王都の街道で、僕たちはすれ違った。——「四人分の食材」を買ってしまった勇者
蒼滝の事件を追う勇者ルークたち。その道中、南へ向かう勇者と、北へ向かうノアが、気づかないまますれ違います。
噂は、南から来た。
最初に報せを持ってきたのは、リタニア国境を越えてきた行商人だった。
「蒼滝の逆樹海に、おかしなものができた」と、彼は震える声で語った。
森の一角が、丸ごと、透明な氷に閉じ込められているのだと。
色のない氷だ。
琥珀でも、青でも、白でもない。
あまりにも透明で、あまりにも澄んでいて、触れるまで「そこに何もない」と錯覚させる。
でも触れれば分かる。
ダイヤモンドよりも硬い、気の遠くなるほど巨大な「壁」がある。
その中に何かが閉じ込められているのだが——見えない。
透明すぎて、見えない。
「特異点の新種ではないか」「魔王の眷属が動いているのではないか」「星の綻びがまた開いたのか」——。
噂は瞬く間に広がり、王都へ届き、そして王の耳へと入った。
「——以上が、現地調査団の報告書の概要です」
王の間に、書記官の声が響く。
ルークは玉座から一段下がった場所で、直立したまま報告を聞いていた。
隣にガルド。
その向こうにセシリア。
三人。
三人、だった。
「特異点か」
国王が、重い声で呟いた。
「魔王亡き今でも、世界の綻びは消えていないということだ。——勇者ルーク」
「はい」
「蒼滝の逆樹海へ向かえ。例の永久凍土の正体を暴き、必要であれば対処せよ。王命だ」
「……承知しました」
ルークは頭を垂れた。
傍らで、ガルドが鼻から静かに息を吐く気配。
セシリアは何も言わなかった。
三人は揃って一礼し、王の間を辞した。
廊下に出た途端、ガルドが大きく伸びをした。
「久しぶりに三人揃ったな。セシリア姫が教団の用事から抜け出せるとは思わんかったぞ」
「……特異点の報告書に、聖女の立場から所見を述べる義務があるとかなんとか、それらしい理由をつけたわ」
セシリアが静かに言った。
「要するに無理矢理来た、ということですね」
「そう言える可能性は否定しないわ」
ルークは少しだけ笑った。
久しぶりだった。
三人で顔を合わせるのも。
こうして他愛ない言葉を交わすのも。
「例の、透明な氷か……」
ガルドが低い声で呟いた。
「現地から戻った魔術師たちの証言を読んだ。あれは——普通じゃない。特異点でも、魔王の遺産でもない気がする」
「私もそう思う」
セシリアが静かに言う。
「あの氷に組み込まれた術式の記述が、報告書に少しだけ残っていたの。冷気の構造、振動の停止、糸を結ぶ手順……。私たちが旅している間、何度か見た、あの『調律』と——」
彼女はそこで、言葉を切った。
その続きを、三人とも知っていた。
言えなかった。
なぜか言えないのだ。
のどの奥まで来るのに、言葉にならない。
名前のない「それ」は、いつも三人のすぐそこにある。
「……とにかく」
ルークが前を向いた。
「行けばわかる。行ってみなければ、何も始まらない」
廊下の先、大きな窓の向こうに、曇り空が広がっていた。
北の方角。
蒼滝のある、あの樹海の方角。
ルークは無意識に、左後ろを振り向いた。
そこには誰もいない。
ただ、冷たい石の廊下と、吹き込む秋の風。
それなのに——。
「……行こう」
ルークは、その空白から目を離し、前へと歩き出した。
翌朝、三人は王都を発った。
ガルドが荷物を担ぐ。
「なあ、ルーク。今日の昼飯,何にするか決めてるか?」
「決めてない。ガルドが食いたいやつでいい」
「じゃあシチューにするか。野営にしては豪勢だが——」
ガルドが一瞬、言葉を止めた。
