勇者サイド第6話 白髪のお兄ちゃん
勇者一行は、ついに琥珀氷の村に到着します。
かつて時間が止まっていたはずの村は、嘘みたいに穏やかで——時計塔の針は、静かに時を刻んでいました。
村人たちが語る「白髪のお兄ちゃん」の話に、ルークたちは何を思うのか。
琥珀氷の村は、死んでいなかった。
ルークが最初に感じたのは、それだった。
事前報告では、特異点の影響で時間が停滞し、作物は育たず、火は満足に熾せず、住民は一年以上にわたって緩やかな飢餓の中にいた——はずだった。
だが、村の入口に立った瞬間、目に映った光景は報告書の記述とまるで違っていた。
煙突から煙が上がっている。
畑には青い芽が覗いている。
子供が二人、石造りの広場を駆け回っている。
日常が、ここにはあった。
「……ルーク。報告書、間違ってたのか?」
ガルドが低い声で言った。
「いや。蒼滝と同じだ。魔王らしき痕跡どころか、誰かが先に直してる」
セシリアが目を閉じ、指先を空気に向けた。
数秒の沈黙。
「……ええ。この村の理の糸、全部ほどかれているわ。時間の流れも完全に正常に戻ってる。蒼滝の森と同じ——いいえ、こちらの方が、もっと複雑で、もっと精密な仕事よ」
「同じ術者か」
「間違いないと思う。筆致が同じ。あの——途方もなく丁寧な、繕い方」
セシリアの声に、かすかな感情が混じった。
畏怖か。憧憬か。それとも——。
「——あ! お兄ちゃんたち、だぁれ?」
駆け回っていた子供の一人が、息を切らしながら走ってきた。
赤い頬。明るい目。七つか八つくらいの、元気な女の子だ。
「俺たちは、王都から来た調査官だ。村長さんに会いたいんだけど、案内してもらえるか?」
ルークがしゃがんで目線を合わせると、女の子は胸を張った。
「あたし、ミーナ! 村長はおじいちゃんだよ。ついてきて!」
ミーナが先に立ち、ぱたぱたと走り出す。
クラウスが小声で呟いた。
「……元気な子だねぇ。一年間時間が止まってた村の子には、見えないなぁ」
村長の家で、四人は話を聞いた。
老いた村長の声には、まだ疲労の痕が残っている。
だが、一年前に比べれば天と地の差だという。
「……あの方がいらしたのは、一ヶ月ほど前です。白い髪をした、若い旅人でした」
「白髪の旅人」一
ルークの声が、わずかに硬くなった。
「ええ。肩に黒い猫を乗せておいででした。目は——目が見えないようでしたな。杖もなく、猫の声を頼りに歩いておられた」
「盲目の魔術師?」
ガルドが眉をひそめた。
「あの方は何をされたのです」
「……全部です」
村長の声が震えた。
「全部、直してくだすった。時計塔の時間を動かし、畑の土をほぐし、凍りついた水脈を通して、村の井戸に水を戻してくださった。それだけじゃない。時計塔の最上部にいた恐ろしい魔物——琥珀の……あの屍の獣も、あの方が。たった一人で」
「たった一人で、あの規模の特異点を?」
セシリアの声が裏返った。
「はい。それも、何日もかけてではなく。ミーナの時計をほどいてから、時計塔に入って……翌日には、もう全部終わっておりました」
四人の間に、重い沈黙が落ちた。
「おい、村長さん。そいつ——その白髪の旅人は、何か見返りを求めたのか? 金とか、食い物とか」
ガルドの声が、妙に優しかった。
「何も。一銭も受け取らなんだ。それどころか——」
村長が言い淀む。
代わりに、部屋の隅にいたミーナが口を開いた。
「ノアお兄ちゃんは、あたしのお母さんの時計を直してくれたの!」
ミーナが胸元から小さな懐中時計を取り出した。
ちっ、ちっ、ちっ、と規則正しい音が鳴っている。
「一年間ずーっと止まってたのに、ノアお兄ちゃんが手で触ったら、すぐ動いたの。それでね、あたしが泣いちゃったら——」
