「その琥珀、あの子の血ですよ」——静かに怒る少年と、凍てつく神獣の悲鳴
螺旋階段を登りきった先で待っていたのは、骨が敷き詰められた死の空間でした。 そして、怪物の肋骨(檻)の中に囚われていた、小さな、小さすぎる命。 この村を潤してきた「黄金」の正体に触れたとき、ノアの指先が微かに震えます。
時計塔の扉を開けた瞬間、世界が変わる。
外とは比べものにならない冷気が、壁のような圧力で全身に叩きつけられた。
息を吸うと、肺の奥が焼ける。
冷たすぎて、逆に熱い。
「——っ」
思わず口元を袖で覆う。
シオンの尻尾が、僕の首筋にぎゅっと巻きつく。
彼女の小さな体も震えている。
この場所は、異常だ。
外の森が
「凍りついた世界」
なら、ここは
「凍りつくことすら許されない世界」
理の糸が、もう糸の形をしていない。
ぐちゃぐちゃに絡まった末に硬化し、結晶化し、空間そのものと一体化して——もはやほどくとかほどかないとか、そういう次元の話ではなくなっている。
「……足元, 注意して。石段よ。螺旋階段状に上がっていく。幅は二人分。手すりは右側。全部凍りついてるから素手で触らないこと」
シオンの声が、耳元で精密に空間を描写してくれる。
僕は右手を壁に添えて、一段、また一段と上がっていく。
靴底が石段を踏むたびに、キン、キン、と高い金属音がする。
石ではない。
氷だ。
石段ごと凍りついて、叩けば鐘のように鳴る。
上がるにつれて、あの声が大きくなる。
『……さむい……さむい……もうやだ……ママ、どこ……?』
近い。
すぐそこにいる。
螺旋階段を登りきると、広い空間に出る。
足元の感触が変わる。
石畳でもなく、氷でもない。
何か——有機的な、ざらざらした表面。
骨だ。
動物の骨。
大小さまざまな骨が、床一面に散乱している。
触れた瞬間に指先に伝わる情報で分かる。
鹿。
熊。
鳥。
この森にいたであろう、あらゆる生き物の骨が——。
全部、白い。
色は見えないけれど、理の糸を通じて分かる。
これらの骨からは、一切の「熱の糸」が残っていない。
最後の一筋まで、完全に吸い尽くされている。
「……食べたんじゃない。吸い取られたのよ」
シオンが低く言う。
「この部屋の中心に、何かいるわ。——ノア、あなたにも分かるでしょう」
分かっている。
部屋の中央。
天井に届くほどの高さに、巨大な「何か」がいる。
理の糸の反響で、おぼろげな輪郭が頭の中に浮かぶ。
四本の脚。
痩せ細った、異様に長い手足。
背中は曲がり、肋骨のような突起が何本も飛び出している。
頭部は鹿のような角が生え——口元からは、霧のように冷気が漏れ出している。
エターナル・ウェンディゴ。
特異点の番人。
永久凍てつく琥珀の屍獣。
そいつは、今は動いていない。
眠っているのか。
それとも、動く必要がないほどに、正確に。
ゆっくりと——何かを喰い続けているのか。
「シオン。あの怪物の胸の辺りに、何がありますか」
「……待って」
沈黙。
シオンが答えるまでに、いつもより長い間が空く。
「——いるわ」
その声が、微かに震えていた。
シオンの声が震えるのを、僕は初めて聞いたかもしれない。
「ウェンディゴの肋骨の奥、氷の檻になってる。その中に——小さな獣。仔の狼よ、白金の……毛並みの」
僕の心臓が、跳ねる。
「……生きてますか」
「……息はある、でも弱い。すごく弱い。——ノア、あの仔は」
シオンが言い淀む。
言い淀んでから、搾り出すように続ける。
「あの仔は、ただの仔狼じゃないわ。体から漏れ出してる熱の糸の密度が異常すぎる。太陽の属性。しかも純度が——ありえないほど高い。これは……神獣の仔よ」
神獣。
世界の理そのものが形を取った、自然の化身。
「……あの仔が泣いていたんですねずっと」
『……さむいよぉ……くらい……だれか……だれかたすけて……』
声が、こんなに近いのに。
こんなに弱い。
「シオン、もう少し詳しく教えてください。あのウェンディゴは、あの仔に何をしているんですか」
「……吸ってるのよ、あの仔の熱を。太陽の神獣は途方もない熱を生み出す存在。ウェンディゴはそれを永遠に吸い続けて、それを冷気に変換し続けてる。あの仔は——」
シオンの声が、怒りで軋む。
「——生きた燃料よ。あの怪物のための、永久に尽きない、生きた薪」
僕は黙る。
黙ったまま、ゆっくりと、息を吐く。
長い、長い息。
肺の中の空気がぜんぶ出ていくまで、吐き続ける。
そして——。
「……シオン」
「なに」
「この村の氷が、琥珀色だった理由が、分かりました」
声は穏やかだ。
いつも通りの、おっとりした僕の声。
でも指先だけが、微かに——本当に微かに、震えている。
「あの美しい『夕日の琥珀』は」
言葉を選ぶ。
丁寧に。
正確に。
「太陽の仔の命が、絶望の中で氷に溶け出した色でした」
静寂。
「ボーデンさんが村人に掘らせて、貴族に売りつけていたあの美しい琥珀氷は——」
僕の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「——この子の、血の色です」
肩の上で、シオンの身体が硬直する。
「……あなた」
「怒ってないですよ」
嘘だ。
嘘をついている自覚がある。
「怒ってなんかいません。ただ——」
僕は両手を持ち上げる。
指先が、凍てつく空気の中で、理の糸に触れる。
ウェンディゴの体を構成している、途方もない量の絡まった糸。
その奥に——一年間泣き続けた、小さな小さな命の響き。
「——ただ、この子を返してもらうだけです」
ウェンディゴの首がゆっくりと持ち上がる気配。
骨の軋む音。
凍てつく息が、僕に向かって吹きかけられる。
——威嚇。
だが、もう遅い。
僕の手はもう、糸に触れている。
「シオン」
「——全方位ナビゲート、開始。
やりなさい、ノア」
僕は静かに笑って、一歩を踏み出す。
時計塔の最上階で、怪物が咆哮を上げる。
空気が凍りつき、壁が砕け、床の骨が弾け飛ぶ。
でも僕の指先は、揺るがない。
だって——。
あの子の声が、聞こえているから。
『……たすけて……』
——聞こえてますよ。
もう少しだけ、待っていてください。
太陽の仔の命が、絶望の中で溶け出した色。 それを知りながら利用していた者たちへの、言葉にならない感情。 「怒ってないですよ」——嘘をつきながら、ノアは静かに一歩を踏み出します。 次回、特異点の番人ウェンディゴとの決戦。熱を奪う怪物に、ノアが「本来のちから」を突きつけます。




