錆びた大槌と、恩返しの旅立ち
街の鉄を少しずつ侵食していく赤い霧。
ノアの前にやってきたトロの手には、昨日直したばかりの大槌が握られていて——。
食堂の外に出ると、トロがいた。
ぜえぜえと息を切らしている。走ってきたらしい。
「——おい修理屋! いるか!」
「います。どうしたんですか、トロさん」
「……錆だ。親父の槌に——お前が直してくれた親父の槌に、一晩で錆が浮いた」
トロの声が、かすれている。
怒りではない。もっと深い、恐怖に近い何か。
「見せてもらえますか?」
「……ああ」
手渡された大槌に触れる。
指先に、ざらついた感触。
——あの日、丁寧にほどいて編み直した理の糸が、外側から食い荒らされていた。
僕が調律した痕跡を、何かが——貪り喰っている。
「……直せるか?」
「直せます。でも——」
「でも?」
「この霧が止まらない限り、また錆びます。今僕が直しても、明日にはまた同じことが起きる」
トロが、歯を食いしばる音が聞こえた。
沈黙が、数秒。
その数秒の中で、トロが涙を堪えているのが、呼吸の乱れで分かった。
職人にとって道具が錆びるというのは——きっと、体の一部がゆっくり壊れていくのと同じだ。
「この街の鍛冶場、全部同じ状態だと思います。炉の排気口が詰まったのも、この霧が金属の理の糸を侵食しているから。——このまま放置したら、たぶん……」
「たぶん?」
「この街の鉄が、全部死にます」
言葉が落ちた瞬間、食堂の中から皿が割れる音がした。
ベルが聞いていたのだろう。
誰も何も言わない。
霧の中で、遠くの鐘楼が低く唸るような音を立てている。
風ではない。
金属そのものが、軋んでいるのだ。
シオンが、僕の右肩に飛び乗る。
猫の姿。
肉球の感触と、星空の匂い。
「ノア。谷の方角から、理の糸の歪みが脈動してるのが視えるわ。——呼吸みたい。吸って、吐いて、を繰り返すたびに霧が濃くなってる」
「生きてるんですかね」
「生きてるかどうかは知らないけど、少なくとも——意志があるわ。理の糸を喰ってるんじゃない。吸い込んでるの。自分の中に取り込もうとしてる」
特異点。
この街の地下、あるいは谷の奥に——「錆骸の機巧谷」と呼ばれる場所がある。
ベルやトロが言っていた。
昔はドワーフたちの試験場だったが、何十年も前に封鎖されたまま、誰も近づかなくなった場所だと。
「ノア」
トロが、低い声で言う。
「お前、あの谷に行く気か」
「……はい」
「馬鹿言うな。あそこは二十年前に封鎖されてから、誰も帰ってきてないんだぞ。ドワーフの精鋭部隊が何度か潜ったけど、全員が霧に巻かれて動けなくなって、命からがら撤退した」
「ベルさんに聞きました。だから余計に、放っておけないんです」
「知ってて行くってのか!」
「トロさん」
僕は、手の中にある大槌をそっと返す。
「この槌、また直しておきました」
「——え?」
「いま触ってる間に。錆の糸をほどいて、元に戻しただけですけど」
トロが槌を受け取る。
言葉を失っている。
たぶん——錆ひとつない、昨日と同じ輝きが戻っているはずだ。
「でもさっき言った通り、明日にはまた錆びます。霧が止まらない限り」
「……」
「だから、止めに行くんです」
足元で、フクが僕のローブの裾を咥えて引っ張る。
行くな、ではなくて——一緒に行く、という意味の引っ張り方。
「ノア! おいらも行くッス!」
「フク。でも、さっき怖いって——」
「怖いッスよ! めちゃくちゃ怖いッス! でも——ベルのスープが鉄臭くなるのは、もっとやだッス!」
声は震えている。でも尻尾だけは、ぶんぶんと振っていた。
小さいくせに、やせ我慢だけは一人前だ。
「……それに、ノアが行くなら、おいらが足になるッス。おいらの背中、速いッスよ?」
胸の奥が、じわっと温かくなる。
「ノア」
シオンが、肩の上から耳元に囁く。
「理由、聞いてあげないの?」
「理由?」
「なぜ谷に行くのか。トロに」
ああ、とうなずく。
確かに、まだ言っていなかった。
