無垢なる虚無
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空から降ってきた「それ」は、五十人分の魔法を丸ごと喰って、欠伸をしました。
この絶望的な三つ巴に、新たな役者が加わります。
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
クレーターの真ん中に立つ人影の輪郭が、少しずつ形を取り始めた。
理の糸は、もう使えない。
触れた瞬間に溶かされたから。
だから——僕は、音と匂いだけで、その存在を「見た」。
最初に届いたのは、匂いだった。
鉄でもない。
火薬でもない。
焦げた空気の匂い。
さっき喰った五十人分の魔力を体内で代謝した余熱が、皮膚の表面から蒸気になって立ち昇っている。
しゅう、しゅう、と湿った音。
まるで——熱い鉄を水に浸けた時のような。
足音が近づいてきた。
軽い。
甲冑でも、革靴でもない。
素足だ。
素足で、砕けた岩の上を歩いている。
痛くないのか。
いや——たぶん、痛くないのだろう。
「シオン。見えますか」
「……見えるわ」
シオンの声は、硬く凍っていた。
「人間の——男。十代後半くらい。細身。でも細いのに、足跡が深い。体重が見た目と合っていないわ。中に鉄でも詰まってるの……?」
着痩せする体。
だがその皮膚の下には、鋼鉄より密度の高い筋肉が詰まっている。
「服は——裾がちぎれたボロ布みたいなもの。元は帝国式の囚人服ね。顔は——」
シオンが、一瞬黙った。
「——笑ってるわ」
「笑ってる?」
「にこにこ笑ってる。あどけない顔。少年みたいな澄んだ瞳。人懐っこい笑顔。それが——体から立ち上る蒸気と、足元のクレーターと、まったく噛み合わない」
足音が、止まった。
目の前。
至近距離。
息がかかるほど近くに、その「人間」は立っていた。
しゅう、と蒸気が頬を撫でる。
熱い。
さっき喰った魔力の余熱が、まだ体から抜けきっていない。
そして——覗き込まれた。
理の糸がなくても分かった。
僕の顔を、至近距離から、まじまじと見ている。
好奇心の塊のような、無邪気な視線。
「——うまそうだなぁ」
第一声が、それだった。
敵意ではない。
殺意でもない。
お腹を空かせた子どもが、パン屋のショーウィンドウを覗き込んだ時みたいな、純粋な感想。
「すっごい匂いすんの。君の中、めちゃくちゃ良いの詰まってる。糸? なんかキラキラしたやつ。あれ、絶対うまい」
「……はい?」
「でもなぁ——」
声のトーンが、少し残念そうに下がった。
「今、すっからかんじゃん。しぼりカスみたい。これ食べても全然お腹膨れないやつだ」
しぼりカス。
間違ってはいない。
今の僕は、理の糸が一本しか残っていない、文字通りの空っぽだ。
「もったいないなぁ。もっと元気な時に会いたかったなぁ」
心底残念そうな声。
それから——ぱっと、声が明るくなった。
「でもいいや! 待ってる! もっと強くなったら、もっとうまそうになるでしょ? その時に食べればいいもんね!」
食べる。
僕を。
あまりにも自然に言うものだから、恐怖が一周回って追いつかなかった。
「ああ、そうだ。自己紹介しないと」
蒸気の向こうで、にこっと笑った気配がした。
「おれ、ハク。名前はそれだけ。帝国ってとこで作られて、要らないって捨てられて、今はブラブラしてる」
ハク。
帝国で作られて。
要らないって捨てられて。
「魔法食べるの。得意なの。っていうか、それしかできないの。あはは」
笑った。
本当に楽しそうに。
自分が「要らない」と捨てられたことを、まるで天気の話でもするように。
「あと、君のそのちっちゃいの」
ハクの視線が——僕の胸の中のドスンさんに移った。
「それもすっごい良い匂いする。金属なのに、中で何か回ってる。面白い。でも——食べちゃったら君が悲しそうだから、やめとく」
「……ありがとう、ございます」
「えへへ。お礼言われた」
フクが、地面の上で小声で囁いた。
「ノア……あいつ、やばいッス……頭のネジがぜんぶ外れてるッス……」
否定できなかった。
「——廃棄体」
メルクリウスの声が、背後から響いた。
さっきまでの感情のない声に——わずかに、緊張が混じっている。
「ガルヴァニア帝国、層状監獄の登録番号〇〇七。適正値がマイナスに振り切れた失敗作。三年前に脱走して以来、行方不明だった個体。……なぜ、ここにいるの」
「んー?」
ハクが、のんびりと振り返った。
「すっごい美味しそうな匂いがしたから来た」
「……それだけ?」
「それだけ」
メルクリウスが、片眼鏡越しにハクを測定しているのが、空気の振動で分かった。
そして——数値を見て、何かを悟った気配がした。
「あなた。先ほどの五十人分の魔力を全て吸収したわね。今の身体能力は——」
「知らない。数字とかわかんないし」
「……推定で、A級討伐対象の上限を超えている」
メルクリウスの声が、珍しく詰まった。
「この場の残存兵力で対処できる範囲を——大幅に逸脱しているわ」
ハクが、首をかしげた。
こきり、と骨が鳴る。
「ねえ、おばさん」
「——おば……」
メルクリウスの声が、一瞬だけ凍った。
「そっちの兵隊さんたち、みんなボロボロだよね。魔法もほとんど残ってないし。でもおれ、さっきの五十人分食べてお腹いっぱいだから、すっごい元気なんだけど」
ハクの声が——変わらなかった。
にこにこしたまま。
世間話のトーンのまま。
「ここで続けるなら、全員食べちゃうよ?」
軽い。
あまりにも軽い。
三百人の精鋭を「全員食べる」と、おやつの話みたいに言っている。
「……どっちでもいいけどさ」
ハクが、大きく伸びをした。
ぼきぼきと、全身の骨が鳴る。
蒸気が、もう一度吹き上がった。
「引くか、全員喰われるか。好きな方選びなよ」
谷が、沈黙した。
メルクリウスが——動かない。
ヴィクターが——息すら止めている。
イェレミヤが——初めて、祈りの言葉を失っていた。
ハクだけが、にこにこと笑っている。
何百人もの兵士に囲まれた、ボロ布一枚の素足の少年が。
この場で最も「絶望的」な存在だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ハク——帝国の失敗作にして、魔術師殺し。
魔法を食べて筋力に変える異常体質。
笑顔で人を壊し、悪意すらない、純粋な虚無。
「うまそうだなぁ」から始まった自己紹介は、
「全員喰われるか、引くか選びなよ」で終わりました。
メルクリウスは——どちらを選ぶのでしょうか。
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