勇者サイド第2話 消えない何か
透明な壁の中に眠っていた巨大な生命——水竜。
セシリアが読み解いたその術式の正体は、彼女の常識を覆すものでした。
そして焚き火を囲む夜、ガルドの手が「ある過ち」を繰り返します。
「封印術式の類いか?」
ルークが剣の柄を握り直した。
「いいえ。封印じゃない」
セシリアが首を振る。
「封印というのは、対象を『縛る』ものよ。鎖で相手をがんじがらめにして、動けないようにする。でもこれは違う。……この水竜の理の糸は、束縛されていないわ。むしろ——」
彼女が壁に頬を寄せた。
目が潤んでいる。
「——整えられている。絡まっていた水竜の理が、一本一本、丁寧にほどかれて、正しい位置に戻された上で、眠らされているの。痛みも苦しみもない、究極的に穏やかな眠りの中に」
「……それを、誰がやったんだ」
「分からない。でも、これだけの規模の術を行使するには——本来なら三十人以上の魔導師と膨大な時間が必要なはず。それを、たった一人で。しかも触媒も魔法陣もなしに」
セシリアの声が震えていた。
畏怖と、困惑と、それから——ほんの僅かな憧憬が混ざったような、複雑な震え。
ガルドは黙って壁に手を当てたまま、何か考え込んでいた。
ルークも、何も言えなかった。
胸の奥が軋んだ。
理由は分からない。
森の中心部には、小さな泉があった。
かつて特異点の核があったとされる場所。
あの透明な壁の裾が少しだけ地表に接しているその境界から、ゆっくりと、ゆっくりと、冷たい水が滲み出していた。
氷が、溶けているのだ。
数百年分の冷気を封じ込めた透明な氷から、ほんの僅かずつ浸み出した冷水が、苔の間を伝って、窪みに溜まり、泉を作っていた。
水底まで見通せるその泉に、ルークは膝をついた。
信じられないほど澄んだ水。
指先を浸す。
冷たい。
だが、その冷たさの奥に、微かな温もりがある。
「……温かい」
セシリアが呟いた。
同じように泉に手を浸していた。
「水は冷たいのに、理の残滓が——水竜を鎮めた術式の余韻が、この水に溶け込んでいて、それがあまりにも——あまりにも優しくて」
涙が、セシリアの頬を伝った。
手のひらで泉の水をすくい上げながら、彼女は俯いた。
「……術式の構造だけを見れば、これは『アブソリュート・ゼロ』よ。戦略級の氷系最終魔術。教会の禁書庫にも記録がある」
「戦略級……? じゃあ、軍が使うような大規模魔術の一種ってことか」
「ええ。でも——私の知っているアブソリュート・ゼロとは、根本が違う」
セシリアが眉をひそめた。
「本来のアブソリュート・ゼロは、対象の熱を奪い尽くして殺す魔術よ。凍結による殲滅。冷たくて、暴力的で、残酷な術式。……でもこれは、そうじゃない。水竜の痛みを取り除いて、ただ、穏やかに眠らせただけ。世界を——ただ撫でているだけのような」
彼女は首を傾げた。
困惑が隠しきれていない。
「同じ名前の術式なのに、まるで別の魔法みたい。……本当にこれがアブソリュート・ゼロだとしたら、私たちが教わってきたものは一体何だったの」
「……お前は、この術者が敵だと思うか」
ルークが静かに訊いた。
セシリアは首を横に振った。
「分からない。……分からないけれど、この魔法の跡は——世界に対する、途方もない愛情で出来ていると思う」
その夜、三人は森の入口近くで野営を張った。
ガルドが手際よく焚き火を起こし、鍋を火にかける。
「今日は豆のスープだ。冷えるからな、多めに作る」
「ガルドの豆スープは絶品ね。秘密の香辛料、教えてくれないの?」
「秘密だから秘密なんだよ、お姫さん」
ガルドがニヤリと笑う。
ルークは焚き火の向こうで、報告書をまとめていた。
「結論から言うと、特異点は鎮静化。森の重力は正常に復帰。中心部に透明な氷の壁が残存しており、内部に水竜が生きたまま眠っている。術者は——不明」
