勇者サイド第7話 白い残響と、春の匂い
勇者一行はかつて永久凍結地帯と呼ばれた北方の「琥珀氷の村」へ到着します。
琥珀氷の村に着いたのは、聖都を発ってから六日目の昼過ぎだった。
北方街道を馬車で北へ四日、そこから山道を二日。
最後の峠を越えた辺りから、空気が変わっていた。
「……おかしいな」
ルークが手綱を引いて馬を止めた。
「報告書だと、ここから先は永久凍結地帯のはずだ。一年間、琥珀色の氷に覆われた不毛の土地——」
目の前に広がっていたのは、穏やかな丘陵地帯だった。
湿った土から若い草が萌え出し、道端には小さな白い花が群生している。
頬を撫でる風は柔らかく、遠くで小川のせせらぎが聞こえた。
春だ。
どこから見ても、普通の——何の変哲もない、北国の遅い春の風景だった。
「あれー? 報告書と全然違うじゃん。おじさん、道間違えた?」
荷台からクラウスがのんびりと顔を出す。
干し肉の串を片手に、色つきの丸眼鏡を額に上げて辺りを見回している。
「間違えてない。この道で合ってる」
「じゃあなんで春なの?」
「それを調べに来たんだ」
ガルドが荷台から飛び降り、地面に膝をついて土を掬い上げた。
「……凍結痕がある。この土、つい最近まで凍ってたぞ。根が全部浅い。一年分の霜が一気に溶けた跡だ」
「一気に?」
「ああ。自然に溶けたんじゃねぇ。——何かの力で、強制的に春にされた」
セシリアが馬車の窓から身を乗り出して、空気中に指先を泳がせた。
聖女の感応術。
魔力の残滓を読み取る、リタニア教会の基礎技術だ。
「——残留マナが、おかしいわ」
「おかしい?」
「……うまく言えないの。これだけ広範囲に影響が及んでいるのに、攻撃の痕跡がどこにもない。術式のパターンも読み取れない。まるで——最初からここに氷なんてなかったみたいに、綺麗なのよ」
セシリアの眉が、かすかに寄った。
「こんなの、見たことがない」
ルークは何も言わず、馬車を進めた。
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村の入り口に辿り着いた四人を迎えたのは、門番のいない開け放たれた木の柵と、どこかの家から漂ってくるパンの焼ける匂いだった。
活気がある。
報告書に記されていた「凍結に苦しむ辺境の過疎村」という表現からは想像もつかないほど、村は生きていた。
広場では子供たちが走り回り、井戸端で女たちが笑い声を上げ、屋根の上では男が板を打ちつけている。
時計塔が目についた。
村の中心にそびえる石造りの塔。
天蓋が吹き飛んでいて、空がぽっかりと覗いている。
「あれか」
ルークが見上げた。
「報告書にあった第二特異点の核——時計塔」
「天蓋が無くなってるわね」
「にしちゃあ、綺麗に飛んでるな。爆破っていうより——パカッと蓋を開けたみたいだ」
ガルドが腕を組んで眺めている。
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村長の家は広場に面した石造りの建物だった。
初老の村長は、勇者一行を丁重に迎え入れ、暖炉の前に椅子を並べてくれた。
妻が温かい蜂蜜酒を注いでくれる。
「勇者様が直々にお越しくださるとは。ありがたいことです」
「報告書を読んで来ました。——琥珀氷の特異点が消失したと。村長、何があったのか教えていただけますか」
村長は蜂蜜酒の杯を両手で包み、しばらく黙った。
やがて、静かに語り始めた。
「……一年前の冬のことです。時計塔の歯車が止まった日から、この村の時間はすべて凍りつきました。空は琥珀色の夕焼けのまま動かなくなり、日が沈むことも日が昇ることもなくなった。作物は枯れ、井戸は凍り、家畜は次々に倒れていきました」
「特異点による環境破壊——報告書通りだな」
「ええ。そこに目をつけたのが、帝都の商人でした。琥珀色の氷には微量のマナが含まれており、高値で取引されると。商人は利権を独占し、村人を安い賃金で氷の採掘に駆り出しました。我々は凍える中で、自分たちの村を覆う氷を削り出して都会に送り続けたのです」
「……ボーデンという商人ですか」
村長が頷いた。
「そのボーデンが——この異変の報告書を四座に送った人物です」
「はい。あの男は、氷が溶けた翌朝に村を去りました。帝都への急使を出して」
ルークは手元の報告書を開いた。
ボーデンの筆跡で書かれた文面。
『——正体不明の高位魔術師による特異点の不法破壊が確認された。当該人物は銀色の髪を有する盲目の少年であり——』
「村長。この報告書には、特異点を破壊した人物について『銀色の髪の盲目の少年』と記されています。事実ですか」
