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世界を救った代償に存在を消された盲目の魔術師、黒猫と静かに世界を直していたら「第二の魔王」に認定されました【毎日更新中】  作者: ミロク
第3章 錆骸の機巧谷

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錆びた大槌と、恩返しの旅立ち

街の鉄を少しずつ侵食していく赤い霧。

ノアの前にやってきたトロの手には、昨日直したばかりの大槌が握られていて——。



 食堂の外に出ると、トロがいた。


 ぜえぜえと息を切らしている。走ってきたらしい。


「——おい修理屋! いるか!」


「います。どうしたんですか、トロさん」


「……錆だ。親父の槌に——お前が直してくれた親父の槌に、一晩で錆が浮いた」


 トロの声が、かすれている。


 怒りではない。もっと深い、恐怖に近い何か。


「見せてもらえますか?」


「……ああ」


 手渡された大槌に触れる。


 指先に、ざらついた感触。


 ——あの日、丁寧にほどいて編み直した理の糸が、外側から食い荒らされていた。


 僕が調律した痕跡を、何かが——貪り喰っている。


「……直せるか?」


「直せます。でも——」


「でも?」


「この霧が止まらない限り、また錆びます。今僕が直しても、明日にはまた同じことが起きる」


 トロが、歯を食いしばる音が聞こえた。


 沈黙が、数秒。


 その数秒の中で、トロが涙を堪えているのが、呼吸の乱れで分かった。


 職人にとって道具が錆びるというのは——きっと、体の一部がゆっくり壊れていくのと同じだ。


「この街の鍛冶場、全部同じ状態だと思います。炉の排気口が詰まったのも、この霧が金属の理の糸を侵食しているから。——このまま放置したら、たぶん……」


「たぶん?」


「この街の鉄が、全部死にます」


 言葉が落ちた瞬間、食堂の中から皿が割れる音がした。


 ベルが聞いていたのだろう。


 誰も何も言わない。


 霧の中で、遠くの鐘楼が低く唸るような音を立てている。


 風ではない。


 金属そのものが、軋んでいるのだ。





 シオンが、僕の右肩に飛び乗る。


 猫の姿。


 肉球の感触と、星空の匂い。


「ノア。谷の方角から、理の糸の歪みが脈動してるのが視えるわ。——呼吸みたい。吸って、吐いて、を繰り返すたびに霧が濃くなってる」


「生きてるんですかね」


「生きてるかどうかは知らないけど、少なくとも——意志があるわ。理の糸を喰ってるんじゃない。吸い込んでるの。自分の中に取り込もうとしてる」


 特異点。


 この街の地下、あるいは谷の奥に——「錆骸の機巧谷せいがいのからくりだに」と呼ばれる場所がある。


 ベルやトロが言っていた。


 昔はドワーフたちの試験場だったが、何十年も前に封鎖されたまま、誰も近づかなくなった場所だと。


「ノア」


 トロが、低い声で言う。


「お前、あの谷に行く気か」


「……はい」


「馬鹿言うな。あそこは二十年前に封鎖されてから、誰も帰ってきてないんだぞ。ドワーフの精鋭部隊が何度か潜ったけど、全員が霧に巻かれて動けなくなって、命からがら撤退した」


