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世界を救った代償に存在を消された盲目の魔術師、黒猫と静かに世界を直していたら「第二の魔王」に認定されました【毎日更新中】  作者: ミロク
第2章 琥珀氷の黄昏郷

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ちっ、ちっ、ちっ——一年間眠っていたママの時計が、少年の掌で息を吹き返す

止まってほしい時間と、動いてほしい時間。村人たちの複雑な想いの中で、ノアは少女の懐中時計を手に取ります。

 

 村長の家は、他の建物より少しだけ大きい。


 シオンが教えてくれる。


 石造りの壁、木の扉、分厚い布のカーテン。


 でも足を踏み入れた瞬間、僕が一番最初に感じたのは——理の糸の、異様な絡まり方。


 この部屋の中にあるもの全部——テーブルも、椅子も、壁にかかった布も——時間の糸が複雑に結ばれて、がんじがらめになっている。


 外よりもずっと密度が濃い。一年分の「動けなかった時間」が、この部屋に詰まっている。


「ようこそ、旅のお方。……このような有様の村に、よくいらしてくださった」


 低い、疲労の染みた声。


 村長だと、すぐに分かる。


「村長さんですか? 突然お邪魔してすみません。旅の者で……ミーナさんという女の子に案内してもらって」


「ああ、ミーナか。あの子は相変わらず元気だ。……ご覧の通り、この村は難儀な状態でしてね。特異点調査の方々をお待ちしていたのですが、なかなか来ていただけなくて」


 村長の声に、諦めに近い疲弊がにじんでいる。


「……食べ物もまともに作れんのです。火は——かろうじて熾せるのですが、食材に熱が通らない。パンを焼こうにも石のまま。種を蒔いても芽が出ない。時間が絡まって、すべてが一年前のまま、動けなくなっておるのです」


「時間が絡まって——」


「そうです。あなたは、ご存知なんですね」


「少しだけ」


 僕は少し考える。


 この村全体の糸を一気にほどくのは、今はまだ危ない。絡まり方の全容が見えていない。


 でも——小さなものなら。


「ミーナさん」


「なぁに?」


「さっき言ってた、お母さんの時計。見せてもらえますか?」


 ミーナの足音がぱたぱたと近づいてきて、何かが僕の掌に乗る。


 小さい。


 丸い、金属の懐中時計。


 まだ子供の手に合うほど小さくて、でもずしりとした重み。


 指先で蓋の表面をなぞると、細かな花の彫刻が施してある。


 丁寧な仕事だ。安物じゃない。誰かがこの子のために、心を込めて選んだものだ。


「……すごくきれいな時計ですね」


「でしょ? ママが、あたしの七つの誕生日にくれたの。——でも、ずっと動かないんだ」


 指先を時計の内部に向けて、理の糸に触れる。


 ——ああ、なるほど。


 時計の中の糸が、周囲の特異点の影響を受けて、ぐちゃぐちゃに絡まっている。


 歯車を動かすための糸、ゼンマイの張力を伝える糸、針を進めるための糸。


 それが全部、互いに結ばれて固まっている。


 でもこれは——この時計一個分なら、ほどける。


「シオン、この時計の糸だけ、ほどいてみてもいいですか」


「……全体の特異点には触れないのね?」


「はい。この時計一個だけ。小さな試しです」


 シオンが少しだけ沈黙する。


「……危険はないと思うけど。念のため、糸の反動に気をつけて。絡まりが解けた瞬間に、周囲に波及しないように」


「分かりました」


 僕は時計を両手で包み込む。


 理の糸に触れる。


 絡まった糸を、一本ずつ。


 丁寧に、丁寧に、解していく。


 引っ張るのではなく、指先で撫でるように。


 ゼンマイの糸と歯車の糸を分けて、針を進める糸だけを——そっと、本来の方向へ滑らせる。


 数秒もかからない。


 ——ちっ。


 小さな音がした。


 それから——。


 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。


 時を刻む音。


 一年間沈黙していた小さな機械が、僕の掌の中で、息を吹き返す。


「……!」


 ミーナが、息を呑む気配。


「動いてる……!」


 村長も立ち上がる。椅子が鳴る音。


「そんな……! どうやって……!」


「うごいてる……うごいてるよ……!」


 ミーナの声が、震えている。


 泣いているわけじゃない。


 でも、声の奥に、とても深い何かが揺れている。


「ママの時計が、動いてる……」


 小さな手が、僕の掌の上の時計を受け取る。


 ぎゅっと胸に抱きしめる気配。


「ありがとう。ありがとう、ノアお兄ちゃん……!」


 僕は少しだけ笑う。


「ミーナさんの大切なもの、ちゃんと動いてよかったです」


「シオン、におい変わりましたか?」


「……ええ」


 シオンの声が、いつもより少し柔らかい。


「この時計の周りだけ、空気が動いてる。微かにだけど——時間が流れ始めてる」


 村長が、震える息を吐く。


「こんな……こんなことが……!」


「村長さん、これは時計一つだけです。村全体の時間の絡まりをほどくのは、もう少し時間がかかります。でも——できないことはないと思います」


「お若い方……あなたは、いったい——」


「ただの旅人ですよ。通りすがりの」


 ミーナが、時計を胸に抱えたまま、扉の向こうへ走っていく気配がした。


「みんな聞いて! あたしの時計が動いたよ! ノアお兄ちゃんが直してくれた!」


 村の奥から、複数の足音が近づいてくる。


 でも——足音に混じったその「響き」に、足が止まる。


 さっき、村の入り口でかすかに鼓膜を掠めたあの不穏な囁きが、また聞こえたのだ。


 今度は、さっきよりもさらに近く、生々しく、はっきりと。


「……時が動いたら、管理官に報告されるぞ」 「契約がどうなるか……ボーデンさんが黙っちゃいないだろ」 「だから余計なことをするなと言ったんだ……!」


 誰かが慌てて他の誰かを制する声。


 僕の耳には、全部聞こえていた。


 ——ボーデン。


 その名前を、僕はそっと記憶の中に留める。


 


 その夜。


 村長の家に泊めてもらいながら、僕は天井を向いたまま、この村の特異点のことを考えていた。


 時計塔。


 村の中心にある時計塔の最上部に、絡まりの核がある。


 一年前、ここで何かが起きた。


 あるいは、何かが持ち込まれた。


 その「何か」が糸をぐちゃぐちゃに絡ませて、この村の時間を縛りつけた。


 ——そして、村人たちの何人かは、それを「直されたくない」と思っている。


「シオン、起きてますか?」


「……起きてるわよ。なに」


「あの絡まり、ほどけると思いますか」


「ほどけるわよ。あなたの糸さばきなら」


「でも、また危ないことになりませんか」


「……それは、絡まりの核を見てから判断しましょう」


 シオンが、ごろりと寝返りを打つ気配。


「今日のミーナの顔、見たかった?」


「見たかったです」


「そう。……すごくいい顔してたわよ」


「シオンも嬉しそうでしたよね? 時計が動いた瞬間、声が柔らかくなってましたよ」


「……寝なさい、ノア」


「はい。……おやすみなさい、シオン」


 返事はなかった。


 でも毛布の向こうから、猫が喉を鳴らすような、小さな温かい音。


 止まった夕陽の中で、ノアはゆっくりと目を閉じる。


 ——明日、時計塔へ行く。


 ——そして、この村の人たちが怯えている「何か」の正体も、きっと分かる。

時計は動き出しました。でも、「時間を直されたら困る」という不穏な声も聞こえてきて——。

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