黒猫(シオン)の本気。六メートルの巨大な「番犬」を、調律の一撃でほどく
夜明け前、時計塔へ向かうノアたち。立ち塞がるのは特異点に汚染された巨大な狼。シオンが戦闘形態へ変身します。
夜明け前に村を出る。
ボーデンの傭兵たちが酒に酔い潰れて眠っている間に、僕たちは誰にも告げず、時計塔のある森へ向かって歩き出していた。
「ミーナさんに挨拶したかったですね」
「あの子は賢い子よ。起こせば一緒に行くと言い出すわ」
それもそうか。
まだ暗い道を、シオンが僕の腕を引いて歩いてくれる。
草を踏む音が柔らかい。
霜が降りているのか、足元がぱりぱりと小さく砕ける。
空気が変わったのは、村はずれの木立を抜けてすぐのことだった。
鼻腔に刺さるような、古い鉄の匂い。
まるで、世界がここから先は呼吸をやめていますよ、と宣言しているみたいなにおいだ。
「……糸が止まってますね」
指先を持ち上げて、空中に触れる。
理の糸は常に微かに揺れている。
風が吹けば靡き、虫が飛べば撓み、人が笑えば震える。
生きている世界の証だ。
ここの糸は、動かない。
硬い。
凍りついた金属の弦みたいに、ぴんと張り詰めたまま、一切の振動を拒んでいる。
「特異点の中心に近づくほど密度が増すわ。普通の人間なら、息を吸った瞬間に肺の中の水分が凍りつく」
「僕たちは普通じゃないですから、大丈夫ですね」
「……そういう問題じゃないのよ」
シオンが溜息をつく気配。
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森に入って、しばらく歩く。
足元の感触がいつの間にか変わっている。
土ではない。
硬くて、滑らかで、靴底が滑る。
地面ごと凍りついているのだ。
「シオン、姿を変えてもらえますか」
「……もうその時間?」
「ここから先は、ちょっと手を使いたいので」
僕の左腕から、シオンの手がそっと離れる。
代わりに——ふわり、と右肩に軽い重みが乗った。
手のひらに収まるほどの小さな獣。
柔らかい毛並みが頬を掠める。
しなやかな尾が首筋に巻きつき、細い爪がローブの肩口にしっかりと食い込む。
漆黒の猫。
シオンの戦闘形態。
自身の途方もない魔力を極限まで圧縮し、理の糸への干渉を最小限にしながら、僕の耳元で完璧な空間情報を囁くための——本気の姿。
「視界良好。三百六十度、全方位把握済み。——行きなさい、ノア」
声のトーンが変わる。
日常の彼女ではない。
鋭く研ぎ澄まされた、戦場の声。
僕は杖を握り直し、空いた左手の指先を軽く振る。
——タン。
凍りついた糸を一本、爪弾いてみる。
返ってきた反響が、頭の中で空間の地図になる。
前方、約二百メートルに巨大な構造物。
時計塔だろう。
そこへ至る道は——塞がれている。
何かが、たくさん、いる。
「……十二時の方角。距離八十。七体。木の間に潜んでる」
シオンの囁きが、僕の耳朶を掠める。
「大丈夫。聞こえてますよ」
聞こえている。
不自然に静かな呼吸音。
獣のものとも、機械のものともつかない、歪な律動。
生きてはいる。
でも、正しく生きてはいない。
琥珀氷に呑まれて、理の糸がぐちゃぐちゃに絡まった獣たち。
特異点のバグに巻き込まれた、可哀想な犠牲者だ。
「……かわいそうに」
「同情してる暇はないわよ。動くわ。——二時の方角からも三体、回り込んでる」
「はい」
歩く速度は変えない。
ただ歩きながら、左手の人差し指と中指を揃えて空中に差し出す。
凍りついた糸に触れる。
硬い。
けれど、硬いだけだ。
狂ってはいるけど、壊れてはいない。
だから——解ける。
キュ、と。
糸を一本、指先で摘む。
摘んだ糸を、くるりと巻き取る。
ほどく、のではない。
正しい場所に戻すだけ。
糸が本来いるべき場所へ、そっと導いてあげるだけの、ごく簡単な作業。
「——第一結、固定」
僕が呟いた瞬間、前方の空気が割れるような音がした。
獣たちが飛びかかってくる。
凍てついた爪が空を裂き、氷に覆われた牙が僕の首を狙う。
「十一時、跳躍! 高さ三!」
シオンの声。
僕は反射的に一歩だけ右に体を傾ける。
風圧が左の頬を撫でて通り過ぎていく。
近い。
けれど、当たらない。
通り過ぎた獣の体が、僕の張った糸に触れる。
パリン——。
硬質な、硝子を砕いたような音。
獣を覆っていた琥珀氷が、一瞬で粉雪に還る。
おそらく中から出てきた獣は——もう動かないだろう。
