村人を奴隷として扱う「旦那様」。琥珀氷という名の黄金が隠していた悲鳴
食べ物と引き換えに氷を掘らせる悪徳商人ボーデン。村人たちが時間を直されたくない理由、それは「氷がなければ食っていけない」という現実でした。
鉄の鐘が鳴る。
祈りの音じゃない。
乾いて、重くて、どこか脅すような響き。
村長の家で朝の粥を啜っていた僕の耳に、その音は理の糸を伝って、ずいぶんと遠くから正確に届いた。
「……シオン、何の音ですか」
「鐘よ。村の入口の見張り台から」
シオンが窓の方を見ている気配。
「馬車が来るわ。四台。……護衛つき。傭兵が六人。かなり武装してる」
「商人さんですか」
「ええ。それも上物のコートを着てるわ。毛皮でべったりの、趣味の悪いやつ」
ミーナが、ぱたぱたと走り込んでくる。
「ノアお兄ちゃん! ボーデンさんが来たよ!」
ボーデン。
昨日の夜、村人たちが囁いていた名前だ。
「ミーナさん、ボーデンさんってどんな人?」
「えっとね……月に一回、食べ物を持ってきてくれるおじさん。村のみんなは『旦那様』って呼んでるの。でもあたし、あの人あんまり好きじゃない」
「どうして?」
「……なんか、氷を持って帰るの。きれいな琥珀の氷。いっぱい、いっぱい。それで食べ物と交換してくれるんだけど、いつも足りないの。おばあちゃんが『足元を見やがって』って怒ってた」
僕は粥の器を置く。
村長が慌てて立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。
「お客人、申し訳ないが——ボーデン様がいらっしゃる間は、できれば部屋に……」
「僕たちがいると困りますか?」
「……よそ者がいると、旦那様の機嫌を損ねるんです。取引に差し障りが出てしまう。どうか、ご理解を」
村長の声に混じっているのは、恥の匂いだった。
自分より弱い相手に頭を下げている恥ずかしさではない。自分が卑屈になっていることを分かっていて、それでも止められない人間の、やるせない匂い。
「分かりました。おとなしくしてますね」
「すまない……本当にすまない……」
村長が出て行った後、シオンが低い声で言う。
「おとなしくするの?」
「とりあえず、見てみましょう。ここに座ってるだけでも、色々聞こえますから」
「……そうね」
シオンの声に、微かな苛立ちが混じっている。
でもそれは僕に対してじゃない。この村の仕組みそのものに対する、根深い嫌悪だ。
窓を少しだけ開ける。
冷たい空気と一緒に、村の広場の音が流れ込んでくる。
馬車の車輪が氷を噛む、耳障りな軋み。
重い荷物が地面に置かれる鈍い音。
そして——村人たちの声。
「お待ちしておりました、ボーデン様!」
「今月の品、ご確認ください!」
「い、いつもありがとうございます。食糧のほう、少し多めにいただけると……」
その声のすべてが、昨日までとはまるで違う。
僕たちに向けていた声は、疲れてはいても、まだ人間同士の温度があった。
今、村人たちが発しているのは、卑屈に歪んだ媚びの音だ。
そしてそれに応える、太い声。
「ふん。今月は量が少ねぇな。やる気がねぇのか? 食い物が欲しけりゃ、もっと掘れ。琥珀氷は今、ガルヴァニアの貴族どもに飛ぶように売れてんだ」
ボーデン。
声だけで分かる。この男は、村人たちを人間として見ていない。
道具だ。氷を掘り出すための、使い捨ての道具。
「おい、そこの餓鬼。邪魔だ、どけ」
「……あっ」
ミーナの小さな悲鳴。
何かを蹴られたような、短い衝撃音。
僕の指先が、反射的にぴくりと動く。
「ノア」
シオンが僕の手を押さえる。
「まだよ」
「……はい」
窓の外から、ボーデンの部下と思しき男たちの笑い声が聞こえてくる。
それに混じって、ミーナが膝を擦りむいた痛みを噛み殺している気配。
泣いてはいない。
この子は、泣き方を忘れてしまったのかもしれない。
しばらくして、村の広場の喧騒が変わる。
掘削の音。
氷を割る音。
木箱に詰め込む音。
村人たちが、琥珀色の氷を切り出しては、ボーデンの馬車に積み込んでいるのだろう。
重い。