「さっき山向こうの村に寄ったとき、じいさんが言ってたな。二、三ヶ月前に、白い髪の若い旅人がこの森に入っていくのを見たって」
「白い髪?」
「ああ。連れがいたらしい。黒っぽいローブの女と。それきり、見てないとよ」
「……白い髪の旅人が、あの水竜を一人で?」
「さぁな。ただの噂だ。でも王立魔術師団は丸ごと歯が立たなかったんだろ? そいつが何者だろうと、相当の使い手だ」
「……捜索範囲を広げるべきかしら」
「いや、まずは王都に報告だ。俺たちだけじゃ判断がつかない」
ルークがそう言い切った時、ガルドが鍋の蓋を開けた。
湯気がふわりと立ち上がる。
豆と根菜の、温かくて素朴な匂い。
「よし、出来た。——皿を」
ガルドが木のボウルを棚板に並べた。
一つ。
二つ。
三つ。
——四つ。
空気が、固まった。
ガルドの大きな手が、四つ目のボウルの上で止まっている。
返す言葉もなく、三人が黙り込む。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「……ちっ。また間違えた」
ガルドがボウルを一つ引っ込めた。
何事もなかったかのように、三つのボウルにスープを注ぐ。
「——食うぞ」
「……うん」
「い、いただきます」
三人は黙って食べた。
温かいスープは、いつも通りに美味しかった。
でも、ルークの舌の上には、かすかに——覚えのない甘さが残っていた。
いつか誰かが、このスープに蜂蜜を一滴落として「美味しいですねぇ」と笑った記憶が、ノイズのように頭の片隅を掠めて消えた。
ルークは振り返らなかった。
今夜だけは、振り返りたくなかった。
翌朝。
三人は蒼滝の逆樹海を後にした。
報告書を携え、王都への帰路につく。
街道は広く、秋の風が吹き渡り、旅人や商人の馬車が行き交っている。
「なぁルーク」
ガルドが、荷を担ぎ直しながら言った。
「お前さ、あの氷に触ったとき、何か感じたか?」
「……何かって?」
「いや、上手く言えねぇんだが。透明な壁に手を触れた時、なんつぅか……安心した。嫌な場所のはずなのに、すげぇ懐かしい感じがしたんだよ。帰ってきたみたいな気がして」
「……ああ。俺もだ」
「セシリアは泣いてたろ。あれ——」
「今は、いい」
ルークが穏やかに遮った。
「王都に戻ったら、あの術者の正体を確かめよう。良い奴か悪い奴かは、会ってから決める。それが俺たちのやり方だろ」
「……だな」
ガルドが笑った。
大きな体で、大きな声で。
「ま、世界を救ったのに休みもなしってのは酷い話だが。いいか、ルーク。次の冒険で旨いメシ屋を見つけたら、絶対に寄るからな。それが条件だ」
「ガルドの条件はいつも食べ物ね」
セシリアがくすりと笑う。
「食は命だろうが。——それに、旨いメシを食ってる時は、考え事をしなくて済む」
ガルドはそれ以上言わなかった。
秋の街道。
三人の影が西へと伸びる。
風が髪を揺らし、遠くの鐘楼が昼を告げる鐘を鳴らしている。
世界は、蒼い空の下で確かに平和だった。
ルークは前を向いて歩いた。
今度は、振り返らなかった。
——ただ、右の手のひらに、あの透明な壁の冷たさだけが、いつまでも残っていた。
冷たいのに、温かい。
矛盾しているのに、なぜかそれが正しいと感じる。
誰かの指先が、あの壁の向こうで、世界を繕ってくれていた。
その「誰か」の名前が、のどの奥まで来て——出てこない。
ルークは歩いた。
三人で、前へ。
「四枚目の皿」のシーン、お気づきになりましたか?
ガルドの身体が覚えている「四人目」。彼がいたはずの空白の席。
誰も、その理由を説明できません。——まだ。
次回、勇者たちは王都リタニアへ帰還します。
そこで待っていたのは、歓声と——もうひとつの、厄介なもの。




