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世界を救った代償に存在を消された盲目の魔術師、黒猫と静かに世界を直していたら「第二の魔王」に認定されました【毎日更新中】  作者: ミロク
第2章 琥珀氷の黄昏郷

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村人を奴隷として扱う「旦那様」。琥珀氷という名の黄金が隠していた悲鳴

食べ物と引き換えに氷を掘らせる悪徳商人ボーデン。村人たちが時間を直されたくない理由、それは「氷がなければ食っていけない」という現実でした。

 

 鉄の鐘が鳴る。


 祈りの音じゃない。


 乾いて、重くて、どこか脅すような響き。


 村長の家で朝の粥を啜っていた僕の耳に、その音は理の糸を伝って、ずいぶんと遠くから正確に届いた。


「……シオン、何の音ですか」


「鐘よ。村の入口の見張り台から」


 シオンが窓の方を見ている気配。


「馬車が来るわ。四台。……護衛つき。傭兵が六人。かなり武装してる」


「商人さんですか」


「ええ。それも上物のコートを着てるわ。毛皮でべったりの、趣味の悪いやつ」


 ミーナが、ぱたぱたと走り込んでくる。


「ノアお兄ちゃん! ボーデンさんが来たよ!」


 ボーデン。


 昨日の夜、村人たちが囁いていた名前だ。


「ミーナさん、ボーデンさんってどんな人?」


「えっとね……月に一回、食べ物を持ってきてくれるおじさん。村のみんなは『旦那様』って呼んでるの。でもあたし、あの人あんまり好きじゃない」


「どうして?」


「……なんか、氷を持って帰るの。きれいな琥珀の氷。いっぱい、いっぱい。それで食べ物と交換してくれるんだけど、いつも足りないの。おばあちゃんが『足元を見やがって』って怒ってた」


 僕は粥の器を置く。


 村長が慌てて立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。


「お客人、申し訳ないが——ボーデン様がいらっしゃる間は、できれば部屋に……」


「僕たちがいると困りますか?」


「……よそ者がいると、旦那様の機嫌を損ねるんです。取引に差し障りが出てしまう。どうか、ご理解を」


 村長の声に混じっているのは、恥の匂いだった。


 自分より弱い相手に頭を下げている恥ずかしさではない。自分が卑屈になっていることを分かっていて、それでも止められない人間の、やるせない匂い。


「分かりました。おとなしくしてますね」


「すまない……本当にすまない……」


 村長が出て行った後、シオンが低い声で言う。


「おとなしくするの?」


「とりあえず、見てみましょう。ここに座ってるだけでも、色々聞こえますから」


「……そうね」


 シオンの声に、微かな苛立ちが混じっている。


 でもそれは僕に対してじゃない。この村の仕組みそのものに対する、根深い嫌悪だ。


 


 窓を少しだけ開ける。


 冷たい空気と一緒に、村の広場の音が流れ込んでくる。


 馬車の車輪が氷を噛む、耳障りな軋み。


 重い荷物が地面に置かれる鈍い音。


 そして——村人たちの声。


「お待ちしておりました、ボーデン様!」


「今月の品、ご確認ください!」


「い、いつもありがとうございます。食糧のほう、少し多めにいただけると……」


 その声のすべてが、昨日までとはまるで違う。


 僕たちに向けていた声は、疲れてはいても、まだ人間同士の温度があった。


 今、村人たちが発しているのは、卑屈に歪んだ媚びの音だ。


 そしてそれに応える、太い声。


「ふん。今月は量が少ねぇな。やる気がねぇのか? 食い物が欲しけりゃ、もっと掘れ。琥珀氷は今、ガルヴァニアの貴族どもに飛ぶように売れてんだ」


 ボーデン。


 声だけで分かる。この男は、村人たちを人間として見ていない。


 道具だ。氷を掘り出すための、使い捨ての道具。


「おい、そこの餓鬼。邪魔だ、どけ」


「……あっ」


 ミーナの小さな悲鳴。


 何かを蹴られたような、短い衝撃音。


 僕の指先が、反射的にぴくりと動く。


「ノア」


 シオンが僕の手を押さえる。


「まだよ」


「……はい」


 窓の外から、ボーデンの部下と思しき男たちの笑い声が聞こえてくる。


 それに混じって、ミーナが膝を擦りむいた痛みを噛み殺している気配。


 泣いてはいない。


 この子は、泣き方を忘れてしまったのかもしれない。


 