音だけで分かる。冷気で手がかじかんでいる老人たちが、自分の体よりはるかに重い氷塊を、必死で運んでいる。
「シオン、あの氷は何に使うんですか」
「……熱源よ。琥珀氷は普通の氷と違って、溶ける時に莫大な熱を放出するの。ガルヴァニアの貴族は暖炉にくべて暖を取る。ファルサスの工房は魔導炉の燃料にする。ひとかけらで、一般家庭の一ヶ月分の薪に匹敵するわ」
「それが、この村の『黄金』なんですね」
「ええ。そして村人たちは、その黄金を掘り出す奴隷。食糧と引き換えにね」
シオンの声が、冷えきった刃のように鋭い。
「特異点が消えたら、氷も消える。氷が消えたら、ボーデンは食糧を運ばなくなる。だから村人たちは——」
「時間が動くことを、望んでいない」
「……そういうこと」
昨夜、村人たちが囁いていた言葉の意味が、ようやく繋がる。
「直されたら困る」。
「管理官に報告される」。
「ボーデンさんが黙っちゃいない」。
この村の「時間」は、止まったのではなく——止められていたいのだ。
村人たち自身の手で。
生きるために。
午後。
僕は村長に断りを入れて、少しだけ外に出る。
シオンが僕の腕を取って歩く。猫の姿ではなく、人の姿のまま。
「少し歩くだけですよ」
「分かってるわ。……あの商人の馬車に近づくつもりでしょう」
「さすがシオン」
「さすがじゃないの。分かりやすすぎるのよ、あなたは」
広場の隅を通り過ぎる時、積み上げられた木箱のそばを通った。
ボーデンの護衛たちは、反対側で酒を飲んでいる。こちらには気づいていない。
僕は歩きながら、木箱にそっと指先を近づける。
触れてはいない。
ただ、箱の近くに手をかざしただけ。
——それだけで、十分だった。
理の糸が、僕の指先に流れ込んでくる。
琥珀氷の中の糸の構造。
絡まっている。ぐちゃぐちゃに、複雑に。
でもこの絡まり方は、村の建物や道路の糸とは少し違う。
もっと深い場所に——もっと根源的な歪みがある。
まるで、糸が「何か」に巻きついているような。
何かに——しがみついているような。
理の糸が、ある一点に向かって必死に手を伸ばし、けれど届かず、絡まって、固まっている。
その一点の向こう側から——。
『……さむいよぉ……』
届いてくる。
声ではない。
理の糸を通じて伝わってくる、純粋な感情の振動。
途方もなく幼くて、途方もなく寂しい、震え。
『……ママ……さむい……くらいよぉ……』
僕は立ち止まる。
息が止まりそうなほどの、冷たい悲しみが、指先から全身に広がっていく。
この氷の中に、何かがいる。
閉じ込められている。
凍えて、泣いて、助けを求めている。
ずっと。
一年間、ずっと。
「……シオン」
「……なに」
シオンの声が、かすかに硬い。
僕の様子がおかしいことに、彼女はもう気づいている。
「……何か、いますね。氷の中に」
「……何が」
「分からないです。でも——」
僕は手を下ろす。
指先がまだ震えている。
「——とても寒くて、哀しい響きだ」
シオンが、長い沈黙の後、僕の腕を強く握る。
「……明日、時計塔に行くわ。予定を早めましょう」
「シオン——」
「あなたがその顔をする時は、もう止められないって分かってるのよ」
シオンの声は怒っているようで、でもどこか覚悟を決めたような響き。
僕は頷いた。
広場の反対側から、ボーデンの太い笑い声が響いてくる。
「もっと掘れ! もっとだ! ガルヴァニアの冬は長いんだ! この『夕日の琥珀』を湯水のように使う貴族どもが、いくらでも金を出す!」
夕日の琥珀。
その美しい名前が、今はどうしようもなく嫌な音に聞こえた。
この美しさの裏に、あの悲鳴がある。
分からないことだらけだ。
氷の中にいるのが何なのか。なぜ閉じ込められているのか。琥珀色のあの輝きが、本当は何を意味しているのか。
でも一つだけ、確かなことがある。
あの「声」は、助けを求めている。
——明日、時計塔へ行く。
僕は拳を静かに握り締める。
氷に触れたノアの指先が、純粋な悲鳴を拾いました。「ママ……さむいよ……」。次回、吹雪の森の防衛線。




