僕は戦います。——盲目の調律師、初めての「実力行使」
琥珀氷の塔、その最上階での決戦が始まります。
普段は戦いを避けるノアが、大切な「仔」を救うために自ら戦うことを選びました。
彼がかつての旅で仲間と共に編み出した、真実の魔力の片鱗をご覧ください。
怪物が、立ち上がる。
骨と骨が擦れ合う不快な軋みが、塔の天蓋まで響いて反射する。
床に散った骨の破片が、カタカタと震える。
空気の温度が、一段階、落ちる。
僕の吐く息が凍って、パリパリと唇の上で砕ける音がする。
「ノア、起きたわ。——ウェンディゴの全身から冷気の糸が膨張してる。あれは威嚇じゃない、体温を感知して反応する自動防衛よ。あなたの体温に反応してる」
シオンの声が、右耳のすぐ横で響く。
いつもの精密な空間情報——でも今日は、声の奥に別の音が混じっている。
怒り。
この子の声に、怒りがある。
「範囲は?」
「塔の最上階全域、半径およそ二十メートル。逃げ場はないわ、出口は今あなたが登ってきた階段一つだけ。——その階段も、もう凍りついて塞がった」
背後を確認するまでもない。
足裏から伝わる理の糸の反響で分かる。
螺旋階段が、氷の壁に呑まれた。
閉じ込められた。
「……困りましたねぇ」
困った、と口では言ってみたけれど。
正直なところ、困ってはいない。
もともと逃げるつもりはなかったから。
「シオン。ひとつ、聞いていいですか」
「なに」
「あの怪物——ウェンディゴの中にいる仔の周りの理の糸、どうなっていますか。ほどけそうですか」
沈黙。
シオンが瞳を凝らしているのが分かる。
肩の上の小さな爪が、ローブの布地に食い込む。
「——無理ね」
短く、断言。
「あの仔を囲んでる氷の檻は、ウェンディゴの生命活動そのものと一体化してる。怪物が生きている限り、氷は溶けない。糸をほどこうにも——あの密度じゃ、指を差し入れた瞬間に凍りつくわ。あなたの指が」
なるほど。
やっぱり、そうか。
「つまり、まずこの怪物を弱らせないと、あの仔を解放する糸に触れることすらできない、と」
「そういうことよ」
「調律じゃなく、戦闘が必要ですね」
「……ノア?」
シオンの声に、かすかな戸惑いが滲んだ。
当然だろう。
僕はいつも、戦わない。
糸をほどく。綻びを繕う。世界を元に戻す。
それが僕のやり方で——それしかやらないと、シオンは思っている。
でも今日は、違う。
「シオン。これから僕は、戦います」
ゆっくりと、はっきりと。
「あの怪物を弱らせて——あの仔を、取り返します」
肩の上で、シオンの体が一瞬だけ強張った。
それから——小さく、本当に小さく、喉を鳴らすような音。
「……ふうん」
声が低い。
でも嫌な低さじゃない。
嬉しいのを隠しているときの、シオンの声。
「あなたが自分から『戦う』って言うの、初めてよ」
「そうですか?」
「そうよ。——いつも糸をほどいてばっかりで、殴りたいとか壊したいとか、一度も言わなかった。あなたは」
うーん、と僕は首を傾げる。
殴りたいとか壊したいとか、そういう気持ちとはちょっと違うのだけれど。
ただ——。
あの声が聞こえる。
肋骨の奥で震えている、小さな小さな命の声。
『……さむい……さむいよ……』
あの声を聞いて、僕の指がいつも通りに動いてくれそうにないから。
「怒ってないですよ」
「嘘ね」
「嘘じゃないですよ」
「嘘よ。——あなたの指先、震えてるもの」
……ばれてた。
「まあいいわ。嘘つきのあなたに、付き合ってあげる」
シオンの尻尾が、僕の首にきゅっと巻きつく。
温かい。
