鉄板焼きの熱気と、機巧谷の不穏なる鼓動
「鋼の胃袋」という凄い名前の食堂へ向かったノアたち。そこで看板娘のベルと出会い、街の現状について話を聞きます。
『鋼の胃袋』は、大通りから一本入った路地にある。
三つ目の歯車看板を左——親方の言う通りに進むと、鋼鉄の配管で骨組みされた建物の入口に、鉄板を叩いて成形した看板がぶら下がっている。
胃袋の形を模した看板の裏から、肉の焼ける匂いと、蒸気と、大勢の笑い声が漏れ出していた。
「ノア、段差。入口に鉄の閾がある」
「はい」
シオンの手が、僕の右手をぎゅっと握り直す。
人間の姿のシオンは、僕より少しだけ背が高い。
星空の匂いのする温かい手。
盲目の僕が人混みの中を歩くとき、この手だけが、世界の座標を教えてくれる灯台になる。
足元では、フクが僕の左側にぴったりと寄り添って歩いている。
街に入ってからずっと盲導狼モードだ。
普段の「お師匠見て見てッス!」がすっかり鳴りを潜めて、尻尾の振動すら最小限に抑えている。
偉い。
「入るわよ」
シオンが扉を引くと、店内の音が一気に押し寄せてくる。
理の糸が、密度の高い人の気配を伝えてくる——満席に近い。
鉄板の上で肉が弾ける音。
ジョッキが机に叩きつけられる低い衝撃。
ドワーフ特有の地鳴りのような笑い声が、店の壁面を揺らしている。
「いらっしゃい! ——おっ、人間のお客さんだ! 珍しいね!」
カウンターの向こうから、弾むような声が飛んでくる。
若い女性の声。
ドワーフの声帯にしては高く、明るく、よく通る。
「こっちこっち! カウンター席が空いてるよ!」
シオンに手を引かれて、カウンター席に腰を下ろす。
フクが椅子の下にもぐり込んで、僕の足の甲にあごを乗せる。
温かい。
「へぇ——美人なお姉さんと、可愛い男の子の二人旅? なんかいい感じだねぇ」
「可愛い男の子?」
シオンが僕を指差して、少し考えて、頷く。
「……まぁ、否定はしないわ」
「えっ、そこ否定しないんですか」
「あなた自覚ないの? 煤で灰色になった髪がまたいい感じに似合ってるのよ、腹立たしいことに」
「……えへへ」
カウンターの向こうで、声の主がけらけらと笑っている。
「あはは! 仲いいなぁ、二人とも! ——あたしはベル! この店の看板娘兼料理人兼掃除係兼会計! ようこそ『鋼の胃袋』へ!」
「すごい兼任ですね……」
「人手不足でねぇ。この街、職人は山ほどいるのに、飯炊きをやりたがる奴がいないのよ。みんな鉄を叩く方が好きなんだから」
ベルがカウンターにメニューの鉄板——文字通りの鉄板——をがしゃんと置く。
「今日のおすすめは鉄板焼きステーキの骨つきドワーフ盛り! あと岩塩パンと地底キノコのスープ! 坊やは何にする?」
「全部ください」
「おっ、いい返事! お姉さんは?」
「同じので」
「あいよ! ——あ、下にいるその子にも何かいる? 犬用の骨なら余ってるよ」
フクが足元から顔を覗かせて、小声で「ワフッ……骨ほしいッス……」と呟く。
ベルが目を丸くする。
「喋った!? この子喋る!?」
「すみません。フクって言います。少し変わった仔犬で」
「変わったどころじゃないよ! 面白いねぇ!」
---
鉄板の上で、分厚い肉が焼ける音が近づいてくる。
じゅう、という低い音。
脂が鉄板に触れて弾ける、小さな爆発の連鎖。
匂いが凄い。
岩塩と黒胡椒のシャープな香りが、獣脂の甘さと混ざり合って、鼻腔の奥まで一直線に突き刺さる。
「はい、お待たせ! ——そっちのお嬢さんの分と、坊やの分ね」
前に置かれた皿から、鉄板の余熱がもわりと立ちのぼる。
「……いい音がしますね、この鉄板」
「え? 音?」
「理の糸が——あ、いえ。なんでもないです。いただきます」
ナイフを入れると、肉が驚くほど素直に切れる。
