勇者サイド第1話 透明な森の氷壁
勇者サイドの物語が少しだけ始まります。
魔王を倒した英雄たち——勇者ルーク、聖女セシリア、大盾のガルド。
彼らは新たな調査任務のため、異変が報告された「蒼滝の逆樹海」に足を踏み入れます。
そこで彼らが見たものは、恐怖ではなく——あまりにも美しい「奇跡」でした。
蒼滝の逆樹海は、嘘みたいに静かだった。
特異点が観測されてから三ヶ月。
予備調査団の魔術師が二人、精神を病んで帰還した。
王都の宮廷では「第二の魔王が巣を張った」だの「星の綻びが新たな怪物を孵した」だの、尾ひれのついた噂が毎日のように飛び交い、騎士団の詰所にまで怪文書が投げ込まれる始末だった。
だから、ルークは覚悟して来た。
剣を抜き、息を整え、ガルドの大盾を背に、セシリアの祈りを耳に。
三人で樹海の入口を潜ったとき、ルークが一番に感じたのは——。
「……あれ?」
風だった。
柔らかくて、温かくて、青い草の匂いがする風が、まっすぐに吹き抜けていった。
特異点が暴れているはずの森だ。
歪んだ重力。
狂った魔力。
逆流する滝と暴走する水竜。
事前報告ではそうなっていた。
なのに。
「おい、ルーク。……これ、本当に特異点が出たって場所か?」
ガルドが大盾を持ったまま、呆然と立ち尽くしている。
それも無理はなかった。
蒼滝の逆樹海は——あまりにも美しかったのだ。
苔むした巨木の幹が並び、木漏れ日が地面を白く染めている。
枝から枝へ小鳥が渡り、どこかで泉が流れる音がする。
空気に含まれる魔力は穏やかで、肺の奥まで行き渡るように清らかだった。
「報告書と全然違うな。逆流する滝も、重力の歪みもない。……ここ三ヶ月の間に、誰かが処理したってことか?」
「処理、というより」
セシリアが一本の木に手を触れた。
目を閉じ、指先で理の糸を辿る。
聖女としての魔力感知は、三人の中で群を抜いている。
「……直されている」
「直された?」
「ええ。重力の歪みが正位置に戻されて、水脈も正常に流れている。綻びもすべて——一本残らず、縫い直されているわ」
ルークは周囲を見回した。
確かに、そうとしか言いようがなかった。
ここにはかつて、とんでもない災害があったはずだ。
重力が反転し、滝が空に向かって流れ、巨大な水竜が暴れ回っていたはずだ。
でも今は、まるで熟練の職人が一針一針、世界の布地を繕ったかのように、何事もなかったかのように整えられている。
「誰が?」
ルークの問いに、セシリアは首を振った。
「分からない。……でも、この術式の筆致、どこかで」
彼女がそこで言葉を切った。
いつものことだった。
何かを掴みかけて、霧のように散る。
のどの奥まで来た言葉が、最後の最後で形を失くしてしまう。
「……セシリア?」
「いいえ。気のせいだと思う」
セシリアが微笑んだ。
少しだけ寂しそうな笑み。
三人は森の奥へと進んだ。
道中、魔物の気配はまったくなかった。
それどころか、森の生態系が驚くほど豊かに回復していた。
鹿が水辺で水を飲み、木の葉の裏では蜘蛛が巣を張り、枯れ木の根元にはキノコが群生している。
「……なんだ、これは」
ガルドが地面に膝をついた。
土を手に取り、鼻に近づけ、指で揉む。
「肥沃だ。黒土の一等品だぞ。こんな深い森の中だってのに、まるで百年休ませた畑みたいな土壌だ」
「特異点の影響で荒廃していたはずの土地が?」
「ああ。復活ってレベルじゃねぇ。元の状態より良くなってる」
ルークは無意識に、左後ろを振り返った。
誰もいない。
深い木洩れ日の中に、自分たちの影が三つだけ伸びている。
「……ルーク。また振り返ったわ」
「……いや、クセみたいなもんだ。気にしないでくれ」
セシリアの声が柔らかくなった。
少し心配そうな色が混じる。
「あなた、いつからそうなの? 魔王を倒してから?」
「……たぶん」
ルークは答えられなかった。
ただ、左後ろの空間だけがいつも少し温かい気がして。
そこにいるはずの「誰か」が、ずっとついてきてくれている気がして。
振り返ると、いつだって空っぽなのに。
「……行こう。奥にまだ何かあるかもしれない」
森の中心部にたどり着く前に、ガルドの足が止まった。
「——おい。なんだ、これは」
ガルドの声が、低く変わっていた。
兄貴分の陽気さが消えて、戦場で幾度も死線を潜った戦士の声になっている。
ルークも立ち止まった。
目の前の空間が——おかしい。
何もないように見える。
森が続いていて、木漏れ日が射して、奥に倒木が見えて。
でも何かが「ある」。
空気の密度が変わっている。
鼻の奥がつんとするほど冷たい何かが、目には見えないまま、そこに立ちはだかっている。
「セシリア、下がってろ。——ルーク、剣を」
「ああ」
ルークが聖剣アスカロンの柄に手をかけた。
ガルドが、左手を前に伸ばした。
ゆっくりと、何もないはずの空間に向かって。
——ごつん。
指先が、何かに触れた。
目に見えない壁。
ダイヤモンドより硬い感触が、ガルドの指を跳ね返した。
「……なんだこりゃ」
ガルドが手のひらで触れ直す。
「壁だ。透明な壁。氷か? 鉄みたいに冷てぇが、透明すぎて何も見えねぇ」
「氷?」
ルークも手を伸ばした。
確かにそこにある。
手のひらに、信じられないほど冷たくて、信じられないほど硬い「何か」が押し返してくる。
分厚い。
途方もなく分厚い壁だ。
なのに、透明すぎて存在が見えない。
向こう側の森がそのまま透けて見える。
光の屈折すら起こっていない。
あまりにも澄み切っていて、触れるまで「そこに何もない」と錯覚させる。
「これが——報告書にあった、あの透明な壁?」
「ああ。行商人が『ダイヤモンドより硬い、気の遠くなるほど巨大な壁がある』と言ってた、あれだ」
セシリアが、壁に手を添えたまま目を閉じた。
しばらく、微動だにしなかった。
やがて、紫の瞳がゆっくりと開く。
「……ルーク。この中に、何かがいるわ」
「何かって——」
「水竜よ。壁の向こう側——いいえ、壁の『中』に、とてつもなく大きな生命が眠っている。心拍がある。微かだけれど、確実に。……この氷ごと、封じ込められているのよ」
三人の間に沈黙が落ちた。
風が壁の表面を撫でて、かすかな泣き声のような音を残す。
勇者サイドの物語、読んでいただきありがとうございます。
ノアの旅路を追いかけてきた皆さんには、あの森で何があったのか、もうお分かりですよね。
次回、ルークたちは透明な壁の「中身」に迫ります。