この子がそばにいてくれるだけで、僕はなんでもできる気がする。
「——全方位、ナビゲート開始。距離十二メートル。正面。ウェンディゴが前脚を持ち上げた——来るわ!」
---
*
叩きつけられる。
床が爆ぜた。
ウェンディゴの前脚が地面に打ち下ろされた衝撃が、骨の破片と氷の粉塵を四方八方に吹き飛ばす。
直撃はしていない。
右に三歩——シオンの声に従って跳んだから。
左に三歩。
でも衝撃波だけで体が浮いた。
背中から壁に叩きつけられる。
「——っ!」
痛い。
肺の中の空気が全部出ていく。
でも——折れてはいない。
頭を振って、立ち上がる。
「ノア! 無事!?」
「はい……ちょっと背中をぶつけましたけど」
「ちょっとじゃないでしょう! 三メートルは飛ばされたわよ!」
三メートルか。
思ったよりは飛んだ。
「次、来るわ。右前脚。——左に二歩、しゃがんで!」
言われた通りに体を沈める。
頭の上を、骨と氷でできた巨大な爪が通過する。
風圧で髪が全部後ろに靡く。
冷たい。当たったら死ぬ。
当たらなければ、どうということはない。
「シオン、この怪物の攻撃パターンは?」
「単調よ。前脚の叩きつけと横薙ぎの尾、それと口からの冷気のブレス。間隔は——脚が約三秒、尾は不規則、ブレスは溜めてから吐くまで約五秒」
「五秒あれば——十分です」
僕は両手を広げる。
指先が、凍てつく空気の中を泳ぐ。
理の糸に、触れる。
——この場に漂うマナの密度は、尋常じゃない。
特異点の中心だ。
歪んで、絡まって、暴走しているけれど——糸の「量」だけなら、これまで訪れたどの場所よりも濃い。
十分すぎる。
この量があれば——あの頃の魔術が使える。
「……久しぶりですねぇ、この手順」
独り言のように呟く。
右手の指先で、空気中の「雷の糸」を一本、摘まむ。
ぴん、と張る。
もう色は見えないけれど、感触は覚えている。
鋭くて、痺れる。髪の毛より細いくせに、触った瞬間に指先がびりびりする、荒くれ者みたいな糸。
昔、ルークの雷属性の聖剣「アスカロン」に力を込めてあげたとき——この糸をたくさん束ねて、刃に編み込んだ。
「ルーク、左手で柄頭を押さえて。揺りますよ、かなり」
「お、おう! なんだこれ、ビリビリする! ノア、俺の剣が怒ってるのか!?」
「怒ってないですよぉ。喜んでるんです、きっと」
——そんな会話をしたのは、何年前だったか。
今この手に、聖剣はない。
でも、糸はある。
「……シオン。五秒、ください」
「あげるわ。——ブレスが来る、今!」
ウェンディゴが、顎を開く。
空気中の水分が一瞬で白い結晶となって渦を巻き——極北の吹雪を凝縮したようなブレスが放たれる。
でも、もう遅い。
僕の右手には、百本を超える「雷の糸」が束ねられている。
左手で、もう一つ——「闇の糸」を撚り合わせる。
闇。
光の反転。
普通の魔術師は、闇の糸には触れない。
触れた瞬間に自分の魔力ごと飲み込まれるから。
僕の指は、飲み込まれない。
理由はよく分からないけれど、昔から、そうだった。
ルークには「お前の指はバグだ」と笑われた。
雷の糸と、闇の糸。
二つを、一本に撚り合わせる。
ぎちり、と。
歯車が噛み合うような、小さな音。
——結い。
リンッ。
鈴の音が一つ、静寂を切り裂いた。
ついにノアが「戦闘」を開始しました。
勇者パーティの剣を支えていた彼の指先が、今度は直接雷を編み、怪物を貫きます。
しかし、敵もまた特異点の番人。これだけで終わるはずもなく……。
続きは次のエピソード、「熱の略奪者」をお待ちください!