口に運んだ瞬間、噛みしめた筋繊維から肉汁が溢れ出して、岩塩の塩味がそれを追いかけてくる。
「……おいしい」
「でしょ!」
ベルがカウンターの向こうで、えっへんと胸を張る。
「うちの鉄板はね、ドール・ガリア特産の蓄熱鋼なの。普通の鉄板の三倍の時間、均一に熱を保つのよ。だから肉の焼きムラが出ない」
「蓄熱鋼……。道具にも魂があるんですね」
ベルが一瞬きょとんとして、それからにっと笑う。
「あんた、面白い言い方するね。——職人たちと同じこと言う」
その時。
隣のテーブルから、ドワーフたちの会話が聞こえてくる。
「——また霧が出てきたらしいぞ」
「マジか。先月は第三坑道の手前までだったのに」
「今度は第二坑道の換気口まで来てるって話だ。赤錆の匂いがすげぇんだと」
赤錆の霧。
僕は何食わぬ顔でスープを啜りながら、耳を傾ける。
「例のアレだろ? 谷の奥から出てくるやつ。触った工具が一晩で錆びるって——」
「工具だけじゃねぇよ。坑道の支柱の鉄がボロボロになってきてる。このままじゃ鍛冶場の生命線が——」
「しっ。そういうのは大声で言うな。王が対策を考えてるんだ」
会話が低くなって、聞き取れなくなる。
「ベルさん」
「ん?」
「今の話——赤錆の霧って、なんですか?」
ベルの表情がほんの少し曇る。
鉄板を拭いていた手が止まって、それからまた動き始める。
「ああ、あれね。——谷の奥にさ、昔っからやばい場所があるのよ。『錆骸の機巧谷』って呼ばれてる」
「機巧谷」
「そう。誰も近づかない禁域。入ったら出てこれない、みたいな場所。ドワーフの歴史の中でもずっと封印されてきた。——でもさ」
ベルが声を落とす。
「最近、そこから赤い霧が漏れ出してきてるの。金属を錆びさせる霧。ドワーフにとって鉄が錆びるってのは——まぁ、人間で言えば畑の土が腐るようなもんだよ。死活問題」
「……なるほど」
「王様も調査隊を出したいみたいなんだけど、谷の中はあまりに危険で。入った偵察隊が半日で帰ってきたんだけどさ……」
「何があったんですか」
「全身の装備が——鎧も剣も、全部錆びて崩れたんだって。中にいたのは半日だけなのに。あの霧に触れると、金属が生きてるみたいに蝕まれていくらしい」
シオンの箸が止まっている。
無言で僕の方を見ているのが、糸の振動で分かる。
——特異点だ。
理の糸が崩壊した異常領域。
有機と無機の融合。
ここに来た目的が、また一つ、輪郭を持ち始める。
「……そうですか。大変ですね」
「まぁねぇ。でもどうしようもないし。あたしたちにできるのは、美味い飯を作って職人たちの英気を養うことくらいよ!」
ベルがぱん、と鉄板を叩いて、話題を切り替える。
「それよりさ、あんたたち旅の人でしょ? 宿はもう決めた? この辺だと『銅の寝床』ってとこが安くて綺麗だよ。知り合いのおばちゃんがやっててさ、紹介してあげよっか?」
「本当ですか? ありがたいです」
「あんたたち、しばらくいるの?」
「はい。少し——この街のことをもっと知りたいので」
ベルがにっと笑って、カウンターの下からメモ用の鉄板(小)を取り出す。
「じゃあ書いてあげる。この街の美味い店リストと、買い出しに便利な市場の場所! あたしに任せてよ!」
「ベルさん、親切すぎませんか」
「旅人に親切にするのは、料理人の基本よ! ——それに」
ベルが小さな声で付け加える。
「この街、最近ちょっと暗いからさ。霧の話とか、不景気とか。だから——元気な旅人が来てくれると、ちょっと嬉しいのよ、あたしは」
いつもお読みいただきありがとうございます!
看板娘のベルから「錆骸の機巧谷」についての情報を得たノアたち。
次話では、ドワーフの街での数日間を過ごすノア、そしてついに到着する「彼ら」の視点を描きます。
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