別に世界を救うとか、そんな大層な話じゃないのに。
「トロさん」
「……何だよ」
「僕がこの街に来て、最初に美味しいスープをくれたのがベルさんで。鍛冶場を見せてくれたのがトロさんで。あの槌を直した時に、トロさんが泣いてくれたのが——すごく嬉しかったんです」
「——っ」
「だからですよ。ただそれだけです」
トロが何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、がしっと僕の肩を掴む。
痛い。
ドワーフの握力は本当に容赦がない。
「……帰ってこなかったら、承知しねぇぞ」
「帰ってきますよ。ベルさんのスープ、まだ全種類制覇してないので」
「はは——馬鹿言ってんじゃねぇよ、このクソ修理屋」
トロの声が、笑っている。
泣いている。
同時に。
ベルが食堂から飛び出してきて、僕の頭をがしがしと撫で回す。
「ノアちゃん! 絶対帰ってくるのよ! スープどころかフルコースで待ってるんだから!」
「わ、わわわ、ベルさん、髪がもっとぐちゃぐちゃに——」
シオンが肩の上で「……うるさい街ね」と呟いた。
でもその声は、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。
街の北門を抜ける。
門番のドワーフが、無言で敬礼をしてくれた。
その手が、震えていた。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
温かみが、ごっそり抜け落ちる。
代わりに押し寄せるのは、冷たくて、乾いていて——どこまでも金属の匂いがする霧。
理の糸を弾いてみる。
反響が——鈍い。
街の中では当たり前のように跳ね返ってきた糸の振動が、霧の中に吸い込まれて、半分も戻ってこない。
「シオン。見えますか」
「……五十メートル先まで、かろうじて。それ以上は霧が厚すぎて、私の目でも無理ね。——足元に鉄の残骸が散らばってるわ。錆びた歯車、ネジ、パイプの欠片。道なんてものは、もうないわよ」
「フクは?」
フクが、ぐっと歯を食いしばるような息を吐く。
「……うわ。鼻が痛いッス。鉄の粉が、全部おいらの鼻に突っ込んでくるッス」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ッス! ——でもノア、足元ガラクタだらけッスよ。おいらの背中に乗るッス。その方が速いし安全ッス」
フクの背中に手を伸ばすと、白金の毛が指の間をすり抜ける。
温かい。この仔の体温は、いつだって太陽みたいだ。
「ノア」
「はい?」
「戻るなら今よ」
「行きますよ」
「……分かってたわ」
シオンの尻尾が、僕の首筋をそっと撫でる。
意味は分かっている。
「仕方ないわね」という、いつもの呆れた了承。
赤い霧の中を、三つの影が進んでいく。
盲目の少年と、肩に乗った黒猫と、足元に寄り添う仔狼。
背中の向こう、街の方角から——鍛冶の槌が、一つだけ鳴った。
トロだ。
「待ってるぞ」という音が、霧を突き抜けて届く。
その振動が胸の奥で小さく弾けて、僕は思わず笑った。
「——行きましょうか」
理の糸を一本だけ、指先に巻きつける。
赤い霧の最奥。
何千年も孤独に稼働し続けている、何かが——僕たちを待っている。
その気配が、震える指先を通じて、微かに流れ込んできていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ノアが谷へ向かう理由が、「世界を救う使命」からではなく、「スープをくれた人と、泣いてくれた人のため」なのが、ノアという少年の本質なんだなぁと思いながら書いていました。
背中を押してくれる一つの槌の音も、ドワーフの街ならではの熱さです。
いよいよ次話から谷の深部、この街の鉄を喰らい続ける「特異点」の正体に迫ります!
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