 しばらくして、村の広場の喧騒が変わる。


 掘削の音。


 氷を割る音。


 木箱に詰め込む音。


 村人たちが、琥珀色の氷を切り出しては、ボーデンの馬車に積み込んでいるのだろう。


 重い。


 音だけで分かる。冷気で手がかじかんでいる老人たちが、自分の体よりはるかに重い氷塊を、必死で運んでいる。


「シオン、あの氷は何に使うんですか」


「……熱源よ。琥珀氷は普通の氷と違って、溶ける時に莫大な熱を放出するの。ガルヴァニアの貴族は暖炉にくべて暖を取る。ファルサスの工房は魔導炉の燃料にする。ひとかけらで、一般家庭の一ヶ月分の薪に匹敵するわ」


「それが、この村の『黄金』なんですね」


「ええ。そして村人たちは、その黄金を掘り出す奴隷。食糧と引き換えにね」


 シオンの声が、冷えきった刃のように鋭い。


「特異点が消えたら、氷も消える。氷が消えたら、ボーデンは食糧を運ばなくなる。だから村人たちは——」


「時間が動くことを、望んでいない」


「……そういうこと」


 昨夜、村人たちが囁いていた言葉の意味が、ようやく繋がる。


「直されたら困る」。


「管理官に報告される」。


「ボーデンさんが黙っちゃいない」。


 この村の「時間」は、止まったのではなく——止められていたいのだ。


 村人たち自身の手で。


 生きるために。


 


 午後。


 僕は村長に断りを入れて、少しだけ外に出る。


 シオンが僕の腕を取って歩く。猫の姿ではなく、人の姿のまま。


「少し歩くだけですよ」


「分かってるわ。……あの商人の馬車に近づくつもりでしょう」


「さすがシオン」


「さすがじゃないの。分かりやすすぎるのよ、あなたは」


 広場の隅を通り過ぎる時、積み上げられた木箱のそばを通った。


 ボーデンの護衛たちは、反対側で酒を飲んでいる。こちらには気づいていない。


 僕は歩きながら、木箱にそっと指先を近づける。


 触れてはいない。


 ただ、箱の近くに手をかざしただけ。


 ——それだけで、十分だった。


 理の糸が、僕の指先に流れ込んでくる。


 琥珀氷の中の糸の構造。


 絡まっている。ぐちゃぐちゃに、複雑に。


 でもこの絡まり方は、村の建物や道路の糸とは少し違う。


 もっと深い場所に——もっと根源的な歪みがある。


 まるで、糸が「何か」に巻きついているような。


 何かに——しがみついているような。


 理の糸が、ある一点に向かって必死に手を伸ばし、けれど届かず、絡まって、固まっている。


 その一点の向こう側から——。


『……さむいよぉ……』


 届いてくる。


 声ではない。


 理の糸を通じて伝わってくる、純粋な感情の振動。


 途方もなく幼くて、途方もなく寂しい、震え。


『……ママ……さむい……くらいよぉ……』


 僕は立ち止まる。


 息が止まりそうなほどの、冷たい悲しみが、指先から全身に広がっていく。


 この氷の中に、何かがいる。


 閉じ込められている。


 凍えて、泣いて、助けを求めている。


 ずっと。


 一年間、ずっと。


「……シオン」


「……なに」


 シオンの声が、かすかに硬い。


 僕の様子がおかしいことに、彼女はもう気づいている。


「……何か、いますね。氷の中に」


「……何が」


「分からないです。でも——」


 僕は手を下ろす。


 指先がまだ震えている。


「——とても寒くて、哀しい響きだ」


 シオンが、長い沈黙の後、僕の腕を強く握る。


「……明日、時計塔に行くわ。予定を早めましょう」


「シオン——」


「あなたがその顔をする時は、もう止められないって分かってるのよ」


 シオンの声は怒っているようで、でもどこか覚悟を決めたような響き。


 僕は頷いた。


 広場の反対側から、ボーデンの太い笑い声が響いてくる。


「もっと掘れ! もっとだ! ガルヴァニアの冬は長いんだ! この『夕日の琥珀イブニング・アンバー』を湯水のように使う貴族どもが、いくらでも金を出す!」


 夕日の琥珀。


 その美しい名前が、今はどうしようもなく嫌な音に聞こえた。


 この美しさの裏に、あの悲鳴がある。


 分からないことだらけだ。


 氷の中にいるのが何なのか。なぜ閉じ込められているのか。琥珀色のあの輝きが、本当は何を意味しているのか。


 でも一つだけ、確かなことがある。


 あの「声」は、助けを求めている。


 ——明日、時計塔へ行く。


 僕は拳を静かに握り締める。

氷に触れたノアの指先が、純粋な悲鳴を拾いました。「ママ……さむいよ……」。次回、吹雪の森の防衛線。

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