ミーナが笑った。
「『ミーナさんの大切なもの、ちゃんと動いてよかったです』って、すっごく嬉しそうに笑ったの。あたしよりも嬉しそうだったんだよ? 変だよね」
セシリアが、小さく息を吸った。
ルークは黙って、ミーナの手の中の時計を見つめていた。
ちっ、ちっ、ちっ。
小さな針が、確かに時を刻んでいる。
止まっていた時間が動き始めた、その音。
「ノア——というのが、名前なのか」
村長の家を出た後、ルークが呟いた。
「みたいだねぇ。ノアお兄ちゃん、だって。かわいい呼ばれ方してるじゃない」
クラウスが干し肉を齧りながら言った。
その口調は軽い。だが色眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
「時計塔、見に行くか?」
ガルドが顎で村の中心を指した。
時計塔は、村の真ん中にそびえている。
石造りの、古い塔。
壁に蔦が這い、屋根には北の鳥が巣を作っている。
四人は塔の前に立って、見上げた。
文字盤の針が動いている。
ゆっくりと、正確に、時を刻んでいる。
——ごーん。
鐘が鳴った。
午後三時を告げる、低くて深い音。
音が空気を震わせて、村の端まで届いていく。
子供たちが一瞬足を止め、顔を上げ、また走り出す。
大人たちが手を止め、空を見上げ、小さく頷いて仕事に戻る。
この村にとって、時計塔の鐘は「当たり前」の音なのだ。
一年間止まっていた「当たり前」を、あの旅人が返した。
「……動いてるな」
「ああ」
「一ヶ月前まで一年間止まってた時計が、今は普通に動いてる。たった一人の盲目の旅人が直して」
ガルドが腕を組んだ。
「……俺にはよく分かんねぇ。魔術とか理の糸とか、そういう難しい話は。でもよ——」
ガルドが塔を見上げたまま、ゆっくり言った。
「ここの村人たち、誰も怖がってなかっただろ。あの白髪の旅人のこと。怯えるどころか、感謝してた。ミーナなんか目がキラキラしてやがった」
「……そうね」
セシリアが静かに頷いた。
「蒼滝の森でもそう。この村でもそう。あの人が通った場所には、壊れたものが直っている。奪われたものが返されている。誰も傷つけられていない」
「でも、国はこの術者を『脅威』と見なしている」
「……ええ。でも私は今日、この村を見て——あのミーナという子の時計の音を聞いて思ったわ」
セシリアが、自分の胸に手を当てた。
「この人は、敵じゃない」
ルークは何も言わなかった。
時計塔を見上げたまま、立ち尽くしていた。
針が動いている。
一年間止まっていた時間が、静かに、確かに流れている。
勇者として、任務として、この術者を「特定し、接触する」ことが求められている。
ヴァレリウスは「脅威だ」と言った。
でも——この鐘の音を聞いて、ミーナの笑顔を見て、村人たちの安堵の表情を見て。
それでも「脅威だ」と言い切れる人間が、いるのだろうか。
——会いたい。
理由は分からない。
脅威かどうかを判定するためとか、そんな理屈じゃなくて。
ただ、この世界のあちこちで、黙って壊れた場所を繕っている誰かに。
会って、話がしたい。
「ありがとう」と言っている自分が、なぜか見えた。
——なぜ「ありがとう」なのかは、分からないまま。
琥珀氷の村、いかがでしたか。
ルークたちが見たのは、恐ろしい魔王の痕跡ではなく——壊れた時計を直し、凍った畑を溶かし、子供に笑いかけた「誰か」の足跡でした。
ミーナの時計の音、覚えていますか?
本編で読んでくださった方には、あの「ちっ、ちっ、ちっ」が、ノアの指先から始まったことを。
次回、勇者一行の旅は新たな局面を迎えます。