何かを考えるような間。
「……豆と芋と、根菜たっぷりのやつ。身体が温まる」
「ガルドの料理はいつも美味しいから、どれでも嬉しいわ」
セシリアが静かに微笑む。
ガルドはその言葉に少しだけ口元を緩め、でも何も言わずに視線を道の先へ向けた。
シチューに入れる材料を頭の中で数えていた。
芋。
人参。
豆。
肉のかたまり。
それから、食べやすいよう細かく刻んだ分の皿。
——四人分。
「……おい、計算間違えた。ちょっと買い足してくる」
「何を?」
「食材だ。戻る」
ガルドは踵を返し、市場の方へと歩いていった。
ルークとセシリアは顔を見合わせた。
「……また多く作るつもりだな、あいつ」
「……ええ」
「食べきれないって、毎回分かってるはずなのに」
「……分かってるんでしょうけれど」
セシリアが空を見上げた。
雲の隙間から、弱い秋の日差しが差し込んでいる。
「やめられないのよ、たぶん。——ルーク、あなたも」
「俺も?」
「また振り返ったわ。さっき、廊下で。……何を探してるの?」
ルークは少しだけ黙った。
「分からない。……でも、何かが足りない感じが、ずっと消えないんだ」
旗が風に揺れる音。
馬車の蹄の音。
行き交う人の声。
その中で、ルークの左後ろには、ずっと、誰もいなかった。
——誰かがいるはずの空間が、永遠に空っぽのまま、そこだけぽかりと空いていた。
「……行けば、分かるのかな」
ルークが呟く。
「分からないわ」
セシリアが正直に答えた。
「でも、行かなければ何も始まらない。あなたが言ったんでしょう」
「……そうだな」
ガルドが戻ってきた。
袋の中に、食材がずっしりと入っている。
「待たせたな。——行くぞ」
三人は、北へ向かう街道へと歩き出した。
手配書一枚。王命一つ。
そして、誰も名前を知らない「何か」を探すように、胸に空白を抱えながら。
その頃、同じ街道の向こうから。
別の旅人が、南へ向かっていた。
蒼滝の逆樹海を出てから三日。
白い髪の少年は、黒髪の女性の手に引かれながら、中央の大街道を北へと歩いていた。
南の樹海から、北の琥珀氷の村へ。
大陸を縦断するように、王都の外れをぐるりと迂回しながら。
「シオン、なんだか人が多くなってきましたねぇ」
「王都の外縁よ。人が多いのは当然。……ぶつかるから、ちゃんと私の腕に掴まって歩きなさい」
「はい。……あ、焼き栗の匂いがします」
「後で買ってあげるから、今は集中して」
北へ向かうノアたちと。
南へ向かうルークたち。
王都外縁の大街道で、二組の旅人はすれ違った。
ルークの外套の端がノアのローブを掠める、ほんの一瞬だったかもしれない。
あるいは、向かいから来る人波の中に紛れて、気づきすらしなかったかもしれない。
相手の顔が見えない。
相手の顔を覚えていない。
ただ、ルークが無意識に立ち止まり、後ろを振り返った。
人混みだ。大勢の旅人が行き交う、秋の街道。
「……ルーク? どうしたの」
「いや……なんでもない」
彼は首を振って、南への道を歩き出した。
ノアは、後ろで誰かが立ち止まったことを知らない。
風の向きで、ほんの一瞬だけ、焼き栗とは違う甘い匂いがした気がして——。
「シオン、さっき変な匂いがしませんでした? 甘い感じの」
「街中よ。いくらでも匂うわ」
「そうですね。……えへへ、早く焼き栗食べたいです」
「食べたいならさっさと歩く」
二組は互いに背を向けて、それぞれの目的地へと遠ざかっていった。
南と北に、大陸を二分するように。
ガルドは四人分の食材を抱え、ルークは誰もいない左後ろを振り返る。次回、永久に夕陽が沈まない特異点へ。