「ベルさんに聞きました。だから余計に、放っておけないんです」


「知ってて行くってのか!」


「トロさん」


 僕は、手の中にある大槌をそっと返す。


「この槌、また直しておきました」


「——え?」


「いま触ってる間に。錆の糸をほどいて、元に戻しただけですけど」


 トロが槌を受け取る。


 言葉を失っている。


 たぶん——錆ひとつない、昨日と同じ輝きが戻っているはずだ。


「でもさっき言った通り、明日にはまた錆びます。霧が止まらない限り」


「……」


「だから、止めに行くんです」


 足元で、フクが僕のローブの裾を咥えて引っ張る。


 行くな、ではなくて——一緒に行く、という意味の引っ張り方。


「ノア! おいらも行くッス!」


「フク。でも、さっき怖いって——」


「怖いッスよ! めちゃくちゃ怖いッス! でも——ベルのスープが鉄臭くなるのは、もっとやだッス!」


 声は震えている。でも尻尾だけは、ぶんぶんと振っていた。


 小さいくせに、やせ我慢だけは一人前だ。


「……それに、ノアが行くなら、おいらが足になるッス。おいらの背中、速いッスよ?」


 胸の奥が、じわっと温かくなる。


「ノア」


 シオンが、肩の上から耳元に囁く。


「理由、聞いてあげないの?」


「理由?」


「なぜ谷に行くのか。トロに」


 ああ、とうなずく。


 確かに、まだ言っていなかった。


 別に世界を救うとか、そんな大層な話じゃないのに。


「トロさん」


「……何だよ」


「僕がこの街に来て、最初に美味しいスープをくれたのがベルさんで。鍛冶場を見せてくれたのがトロさんで。あの槌を直した時に、トロさんが泣いてくれたのが——すごく嬉しかったんです」


「——っ」


「だからですよ。ただそれだけです」


 トロが何か言いかけて、飲み込んだ。


 代わりに、がしっと僕の肩を掴む。


 痛い。


 ドワーフの握力は本当に容赦がない。


「……帰ってこなかったら、承知しねぇぞ」


「帰ってきますよ。ベルさんのスープ、まだ全種類制覇してないので」


「はは——馬鹿言ってんじゃねぇよ、このクソ修理屋」


 トロの声が、笑っている。


 泣いている。


 同時に。


 ベルが食堂から飛び出してきて、僕の頭をがしがしと撫で回す。


「ノアちゃん! 絶対帰ってくるのよ! スープどころかフルコースで待ってるんだから!」


「わ、わわわ、ベルさん、髪がもっとぐちゃぐちゃに——」


 シオンが肩の上で「……うるさい街ね」と呟いた。


 でもその声は、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。





 街の北門を抜ける。


 門番のドワーフが、無言で敬礼をしてくれた。


 その手が、震えていた。


 門をくぐった瞬間、空気が変わる。


 温かみが、ごっそり抜け落ちる。


 代わりに押し寄せるのは、冷たくて、乾いていて——どこまでも金属の匂いがする霧。


 理の糸を弾いてみる。


 反響が——鈍い。


 街の中では当たり前のように跳ね返ってきた糸の振動が、霧の中に吸い込まれて、半分も戻ってこない。


「シオン。見えますか」


「……五十メートル先まで、かろうじて。それ以上は霧が厚すぎて、私の目でも無理ね。——足元に鉄の残骸が散らばってるわ。錆びた歯車、ネジ、パイプの欠片。道なんてものは、もうないわよ」


「フクは?」


 フクが、ぐっと歯を食いしばるような息を吐く。


「……うわ。鼻が痛いッス。鉄の粉が、全部おいらの鼻に突っ込んでくるッス」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫ッス! ——でもノア、足元ガラクタだらけッスよ。おいらの背中に乗るッス。その方が速いし安全ッス」


 フクの背中に手を伸ばすと、白金の毛が指の間をすり抜ける。


 温かい。この仔の体温は、いつだって太陽みたいだ。


「ノア」


「はい?」


「戻るなら今よ」


「行きますよ」


「……分かってたわ」


 シオンの尻尾が、僕の首筋をそっと撫でる。


 意味は分かっている。


 「仕方ないわね」という、いつもの呆れた了承。


 赤い霧の中を、三つの影が進んでいく。


 盲目の少年と、肩に乗った黒猫と、足元に寄り添う仔狼。


 背中の向こう、街の方角から——鍛冶の槌が、一つだけ鳴った。


 トロだ。


 「待ってるぞ」という音が、霧を突き抜けて届く。


 その振動が胸の奥で小さく弾けて、僕は思わず笑った。


「——行きましょうか」


 理の糸を一本だけ、指先に巻きつける。


 赤い霧の最奥。


 何千年も孤独に稼働し続けている、何かが——僕たちを待っている。


 その気配が、震える指先を通じて、微かに流れ込んできていた。


最後までお読みいただきありがとうございました!


ノアが谷へ向かう理由が、「世界を救う使命」からではなく、「スープをくれた人と、泣いてくれた人のため」なのが、ノアという少年の本質なんだなぁと思いながら書いていました。

背中を押してくれる一つの槌の音も、ドワーフの街ならではの熱さです。


いよいよ次話から谷の深部、この街の鉄を喰らい続ける「特異点」の正体に迫ります!

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