表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救った代償に存在を消された盲目の魔術師、黒猫と静かに世界を直していたら「第二の魔王」に認定されました【毎日更新中】  作者: ミロク
第2章 琥珀氷の黄昏郷

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/58

黒猫(シオン)の本気。六メートルの巨大な「番犬」を、調律の一撃でほどく

夜明け前、時計塔へ向かうノアたち。立ち塞がるのは特異点に汚染された巨大な狼。シオンが戦闘形態へ変身します。

 夜明け前に村を出る。


 ボーデンの傭兵たちが酒に酔い潰れて眠っている間に、僕たちは誰にも告げず、時計塔のある森へ向かって歩き出していた。


「ミーナさんに挨拶したかったですね」


「あの子は賢い子よ。起こせば一緒に行くと言い出すわ」


 それもそうか。


 まだ暗い道を、シオンが僕の腕を引いて歩いてくれる。


 草を踏む音が柔らかい。


 霜が降りているのか、足元がぱりぱりと小さく砕ける。


 空気が変わったのは、村はずれの木立を抜けてすぐのことだった。


 鼻腔に刺さるような、古い鉄の匂い。


 まるで、世界がここから先は呼吸をやめていますよ、と宣言しているみたいなにおいだ。


「……糸が止まってますね」


 指先を持ち上げて、空中に触れる。


 理の糸は常に微かに揺れている。


 風が吹けば靡き、虫が飛べば撓み、人が笑えば震える。


 生きている世界の証だ。


 ここの糸は、動かない。


 硬い。


 凍りついた金属の弦みたいに、ぴんと張り詰めたまま、一切の振動を拒んでいる。


「特異点の中心に近づくほど密度が増すわ。普通の人間なら、息を吸った瞬間に肺の中の水分が凍りつく」


「僕たちは普通じゃないですから、大丈夫ですね」


「……そういう問題じゃないのよ」


 シオンが溜息をつく気配。


---




 森に入って、しばらく歩く。


 足元の感触がいつの間にか変わっている。


 土ではない。


 硬くて、滑らかで、靴底が滑る。


 地面ごと凍りついているのだ。


「シオン、姿を変えてもらえますか」


「……もうその時間?」


「ここから先は、ちょっと手を使いたいので」


 僕の左腕から、シオンの手がそっと離れる。


 代わりに——ふわり、と右肩に軽い重みが乗った。


 手のひらに収まるほどの小さな獣。


 柔らかい毛並みが頬を掠める。


 しなやかな尾が首筋に巻きつき、細い爪がローブの肩口にしっかりと食い込む。


 漆黒の猫。


 シオンの戦闘形態。


 自身の途方もない魔力を極限まで圧縮し、理の糸への干渉を最小限にしながら、僕の耳元で完璧な空間情報を囁くための——本気の姿。


「視界良好。三百六十度、全方位把握済み。——行きなさい、ノア」


 声のトーンが変わる。


 日常の彼女ではない。


 鋭く研ぎ澄まされた、戦場の声。


 僕は杖を握り直し、空いた左手の指先を軽く振る。


 ——タン。


 凍りついた糸を一本、爪弾いてみる。


 返ってきた反響が、頭の中で空間の地図になる。


 前方、約二百メートルに巨大な構造物。


 時計塔だろう。


 そこへ至る道は——塞がれている。


 何かが、たくさん、いる。


「……十二時の方角。距離八十。七体。木の間に潜んでる」


 シオンの囁きが、僕の耳朶を掠める。


「大丈夫。聞こえてますよ」


 聞こえている。


 不自然に静かな呼吸音。


 獣のものとも、機械のものともつかない、歪な律動。


 生きてはいる。


 でも、正しく生きてはいない。


 琥珀氷に呑まれて、理の糸がぐちゃぐちゃに絡まった獣たち。


 特異点のバグに巻き込まれた、可哀想な犠牲者だ。


「……かわいそうに」


「同情してる暇はないわよ。動くわ。——二時の方角からも三体、回り込んでる」


「はい」


 歩く速度は変えない。


 ただ歩きながら、左手の人差し指と中指を揃えて空中に差し出す。


 凍りついた糸に触れる。


 硬い。


 けれど、硬いだけだ。


 狂ってはいるけど、壊れてはいない。


 だから——解ける。


 キュ、と。


 糸を一本、指先で摘む。


 摘んだ糸を、くるりと巻き取る。


 ほどく、のではない。


 正しい場所に戻すだけ。


 糸が本来いるべき場所へ、そっと導いてあげるだけの、ごく簡単な作業。


「——第一結、固定」


 僕が呟いた瞬間、前方の空気が割れるような音がした。


 獣たちが飛びかかってくる。


 凍てついた爪が空を裂き、氷に覆われた牙が僕の首を狙う。


「十一時、跳躍! 高さ三!」


 シオンの声。


 僕は反射的に一歩だけ右に体を傾ける。


 風圧が左の頬を撫でて通り過ぎていく。


 近い。


 けれど、当たらない。


 通り過ぎた獣の体が、僕の張った糸に触れる。


