嵐のあと
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ハクの乱入で、戦場の空気が一変しました。
メルクリウスは——どちらを選ぶのでしょうか。
沈黙は、三十秒ほど続いた。
ハクがにこにこと笑い続ける三十秒。
メルクリウスが微動だにしない三十秒。
倒れた兵士たちが息を止める三十秒。
やがて——メルクリウスが、右手を下ろした。
「全軍、撤退」
ヴィクターが、弾かれたように振り返った。
「メ、メルクリウス殿!? 撤退とは——コアの回収は!?」
「聞こえなかったの? 撤退と言ったのよ」
メルクリウスの声は、もう元の感情のない平坦さに戻っていた。
「消耗しきった魔王と、五十人分の魔力を喰ったばかりの帝国の特異体。同時に相手にするには——分が悪すぎるわ」
「しかし、コアは目の前に——」
「ヴィクター・アルマン」
名前を呼ばれた瞬間、ヴィクターの口が閉じた。
「あなたの部下は何人残っているの」
「……三十二名です」
「まともに戦える者は?」
「……七名」
「七名。それで、あの特異体を止められると思う?」
ヴィクターは何も言わなかった。
「イェレミヤ執行官」
「……はい」
地面から、イェレミヤの声が返ってきた。
「聖教騎士団の残存兵力は」
「……戦闘可能な者は十二名。ですが——全員、魔力が底を突いています」
「十九名。杖も折れ、防壁も張れない十九名で、あの化け物を止めるの? 七秒で全滅するわ」
メルクリウスが、淡々と計算を告げる。
感情ではなく、数字で結論を出す人間の声だった。
「それに——」
メルクリウスの声が、わずかに落ちた。
「役割は、果たしたでしょう」
ヴィクターが、息を呑んだ。
「中継は全世界に届いた。【四座の天秤】の総意による魔王認定は、今この瞬間にも大陸中に拡散している。王宮に。教会に。冒険者ギルドに。辺境の村に至るまで」
メルクリウスの声が、ほんの少しだけ——満足そうに聞こえた。
「あとは——勇者が来るわ」
僕の背筋に、冷たいものが走った。
「前の魔王を討伐した時と同じように。勇者パーティが、世界を救うために魔王を殺しに来る。それが——世界の理でしょう」
前の魔王。
ヴォイド。
——僕が、あの場所にいた時の。
僕が、三人の命を巻き戻すために全てを差し出した、あの戦いの。
あの時と同じことが——今度は、僕を標的にして、繰り返される。
「転移陣を開きなさい。負傷者を先に送って。記録水晶は全て本国へ転送」
メルクリウスの指示が、流れるように飛ぶ。
ヴィクターが悔しそうに唇を噛みながらも、部下に撤収を命じた。
「……回収できなかった。あのコアを、目の前で——」
「次がある。魔王が死ねば、コアは残骸として回収できるわ。急ぐ必要はないのよ」
魔王が死ねば。
あっさりと。
僕の死を前提にした言葉が、何でもないことのように口にされた。
イェレミヤが、ゆっくりと立ち上がった。
泥と血に塗れた白い法衣が、夜風に揺れる。
「……罪人」
僕に向かって、最後の言葉を投げた。
「次は——女神の名の下に。必ず、裁きを下す」
それだけ言って、イェレミヤは転移陣の光の中に消えた。
一人、また一人と、兵士たちが光に飲まれて消えていく。
甲冑の軋む音。
杖を引きずる音。
仲間を担ぐ足音。
そのすべてが——光の中に吸い込まれ、消える。
メルクリウスが、最後だった。
転移陣の前で、一度だけ振り返った。
「ノア」
名前を、呼ばれた。
「あなたの魔術は——確かに美しかったわ」
皮肉なのか、本心なのか、分からない声で。
「だからこそ、許されないの」
光が閃き——メルクリウスは消えた。
七つの転移陣が、一つずつ閉じていく。
空間の裂け目が縫い合わさり、世界の表面が元に戻る。