凍りついた糸をほどいた瞬間に「本来の時間」が一気に追いついて、一年分の飢えと渇きが身体に襲いかかる。
意識を失っているだけだ。
死んではいない。
五時、二体同時! 地を這ってくる!」
「はいはい」
足元の氷を軽く踏む。
コン、と小さな音。
それだけで、足元から放射線状に理の糸が地面を走り、二体の獣の足を縫い止める。
……ガシャン。
両方同時に琥珀氷が砕け散り、中身の獣たちが雪の上に崩れ落ちる音。
「五体、活動停止」
シオンが淡々と報告する。
「残り五体。——だけど、様子がおかしいわ。散開してる。……逃げてるの?」
「逃げてるんじゃないと思いますよ」
僕は足を止める。
空気の振動が変わっている。
さっきまでは、獣たちの荒い呼吸が散らばっていた。
それが今、一点に収束しつつある。
前方。
時計塔の方角。
何かが——集まっている。
「……嫌な気配ね。大きいのが来るわ」
「ですねぇ」
のんびり答えながら、僕は指先を額の前に持ち上げる。
この先の空間を、もう少し精密に読みたい。
——タリンッ。
高く澄んだ音を一つ、空中に放つ。
反響が返ってくる。
……でかい。
時計塔の手前に、ひどく巨大な「何か」が座り込んでいる。
糸の絡まりが尋常じゃない。
さっきの獣たちとは比較にならない密度で、理の糸がぐちゃぐちゃに癒着している。
そしてその塊の中心に——。
『……さむい……さむいよぉ……ママぁ……』
あの声。
昨日、琥珀氷の木箱から聞こえてきた、あの途方もなく幼い泣き声が、ここでは何倍も鮮明に響いている。
僕の胸の奥が、きゅっと締まる。
「……シオン」
「聞こえてるわ。あなたの顔に書いてある。——『助けに行く』って」
「すみません。僕、分かりやすいですよね」
「最悪に分かりやすいわよ、このバカ」
シオンの爪が、肩にチクリと食い込む。
怒っているような。
呆れているような。
でも、止める気はない、という圧力。
僕は静かに息を吸い込む。
凍てつく空気が肺を刺す。
痛いくらいに冷たい。
——ああ。
こういう冷たさを、知っている。
「……あのー、シオン」
「なに」
「昔ね、ルークたちと魔王領に向かう途中で、ひどい猛吹雪に遭ったことがあるんですよ」
「……また始まった。あなたのその、『むかしばなし』」
「すみません。でも、なんか思い出しちゃって」
足を踏み出しながら、静かな森の中に声を落とす。
「ガルドさんが大盾で風を防いでくれて、その後ろに四人でぎゅうぎゅうに固まって。ルークとセシルがガタガタ震えてるから、僕が間に挟まれて、みんなの体温がぽかぽかで……」
ふふ、と笑う。
「あれ、すごく楽しかったんですよ。大家族のキャンプみたいで」
「……ふぅん。四人でくっついて」
シオンの声に、棘はない。
ただ少しだけ、退屈そうな響き。
「ガルドさんの背中がね、大きくて。世界で一番あったかいなぁって、あの時思いました」
「……そのガルドって人、よっぽど大きいのね」
「はい。声も大きくて、笑うとお腹が揺れるんです。でも料理が上手で、スープの味付けだけは繊細で」
「へぇ」
興味があるのかないのか分からない相槌。
でも、聞いてはくれている。
「ルークはね、僕が転ぶたびに大騒ぎする人で。セシルは紅茶を淹れるのが上手で——」
「……あなた、本当にその人たちのこと好きなのね」
シオンが静かに言う。
怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ、確認するような声。
「はい。大好きでしたよ」
「……でもその人たち、あなたのこと覚えてないんでしょう」
「ええ。まぁ、仕方ないですよ。僕が消えちゃったんですから」
「…………」
肩の上で、小さな溜息。
それから、肉球が僕の首筋にそっと触れる。
柔らかくて、少しだけ冷たい。
「……バカね。そういうところが」
「よく言われます」
「褒めてないわよ」
でも声は柔らかい。
喉の奥でごろごろと鳴るような、甘い振動が混じっている。
尻尾が首筋をゆるく巻く。
「まぁいいわ。……今度その『世界一あったかい背中』の話、もう少し聞かせなさい。暇な時にでも」
僕は少し驚いて、それから嬉しくなって、笑う。
「……ありがとう、シオン」
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「殺す理由がないですから」。鎧ごと一瞬で元の姿に戻された狼。次回、ついに時計塔の最上階へ。




