「……たすけて……さむいよぉ……」——一年間泣き続けていた幼い魂。僕は、この子を救いたい
ついに辿り着いた、特異点の核——時計塔。 そこは、理の糸が結晶化し、空間そのものと一体化してしまった極限の静止世界。 そして塔の奥から聞こえてくるのは、もはや振動ではなく、幼い魂の「叫び」でした。
時計塔が近い。
空気の温度が、もう一段階落ちている。
吐く息の音すら凍りつきそうなほどの冷気。
糸の硬直がますます酷くなり、指先の感覚が鈍り始めている。
そして——前方から、地鳴りのような振動が伝わってくる。
「……来たわ。大物よ」
シオンの声が鋭く変わる。
「正面。距離四十。高さ推定六メートル超。四足歩行、体表は全面琥珀氷。——ただの傀儡じゃない。特異点の核に最も近い場所で一年間汚染され続けた個体。もう元の生物の原型を留めてないわ」
「……番犬、ですかね」
「番犬にしちゃ、でかすぎるわね」
ズ、と。
空気が揺れる。
地面が震えている。
こちらに向かって、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる重い足音。
一歩ごとに氷が軋み、木々が裂ける音がする。
さっきまでの獣たちとは、格が違う。
この「もの」の全身を覆っている琥珀氷は、ただの氷ではない。
理の糸が何百層にも重なって硬化した、分厚い鎧だ。
正面から壊すのは効率が悪い。
「シオン。その子の体で、一番糸が薄い場所はどこですか」
「……待って。見る」
肩の上で、シオンの身体が微かに緊張する。
猫の瞳が特異点内部の魔力の流れを読んでいるのだろう。
「——後頭部。首の付け根のすぐ上。氷の結晶が一箇所だけ歪んでて、わずかに隙間がある。そこだけ糸の層が三枚分薄い」
「三枚分。十分です」
僕は杖を地面に突き立て、両手を空ける。
——来い。
巨大な足音が加速する。
突進。
地面ごと砕きながら真っ直ぐに駆けてくる質量の暴力。
空気が裂ける音。
「距離三十……二十……十……ノア!」
「はい」
僕はその場にしゃがみ込む。
頭上すれすれを、岩のような何かが通り過ぎていく。
風圧で髪が激しく煽られ、琥珀氷の冷気が頬を灼くように撫でる。
——でかい。本当にでかい。
通り過ぎる刹那。
左手を真上に伸ばす。
指先が、巨大な体の底面を掠める。
その一瞬で——三本の糸を、後頭部の隙間へ向けて投げ入れた。
「——第一弦から第三弦、通過。接続完了」
つまり、もう終わっている。
三本の糸は、僕の指先と「巨体の中の核」を直接繋いでいる。
あとは弾くだけ。
背後で、巨体が地面を抉りながら急停止する音。
振り返ってくる気配。
「……ちなみにシオン」
「なに、こんな時に」
「この子が持ってる糸の構成って、さっきの獣たちと同じですか?」
「……元は狼ね。体長一メートル半くらいの、普通の森の狼。それが一年かけてこうなった」
「狼、ですか」
ふぅ、と息を吐く。
「じゃあ痛くないようにしてあげないと」
再び突進が来る。
地面が割れる振動。
もう距離は十五もない。
僕は立ち上がり、繋いだ三本の糸を——そっと弾いた。
タ、リン。
澄んだ音が一つ、森に響く。
それは音であって、音ではない。
核へ向かって走った振動が、琥珀氷の中で絡まりに絡まった何百層もの糸を、一瞬で正しい形に巻き戻していく。
氷が解けるのとは違う。
狂った弦を、正しい音程に戻しただけ。
調律。
パァン、と。
乾いた破裂音が響いて——あとは、サラサラと雪が降る音だけになる。
「……」
シオンが何も言わない。
静寂の中に、どすん、と重いものが地面に倒れる音。
そして——小さな、か細い呼吸音。
生きている。
六メートルの琥珀氷の鎧の中から出てきたのは、おそらくシオンが言った通りの、普通の森の狼なのだろう。
一年分の飢えと脱水で意識はないけれど、呼吸は安定している。
「……あなたって本当に」
シオンの声が呆れを通り越して、何か別の感情を含んでいる。
「殺さないのね。絶対に」
「殺す理由がないですから」
当たり前のことを言っただけなのに、シオンの尻尾がぎゅっと首に巻きついて、すぐに緩んだ。
---
森が開ける。
足元の感触が変わり、石畳のような硬さが靴底に伝わる。
広場だ。
そしてその正面に——。
巨大な構造物の気配。
理の糸が、目の前で渦を巻いている。
凄まじい密度で絡まり合い、硬直し、そこだけ世界が完全に停止している。
時計塔。
特異点の、核。
そして——あの声が、ここで一番強く響いている。
『……たすけて……さむいよぉ……だれか……だれかぁ……』
もはや振動ではなく、叫びだ。
幼い魂が、一年間ずっと泣き続けている悲鳴が、理の糸を通じて僕の全身を貫く。
指先が震える。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと単純で、もっと原始的な衝動。
——この子を、助けたい。
「ノア。あなた今、怖い顔してるわよ」
「怖い顔なんてしてませんよ。見えないんですから、自分では分かりませんけど」
「……分かるわよ。空気で」
シオンが小さく息を吐く。
「行くんでしょう」
「行きます」
「止めても無駄なんでしょう」
「無駄ですね」
「……ったく」
肩の上で、小さな猫が姿勢を正す気配。
戦闘態勢。
「——おうかがいを立てた私がバカだったわ。さっさと行きなさい」
僕は頷いて、凍りついた時計塔の扉へ向かって歩き出す。
扉に手をかける。
氷のように冷たい——いや、氷そのものだ。
指先が張りつきそうになる。
扉の向こうで、誰かが泣いている。
一年間、ずっと。
一人で。
——待っていてください。
今、行きますから。
扉の向こうで震える、見知らぬ誰か。 扉に触れた指先が凍りつきそうになっても、ノアの決意は揺るぎません。 「——待っていてください。今、行きますから」 次回、琥珀色の美しさに隠された、この村のあまりにも残酷な真実が明らかになります。