足音が消える。
甲冑の音が消える。
詠唱の余韻が消える。
すべてが——消えた。
残ったのは、ハクだった。
「あーあ。帰っちゃった」
心底つまらなさそうな声。
「もうちょっと撃ってくれたら、もっと食べられたのになぁ」
ハクが、大きく伸びをした。
ぼきぼきと骨が鳴る。
体から立ち昇っていた蒸気は、もうほとんど消えている。
五十人分の魔力を代謝し終えたのだ。
「まあ、おれもお腹いっぱいだし。そろそろ帰るね」
くるり、と僕の方を向いた。
「ねえ、魔王くん」
「……ノアです」
「ノア。うん、覚えた」
にこっと笑った気配。
「また元気いっぱいの時に、食べに来るね。約束」
「約束した覚えは——」
「じゃあね!」
聞いていなかった。
ドン、と。
地面が一瞬だけ陥没して、ハクの体が空に跳んだ。
跳躍。
たった一跳びで、谷の崖を超え、夜空の向こうに消えていく。
風圧が一瞬だけ谷を吹き抜けて——そのあとには、何も残らなかった。
蒸気の匂いだけが、うっすらと空気に溶けている。
嵐が——去った。
谷に残ったのは、僕たちだけだった。
盲目の少年が一人。
立てない子狼が一匹。
影が薄れかけた猫が一匹。
歯車の回らない鉄の塊が一つ。
それだけ。
頭上に、風が吹いた。
鉄の匂いはもうしない。
草の匂い。
水の匂い。
星空の匂い。
さっき取り戻したばかりの、この谷の本来の風。
それが、ぼろぼろの僕たちの上を、静かに通り過ぎていく。
「……終わったッスか」
フクの声が、地面の上から聞こえた。
「……終わりましたね」
「……おいら、もう寝るッス」
「どうぞ」
「……ノアも寝るッス」
「……はい」
僕は、ドスンさんの脚にもたれかかったまま、ゆっくりと地面に座り込んだ。
シオンが、僕の膝の上に丸くなった。
小さくて、温かくて、星空の匂いがする塊。
「……シオン」
「なに」
「僕、魔王になっちゃいましたね」
「…………」
「世界中の人が、僕を敵だと思うんですかね」
「…………」
「ルークたちも、来るんですかね」
シオンは、しばらく黙っていた。
それから、膝の上で、小さく身じろぎした。
「……知らないわよ、そんなこと」
声が、少しだけ震えていた。
「ただ——一つだけ言えるのは」
ぺろ、と。
シオンの舌が、僕の焼けた指先を舐めた。
「私は、あんたの味方よ。世界がどうなろうと」
「……シオン」
「おいらもッス」
地面の上から、フクの声。
「魔王だろうと勇者だろうと、ノアはノアッス。おいらの相棒ッス」
ドスンさんのコアが——か細く、一回だけ回った。
きゅる。
ここにいるよ、という声。
僕は。
世界の全てを敵に回した、生まれたての魔王は。
子狼と猫と鉄の塊に囲まれて。
星空の下で。
泣きたいほど疲れた体で。
——少しだけ、笑った。
「……ありがとうございます」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
嵐が去りました。
メルクリウスは「役割は果たした」と撤退し、
ハクは「お腹いっぱい」と笑顔で跳んでいきました。
残されたのは、ぼろぼろの魔王と、その仲間たち。
「前の魔王を討伐した時と同じように、勇者が来る」——
その言葉の重さを、ノアは誰よりも知っています。
なぜなら、前回その場にいたのは——ノア自身だったから。
でも、世界が敵になっても。
「私は、あんたの味方よ」と言ってくれる猫がいて。
「ノアはノアッス」と言ってくれる狐がいて。
「きゅる」と回ってくれる歯車がいる。
それだけで——少しだけ、笑えました。
次回から、機巧谷編はいよいよ最終盤に入ります。
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