錆色の迷宮と朽ちない門
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赤い霧が濃くなる中、ついに機巧谷の深部へと足を踏み入れます。
そこは、生きた要塞のような迷宮でした。
トロの槌の余韻が、背骨の奥でまだ鳴っている。
あの一打。
鉄を叩くのとは違う、空気を震わせるためだけの音。
「待ってるぞ」という声の代わりに鍛冶が選んだ言葉が、赤い霧の中に溶けて消えても、僕の肋骨のあたりでずっと振動し続けていた。
フクの背中は温かい。
白金の毛皮の下で、小さな筋肉が一歩ごとにうねるのが、太ももの内側に伝わってくる。
この仔は、怖がりなくせに前へ前へと足を運ぶ。
耳だけが忙しなく動いて、四方の音を拾い続けている。
「ノア、霧がどんどん濃くなってるッス。おいらの鼻先の匂い、さっきの三倍は鉄くさいッス」
「三倍。正確ですね」
「嗅覚には自信あるッス。……でも、鉄の匂い以外が全然しないッス。土の匂いも、草の匂いも。街を出た途端に、全部消えた」
シオンが僕の肩の上で、低く呟いた。
「……地面が変わってきてるわ。さっきまで踏んでいた岩肌が、いつの間にか鉄板になっている。継ぎ目がある。人工物よ」
「人工物——」
「ええ。自然の地形じゃない。誰かが、この谷の地面ごと鉄に造り替えてる」
フクの爪が、地面を踏む音が変わった。
がりっ、という岩を引っ掻く音から——かつん、という硬質な金属の響きに。
世界の材質が、足元から書き換えられている。
どれくらい歩いただろう。
三十分か、一時間か。
霧の中では時間の感覚が溶けてしまう。
唯一の手がかりは、フクの呼吸のリズムと、シオンの尻尾が時折僕の首筋を撫でる間隔だけ。
シオンは緊張している時ほど、無意識にそれをやる。
そしてその間隔が、どんどん短くなっていた。
「——ノア。止まりなさい」
シオンの声が、刃のように鋭くなった。
フクが即座に足を止める。
「何か——」
「前方。霧の向こうに、巨大な構造物が見える。幅は……百メートル以上。高さも、霧の上端が見えないくらい。岩壁に——いえ、岩壁そのものが巨大な機械に置き換わっているのよ。歯車、配管、装甲板。全部が一つの壁を形成していて、その中央に」
シオンが息を吸った。
「——門があるわ」
「門」
「開いている。横幅は十メートルくらい。でもその奥は真っ暗で、私の目でも五メートルと見通せない。そして、門の上に——文字が刻まれてる」
「何て書いてありますか?」
「……古代ドワーフの碑文体ね。『永遠ノ庇護ヲ求ムル者、此ノ門ヲ超エヨ。去リシ者ハ振リ返ルナ。留マリシ者ハ朽チルコトナシ』」
留まりし者は、朽ちることなし。
——つまり、ここから先に入ったものは、永遠に保存される。
鉄に変えられて。
永遠に。
「……入るのよね」
「入りますよ」
「聞くだけ無駄だったわ」
フクが門の前で一瞬だけ足を止めた。
後ろ脚が、かすかに震えている。
僕はフクの背中を、掌全体で大きく撫でた。
「大丈夫。一緒ですから」
「……ッス」
小さな、でも力強い返事。
フクが、門の中へ踏み出した。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
霧は——消えなかった。
でも、質が違う。
外の霧が「流れている」のに対して、ここの霧は「溜まっている」。
動かない。
何千年もの間、ここに沈殿し続けた、重くて古い鉄の粒子。
そして、音が変わった。
それまで霧に吸い込まれて半分も返ってこなかった理の糸の振動が——ここでは逆に、返りすぎる。
反響が多すぎる。
壁、天井、床、すべてが金属だから。
僕が糸を一本弾くだけで、四方八方から振動が跳ね返ってきて、頭の中の「地図」がぐちゃぐちゃに乱れる。
「うわ……。糸が暴れてる。これ、ちょっと待ってください。整理しないと」
「ノア、大丈夫?」
「はい。……少し、やり方を変えます」
糸を大きく弾くのではなく、極細の一本だけを、そっと、壁に沿わせるように這わせる。
反響を拾うのではなく、直接触れて地図を作る。
蜘蛛の糸のように。
「……見えてきました。左右は——巨大な歯車の壁。噛み合ったまま止まってるものと、まだゆっくり回転しているものがある。天井は高い。十メートル以上。正面に通路が二本。右は下り坂で、左は——」
「左は?」
「……行き止まり、に見せかけて、壁の裏に空間があります。隠し通路ですね」
シオンが、ほう、と感心したような息を漏らした。
「見えない方が、よく見えるのね。あんたは」
「褒めてます?」
「事実を言ってるだけよ」
僕たちは右の下り坂を選んだ。
隠し通路は気になるけれど、蒸気の排気音は右側の奥から聞こえている。
まずは迷宮の「呼吸」を辿る。
フクの爪が金属の床を叩く規則的な音を聞きながら、僕は壁に糸を這わせ続ける。
壁の表面には、細かな凹凸がある。
歯車の「歯」が一つ一つ触れるたびに、その精密さに驚く。
鋳造ではない。
鍛造でもない。
まるで——成長したかのような、有機的な造形。
金属なのに、骨格のような構造をしている。
「ノア。この歯車、全部同じ大きさじゃないッスよ。小さいのと大きいのが交互に並んでて、まるで……」
「まるで?」
「肋骨みたいッス」
肋骨。
フクの感覚は、時々ぎょっとするほど的確だ。
確かに——この迷宮は、機械というよりも、何か巨大な生き物の体内に似ている。
通路は血管で、歯車は骨格で、蒸気は呼吸。
僕たちは今、何かの「お腹の中」を歩いている。
三度目の分岐で、フクが急に立ち止まった。
「ノア! 前、行き止まりッス! ……あ、いや、違うッス。道が——横に動いてるッス?」
足裏から伝わる振動。
ずぅ、ずぅ、と、重い金属が擦れ合う音が、地面の底から響いてくる。
「シオン、道が動いてますか?」
「……ええ。床が左右に入れ替わっている。一定の周期で、迷路の構造そのものが組み替わっているわ。まだ——『生きている』のよ。この迷宮は」
何千年も経った今でも、誰かの命令を忠実に守り、侵入者を拒み続けている現役の装置。
「周期が読めれば、通れます。シオン、床が右に移動するタイミングは?」
「……七秒周期。右に三秒、停止一秒、左に三秒」
「フク、停止の一秒で飛べますか?」
「余裕ッス!」
余裕と言いながら、尻尾がぶんぶん回っている。
緊張してる時のフクだ。
「じゃあ——今!」
フクが地面を蹴った。
足裏から金属の感触が消えて、一瞬の浮遊感。
直後に、がちゃん、と背後で床が入れ替わる音。
着地。
フクの四本の脚が、新しい床をしっかりと掴んだ。
「やったッス! 楽勝ッス!」
「楽勝って言いながら心臓ばくばくしてるわよ、あんた」
「し、シオンさんは黙っててほしいッス……!」
僕は思わず笑ってしまった。
この二人の——いや、この二匹のやりとりは、どんな状況でも僕の肩の力を抜いてくれる。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
フクのジャンプ力が光る回でした(笑)。
この巨大な迷路の先には何が待っているのか。
次回、「鋼の記憶と独りぼっちの日記」に続きます!
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