赤い霧と侵食される理
ルークと「はじめまして」を交わした翌朝。
穏やかだったドール・ガリアの日常を塗り潰すように、谷の奥から不気味な赤い霧が街を覆い始めます。
朝の光が、薄い。
宿の窓から差し込む日差しが、昨日までとは明らかに違う色をしている。
蜂蜜色の温かな朝焼けが、今朝は——鈍い、鉄の匂いを纏っていた。
「——シオン。外、何か変わってます?」
「……霧が出てるわ。赤い霧」
シオンの声に、わずかな緊張が混じる。
「赤い?」
「街の北側、谷の方角から流れてきてる。建物の屋根がうっすら赤く煤けて、通りの向こうが見えないくらい。——朝なのに、薄暮みたいよ」
窓枠に手をかけて、外気に触れる。
指先に乗る空気が、ざらついている。
砂ではない。もっと細かくて、もっと冷たい。微粒子が肌を這うような——金属の粉だ。
理の糸を探る。
空気の中に漂う微細な振動が、不規則に震えている。
本来なら風に溶けるはずの理の糸が——削れている。
虫食いのように。
少しずつ、少しずつ。
「シオン。この霧、理の糸を侵食してる」
「……侵食?」
「空気の中の糸がぼろぼろなんです。端から錆びて、崩れて、粉になってる。それがこの赤い霧の正体ですね」
足元で、フクがくうん、と小さく鳴いた。
いつもなら毛布の中で丸まって起きない時間帯なのに、背中の毛が逆立っている。
フクの鼻先が、僕のくるぶしにぐいぐいと押しつけられる。
「ノア……外、すっごく嫌な匂いがするッス。鉄が——腐ってるみたいな」
「分かりますか?」
「おいらの鼻、姉さんより利くッスから。……でもこの匂い、ちょっと怖いッス」
太陽の匂いがする小さな体が、ぶるぶると震えていた。
食堂『鋼の胃袋』に降りると、いつもと空気が違った。
客の話し声が、低い。
鍛冶場から響くはずの槌の音が、ひとつも聞こえない。
代わりに聞こえるのは、乾いた咳と、窓を閉める音ばかり。
「ノアちゃん! 来てくれたの。——朝ごはんにはちょっと早いけど、座んなさい」
ベルの声。
でもいつもの弾けるような元気が半分くらい欠けていて、声の奥にこわばりがある。
「ベルさん。この霧、いつから——」
「明け方よ。谷の方からぶわーっと。アタシが起きた時にはもう通りが真っ赤でさ。トロたちが鍛冶場に火を入れようとしたんだけど、炉の排気口に霧が詰まって煙が逆流するって大騒ぎ。今朝は全工房が操業停止。——こんなの初めてよ」
「前にも霧が出たことは?」
「小さいのなら、年に二、三回。でも朝には消えてたし、こんなに濃くなかったわ。——ノアちゃん、お願いだからあんまり外を出歩かないでね。目が見えないのに、この霧の中じゃ余計に危ないんだから」
ベルが温かいスープの器を手渡してくれる。
指先に伝わる陶器の熱と、湯気に混じる根菜の匂い。
だけど——スープの中にも、微かに鉄の味が紛れ込んでいる。
水にまで、浸透し始めている。
「ベルさん」
「ん?」
「この霧が長引いたら、どうなりますか」
沈黙。
ベルが一瞬だけ言葉を詰まらせて、それから笑い声を作る。
「——大丈夫よ。午後には晴れるって、長老衆が言ってたし」
嘘だ、と思った。
嘘だと分かるのは、ベルの指先が器を渡す時に震えていたから。
お読みいただきありがとうございます!
鍛冶の街の「鉄」そのものを削っていく赤い霧。
目に見えない脅威が、街の人々の平穏を静かに脅かしていきます。
次回、この事態に対してノアが取った行動とは——。
引き続きお楽しみください!




