いい。続けろ」
「最後に、鉄の獣。四足の大型。装甲で覆われていて——生体反応がない。機巧兵器の類かと」
アルヴァ、と呼ばれた声の主が、ふん、と鼻を鳴らした。
その「鼻を鳴らす」音が——人間のそれとは全然違った。
湿った鼻腔が空気を吸い込み、何層にも分けて嗅ぎ分けるような、深い吸気。
僕たちの匂いを、嗅いでいる。
「……なんだ、この匂いは」
アルヴァの声に、初めて困惑の色が混じった。
「人間の魔術師は、油が腐ったような悪臭がする。焦げた血の匂い。権力欲と搾取の情動が、マナに染み付いて鼻が曲がるほど臭い。——だが、こいつは」
沈黙。
僕に向けて、もう一度、深く嗅いだ。
「……何も、臭わない。いや——臭わないんじゃない。星の匂いがする。清い。清すぎる。こんな匂いの人間がいるわけが——」
「だから、僕たちは敵では——」
「黙れと言っている」
風が、唸った。
アルヴァの手が僕の喉元に伸びたのが分かった——理の糸が、その筋肉の収縮を捉えたから。
掴まれるつもりだった。
でも、その手は僕に届かなかった。
がちん。
金属の衝突音。
ドスンさんが、僕とアルヴァの間に首を滑り込ませていた。
装甲板の一枚が、盾のように展開して、アルヴァの手首を受け止めている。
「……っ」
アルヴァが息を呑んだ。
ドスンさんの装甲を掴んだ手から、びりびりと振動が伝わったのだろう。
形状記憶合金が、アルヴァの握力に合わせて微かに変形し——衝撃を完全に吸収している。
力で押し返すのではなく、受け流す。
トロが設計した、優しい防御。
「——機巧兵器だと? これが?」
アルヴァの声に、明確な警戒が乗った。
「生体反応がないのに、自律判断で人間を庇った。——おい、こいつは何だ」
「ドスンさんは——」
「お前に聞いてない。人間の口から出る音は、全て雑音だ」
はっきりと、そう言い切られた。
人間の言葉そのものを、情報として受け取る気がない。
耳の角度。尻尾の震え。マナの微振動。——彼らが信じるのは、嘘をつけない肉体の言語だけ。
それは、この種族にとって当たり前の文化なのだろう。
僕は口を閉じた。
——話を聞いてもらえないなら、今はまだ、無理に話すべきではない。
「——で。この獣どもだが」
アルヴァが、視線を移したのが分かった。
気配の向きが変わる。
フクの方を——見ている。
「白い仔狼。お前、名は」
「……フクッス」
フクの声が、低い。
警戒している。
けれど、同じ獣に対する本能的な親近感もあるのか、完全には敵意を向けていない。
「フク。——なぜ人間と一緒にいる」
「なぜって——お師匠はおいらの師匠ッスから」
「師匠?」
アルヴァの声に、嘲りが混じった。
「人間を、師匠と呼ぶのか。——お前、自分の耳と尻尾が何のために生えているか、忘れたか?」
「は?」
「獣が人間に従うのは、二つだけだ。鎖で繋がれたか、餌で釣られたか。——どちらだ?」
フクの毛が、逆立った。
理の糸を通して、フクの全身の筋肉が一気に緊張するのが伝わってくる。
「……おいら、鎖なんかつけてないッス」
「そうだろうな。鎖は見えない方が巧妙だ。人間は、それが得意だ。優しい言葉という名の鎖。美味い飯という名の餌。——気づいた頃には、牙を抜かれている」
「ちが——おいらは自分で選んだッス! お師匠についていくって、自分の足で走って、自分で決めたッス!」
「自分で決めた、と思い込まされているだけだ」
アルヴァは断言した。
「かつて人間どもは、俺たちの同胞にも同じことをした。優しい顔で近づいて、名前をつけて、撫でて、餌をやって——そうして懐いた頃に、耳を削いだ。声を抉った。感覚を部品にして、魔導の道具に作り替えた」
声が、低く震えていた。
怒り——だけではない。
もっと古い、もっと深い場所から湧き上がる、痛みの振動。
「お前のその目は——まだ曇っていないのか? それとも、もう曇っていることにすら気づけないのか?」
「おいらの目は曇ってないッス!!」
フクが吠えた。
小さな体から、精一杯の咆哮。
「お師匠は——お師匠はそんな人じゃないッス! おいらの耳も尻尾も、一回だって変な目で見たことないッス! お師匠は目が見えないから——おいらの毛並みの色も、耳の形も、知らないッス! それでも、おいらの声を聴いて、おいらの足音を覚えて、おいらの名前を呼んでくれるッス!!」
声が、裏返っていた。
涙が混じっている。
フクは——怒っているだけじゃない。
お師匠を侮辱されたことが、たまらなく悲しいのだ。
「……目が見えない?」
アルヴァの声に、微かな動揺が走った。
だが——すぐに、硬い声に戻る。
「それがどうした。盲目の人間だろうが、人間は人間だ。——次」
気配が、シオンの方へ動いた。
「黒猫。いや——お前は猫じゃないな」
アルヴァの鼻が、再び深く空気を吸った。
「何だ、この匂いは。——底がない。お前の奥から、途方もなく冷たい、何もかもを呑み込むような——」
言葉が、途切れた。
周囲の灰狼族の何人かが、小さく後ずさりしたのが、砂利の音で分かった。
シオンの存在感が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、滲んだのだ。
猫の姿の奥にある、途方もない深淵。
すべてを呑み込んで無に帰す、原初の反存在。
その片鱗が、獣人たちの本能を直接撫でた。
「——ッ、何だ今の……!」
「構わないで。今のは——ただの寝起きの欠伸みたいなものよ」
シオンの声が、涼やかに響いた。
僕の右肩の上。
猫の姿のまま、尻尾をゆらゆらと揺らしている。
「あなたたち、鼻と耳がいいのね。——それで? 私のことも『人間に飼われたペット』だと言いたいのかしら」
声に怒りはなかった。
嘲りでもない。
もっと静かな——憐憫に近い、何か。
「この子が私のそばにいるのは、この子が望んだからよ。私が望んだからよ。あなたたちの歴史に何があったかは知らないけれど——自分の痛みを物差しにして、他人の関係まで測るのは、少し寂しい考え方ね」
「……黙れ。獣風情が——」
「獣風情、ね」
シオンが、小さく笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、アルヴァの部下たちが二歩下がった。
本能で分かるのだろう。
この猫が——自分たちとは、あまりにも格が違うことを。
「可哀想に。——そこまで怯えなくても、あなたたちを食べたりしないわ。今日は、ね」
「シオン」
僕は、小さく呼んだ。
「——分かってるわよ」
シオンの尻尾が、僕の首筋をぱたりと叩いた。
はいはい、という合図。
存在感が、すっと引く。
猫に戻る。
ただの——少し不機嫌な、黒猫に。
第4章『咆哮の峰ヴォルグと孤独の黄金宮殿』、始まりました。
人間への深い憎しみと不信の中で、言葉すら届かない。
それでも匂いは——嘘をつかない。
ノアたちの新しい旅路を、どうぞお楽しみに。
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