ちっ、ちっ、ちっ——一年間眠っていたママの時計が、少年の掌で息を吹き返す
止まってほしい時間と、動いてほしい時間。村人たちの複雑な想いの中で、ノアは少女の懐中時計を手に取ります。
村長の家は、他の建物より少しだけ大きい。
シオンが教えてくれる。
石造りの壁、木の扉、分厚い布のカーテン。
でも足を踏み入れた瞬間、僕が一番最初に感じたのは——理の糸の、異様な絡まり方。
この部屋の中にあるもの全部——テーブルも、椅子も、壁にかかった布も——時間の糸が複雑に結ばれて、がんじがらめになっている。
外よりもずっと密度が濃い。一年分の「動けなかった時間」が、この部屋に詰まっている。
「ようこそ、旅のお方。……このような有様の村に、よくいらしてくださった」
低い、疲労の染みた声。
村長だと、すぐに分かる。
「村長さんですか? 突然お邪魔してすみません。旅の者で……ミーナさんという女の子に案内してもらって」
「ああ、ミーナか。あの子は相変わらず元気だ。……ご覧の通り、この村は難儀な状態でしてね。特異点調査の方々をお待ちしていたのですが、なかなか来ていただけなくて」
村長の声に、諦めに近い疲弊がにじんでいる。
「……食べ物もまともに作れんのです。火は——かろうじて熾せるのですが、食材に熱が通らない。パンを焼こうにも石のまま。種を蒔いても芽が出ない。時間が絡まって、すべてが一年前のまま、動けなくなっておるのです」
「時間が絡まって——」
「そうです。あなたは、ご存知なんですね」
「少しだけ」
僕は少し考える。
この村全体の糸を一気にほどくのは、今はまだ危ない。絡まり方の全容が見えていない。
でも——小さなものなら。
「ミーナさん」
「なぁに?」
「さっき言ってた、お母さんの時計。見せてもらえますか?」
ミーナの足音がぱたぱたと近づいてきて、何かが僕の掌に乗る。
小さい。
丸い、金属の懐中時計。
まだ子供の手に合うほど小さくて、でもずしりとした重み。
指先で蓋の表面をなぞると、細かな花の彫刻が施してある。
丁寧な仕事だ。安物じゃない。誰かがこの子のために、心を込めて選んだものだ。
「……すごくきれいな時計ですね」
「でしょ? ママが、あたしの七つの誕生日にくれたの。——でも、ずっと動かないんだ」
指先を時計の内部に向けて、理の糸に触れる。
——ああ、なるほど。
時計の中の糸が、周囲の特異点の影響を受けて、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
歯車を動かすための糸、ゼンマイの張力を伝える糸、針を進めるための糸。
それが全部、互いに結ばれて固まっている。
でもこれは——この時計一個分なら、ほどける。
「シオン、この時計の糸だけ、ほどいてみてもいいですか」
「……全体の特異点には触れないのね?」
「はい。この時計一個だけ。小さな試しです」
シオンが少しだけ沈黙する。
「……危険はないと思うけど。念のため、糸の反動に気をつけて。絡まりが解けた瞬間に、周囲に波及しないように」
「分かりました」
僕は時計を両手で包み込む。
理の糸に触れる。
絡まった糸を、一本ずつ。
丁寧に、丁寧に、解していく。
引っ張るのではなく、指先で撫でるように。
ゼンマイの糸と歯車の糸を分けて、針を進める糸だけを——そっと、本来の方向へ滑らせる。
数秒もかからない。
——ちっ。
小さな音がした。
それから——。
ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。
時を刻む音。
一年間沈黙していた小さな機械が、僕の掌の中で、息を吹き返す。
「……!」
ミーナが、息を呑む気配。
「動いてる……!」
村長も立ち上がる。椅子が鳴る音。
「そんな……! どうやって……!」
「うごいてる……うごいてるよ……!」
ミーナの声が、震えている。
泣いているわけじゃない。
でも、声の奥に、とても深い何かが揺れている。
「ママの時計が、動いてる……」
小さな手が、僕の掌の上の時計を受け取る。
ぎゅっと胸に抱きしめる気配。
「ありがとう。ありがとう、ノアお兄ちゃん……!」
僕は少しだけ笑う。
「ミーナさんの大切なもの、ちゃんと動いてよかったです」
「シオン、におい変わりましたか?」
「……ええ」
シオンの声が、いつもより少し柔らかい。
「この時計の周りだけ、空気が動いてる。微かにだけど——時間が流れ始めてる」
村長が、震える息を吐く。
「こんな……こんなことが……!」
「村長さん、これは時計一つだけです。村全体の時間の絡まりをほどくのは、もう少し時間がかかります。でも——できないことはないと思います」
「お若い方……あなたは、いったい——」
「ただの旅人ですよ。通りすがりの」
ミーナが、時計を胸に抱えたまま、扉の向こうへ走っていく気配がした。
「みんな聞いて! あたしの時計が動いたよ! ノアお兄ちゃんが直してくれた!」
村の奥から、複数の足音が近づいてくる。
でも——足音に混じったその「響き」に、足が止まる。
さっき、村の入り口でかすかに鼓膜を掠めたあの不穏な囁きが、また聞こえたのだ。
今度は、さっきよりもさらに近く、生々しく、はっきりと。
「……時が動いたら、管理官に報告されるぞ」 「契約がどうなるか……ボーデンさんが黙っちゃいないだろ」 「だから余計なことをするなと言ったんだ……!」
誰かが慌てて他の誰かを制する声。
僕の耳には、全部聞こえていた。
——ボーデン。
その名前を、僕はそっと記憶の中に留める。
その夜。
村長の家に泊めてもらいながら、僕は天井を向いたまま、この村の特異点のことを考えていた。
時計塔。
村の中心にある時計塔の最上部に、絡まりの核がある。
一年前、ここで何かが起きた。
あるいは、何かが持ち込まれた。
その「何か」が糸をぐちゃぐちゃに絡ませて、この村の時間を縛りつけた。
——そして、村人たちの何人かは、それを「直されたくない」と思っている。
「シオン、起きてますか?」
「……起きてるわよ。なに」
「あの絡まり、ほどけると思いますか」
「ほどけるわよ。あなたの糸さばきなら」
「でも、また危ないことになりませんか」
「……それは、絡まりの核を見てから判断しましょう」
シオンが、ごろりと寝返りを打つ気配。
「今日のミーナの顔、見たかった?」
「見たかったです」
「そう。……すごくいい顔してたわよ」
「シオンも嬉しそうでしたよね? 時計が動いた瞬間、声が柔らかくなってましたよ」
「……寝なさい、ノア」
「はい。……おやすみなさい、シオン」
返事はなかった。
でも毛布の向こうから、猫が喉を鳴らすような、小さな温かい音。
止まった夕陽の中で、ノアはゆっくりと目を閉じる。
——明日、時計塔へ行く。
——そして、この村の人たちが怯えている「何か」の正体も、きっと分かる。
時計は動き出しました。でも、「時間を直されたら困る」という不穏な声も聞こえてきて——。