 パリン——。


 硬質な、硝子を砕いたような音。


 獣を覆っていた琥珀氷が、一瞬で粉雪に還る。


 おそらく中から出てきた獣は——もう動かないだろう。


 凍りついた糸をほどいた瞬間に「本来の時間」が一気に追いついて、一年分の飢えと渇きが身体に襲いかかる。


 意識を失っているだけだ。


 死んではいない。


 五時、二体同時! 地を這ってくる!」


「はいはい」


 足元の氷を軽く踏む。


 コン、と小さな音。


 それだけで、足元から放射線状に理の糸が地面を走り、二体の獣の足を縫い止める。


 ……ガシャン。


 両方同時に琥珀氷が砕け散り、中身の獣たちが雪の上に崩れ落ちる音。


「五体、活動停止」


 シオンが淡々と報告する。


「残り五体。——だけど、様子がおかしいわ。散開してる。……逃げてるの?」


「逃げてるんじゃないと思いますよ」


 僕は足を止める。


 空気の振動が変わっている。


 さっきまでは、獣たちの荒い呼吸が散らばっていた。


 それが今、一点に収束しつつある。


 前方。


 時計塔の方角。


 何かが——集まっている。


「……嫌な気配ね。大きいのが来るわ」


「ですねぇ」


 のんびり答えながら、僕は指先を額の前に持ち上げる。


 この先の空間を、もう少し精密に読みたい。


 ——タリンッ。


 高く澄んだ音を一つ、空中に放つ。


 反響が返ってくる。


 ……でかい。


 時計塔の手前に、ひどく巨大な「何か」が座り込んでいる。


 糸の絡まりが尋常じゃない。


 さっきの獣たちとは比較にならない密度で、理の糸がぐちゃぐちゃに癒着している。


 そしてその塊の中心に——。


『……さむい……さむいよぉ……ママぁ……』


 あの声。


 昨日、琥珀氷の木箱から聞こえてきた、あの途方もなく幼い泣き声が、ここでは何倍も鮮明に響いている。


 僕の胸の奥が、きゅっと締まる。


「……シオン」


「聞こえてるわ。あなたの顔に書いてある。——『助けに行く』って」


「すみません。僕、分かりやすいですよね」


「最悪に分かりやすいわよ、このバカ」


 シオンの爪が、肩にチクリと食い込む。


 怒っているような。


 呆れているような。


 でも、止める気はない、という圧力。


 僕は静かに息を吸い込む。


 凍てつく空気が肺を刺す。


 痛いくらいに冷たい。


 ——ああ。


 こういう冷たさを、知っている。


「……あのー、シオン」


「なに」


「昔ね、ルークたちと魔王領に向かう途中で、ひどい猛吹雪に遭ったことがあるんですよ」


「……また始まった。あなたのその、『むかしばなし』」


「すみません。でも、なんか思い出しちゃって」


 足を踏み出しながら、静かな森の中に声を落とす。


「ガルドさんが大盾で風を防いでくれて、その後ろに四人でぎゅうぎゅうに固まって。ルークとセシルがガタガタ震えてるから、僕が間に挟まれて、みんなの体温がぽかぽかで……」


 ふふ、と笑う。


「あれ、すごく楽しかったんですよ。大家族のキャンプみたいで」


「……ふぅん。四人でくっついて」


 シオンの声に、棘はない。


 ただ少しだけ、退屈そうな響き。


「ガルドさんの背中がね、大きくて。世界で一番あったかいなぁって、あの時思いました」


「……そのガルドって人、よっぽど大きいのね」


「はい。声も大きくて、笑うとお腹が揺れるんです。でも料理が上手で、スープの味付けだけは繊細で」


「へぇ」


 興味があるのかないのか分からない相槌。


 でも、聞いてはくれている。


「ルークはね、僕が転ぶたびに大騒ぎする人で。セシルは紅茶を淹れるのが上手で——」


「……あなた、本当にその人たちのこと好きなのね」


 シオンが静かに言う。


 怒ってはいない。


 責めてもいない。


 ただ、確認するような声。


「はい。大好きでしたよ」


「……でもその人たち、あなたのこと覚えてないんでしょう」


「ええ。まぁ、仕方ないですよ。僕が消えちゃったんですから」


「…………」


 肩の上で、小さな溜息。


 それから、肉球が僕の首筋にそっと触れる。


 柔らかくて、少しだけ冷たい。


「……バカね。そういうところが」


「よく言われます」


「褒めてないわよ」


 でも声は柔らかい。


 喉の奥でごろごろと鳴るような、甘い振動が混じっている。


 尻尾が首筋をゆるく巻く。


「まぁいいわ。……今度その『世界一あったかい背中』の話、もう少し聞かせなさい。暇な時にでも」


 僕は少し驚いて、それから嬉しくなって、笑う。


「……ありがとう、シオン」


---




 

「殺す理由がないですから」。鎧ごと一瞬で元の姿に戻された狼。次回、ついに時計塔の最上階へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