村長が首を傾げた。
「銀色——? いいえ。銀というよりは、白でしたな」
「白?」
「ええ。雪のような、白い髪でした。月明かりの下では銀に見えたかもしれませんが——あれは白髪です。若いのに真っ白な、不思議な髪の子でした」
ルークの胸の奥で、何かが軋んだ。
白い髪。
盲目。
——なぜだろう。その二つの言葉を並べた瞬間、左後ろの空白がずきりと痛んだ。
「……その少年は、何をしたのですか」
「何を——と言われると、正直なところよく分からないのです」
村長が困ったように眉を下げた。
「あの子が来たのは、村が凍りついている真っ只中でした。肩に黒い猫を乗せた、目の見えない痩せた子です。寒さに震えながら、ふらふらと塔へ向かっていきました」
「一人で?」
「ええ。あの塔には化け物が棲みついておりましてな。ウェンディゴと呼ばれる氷の獣です。いつからあそこにいたのか、なぜ塔に巣食ったのかは分かりませんが——あれがいる限り冬は終わらないと、誰もが思っていました。村人は誰も近づけなかった。なのにあの子は——」
村長が言葉を切った。
「……止めたんですよ、わしらは。死ぬぞ、と。目も見えないのに化け物のいる塔に行くなんて正気じゃない、と。だけどあの子は笑って言ったんです」
「何て?」
「『大丈夫ですよ。少しうるさくなるかもしれませんけど、すぐに静かになりますから——怖がらないでくださいね』と」
沈黙が落ちた。
「それから、塔の上の方でとんでもない轟音と光があって。一年間止まっていた夕陽が急に沈み始めて、夜が来て——朝になったら、氷が全部溶けていました。嘘みたいに」
「……あの子は?」
「朝、フードを被って西の道へ消えていきました。誰にも名乗らず。礼も求めず。——来た時にはいなかった白い仔狼を一匹、足元に連れて」
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時計塔の調査は、セシリアが担当した。
塔の最上階に残る残留マナを分析し、戦闘の規模と術者の特性を割り出す——聖女としての専門技術だ。
ルークとガルドは村人への聞き取りを続け、クラウスは一人で塔の外壁をぶらぶらと歩き回っていた。
二時間後。
セシリアが塔から降りてきた時、その顔には困惑が浮かんでいた。
「——セシリア? どうした」
「……正直に言うわ。よく分からないの」
「分からない?」
「ええ。分からないの。——私の技術が足りないのかもしれないけれど」
広場のベンチに腰を下ろして、セシリアは額を押さえた。
「まず、この特異点の核は時計塔の歯車そのものだった。それを維持していたのがボスの魔物——残留マナの属性から、帝国系の実験魔物で間違いないわ。ウェンディゴという名前と一致する」
「帝国の実験体が、ここに」
ガルドの拳が音を立てて握りしめられたが、何も言わなかった。
「問題はそこからよ。——戦闘の痕跡を読み取ろうとしたんだけど、術式の記録がほとんど残っていないの」
「消されたのか?」
「違う。残ってはいるのに、私の知識では解読できない。既知のどの魔術体系とも一致しないの。魔法陣の残滓がない。詠唱の名残もない。触媒で増幅した形跡もない。——なのに、戦略級に匹敵する規模の魔術が使われている」
「それは——」
「分かるのは断片だけ。いくつかの属性が混在していること。炎と、風と、あと……何か別の、すごく熱い——熱いなんてものじゃない。太陽みたいな——」
セシリアが言葉を探して、首を振った。
「うまく言えない。ただ一つだけ、はっきり言えることがある」
「何だ」
「天蓋は吹き飛んでいるわ。でも——それだけなの。塔の歯車は一枚も欠けていない。壁にひびすら入っていない。村にも、大地にも、傷一つない」
セシリアの声が静かに震えた。
「あれだけの力がぶつかった痕跡があるのに、よ。まるで——壊さないように、ものすごく気をつけて戦ったみたいに」
四人の間に、沈黙が広がった。
「……壊さないように戦った? 戦略級の相手と?」
「嘘みたいでしょう。でも、残留マナはそう読み取れるの。——正直に言って、こんな魔術の使い方をする人間がいるなんて、信じられない」
セシリアは報告書に目を落とした。
『新たなる魔王級の天災が、大陸北部に出現した』。
その文面と、目の前に広がる穏やかな春の村。
「——合わないのよ。何もかも」
最後までお読みいただきありがとうございます!
セシリアの分析が弾き出したのは、規格外の力の痕跡でした。
後編へ続きます。少しでも面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をお願いいたします!




