聖剣の重さと、魂の葛藤
セトの調律を終え、砂漠に音が戻った束の間の安息——しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎませんでした。
軟禁を破り追いかけてきた勇者ルークたちが、ついにノアの前に立ちはだかります。
砂漠に音が戻って、どれくらい経っただろう。
僕はまだ砂の上に座り込んでいた。調律の反動で体が鉛のように重い。指先の感覚が遠くて、立ち上がるのにフクの背中を借りなければならなかったほどだ。
レオンたちが周囲を警戒してくれている。アルヴァが風の匂いを読み、ガルダやバラムが砂丘の向こうに目を光らせている。
穏やかだった。
セトが還した音が、砂漠いっぱいに広がっている。風の歌。砂の囁き。遠い空の向こうで、鳥が鳴いている。
「ノア。体は動く?」
シオンが肩の上から、静かに訊いた。
「はい……少しだけ、足が痺れてますけど」
「そう。——なら、歩ける?」
不思議な訊き方だった。「大丈夫?」ではなく「歩ける?」。
まるで——これから、歩かなければならない何かが迫っていると、言わんばかりに。
「シオン?」
「……来るわ」
シオンの声が、低く沈んだ。
「北東。砂丘三つ向こう。複数の足音——人間の」
僕の全身を、冷たいものが走り抜けた。
理の糸に意識を向ける。脳に負荷がかかる。視界のない世界に、糸の振動だけが広がる。
遠い。けれど確かに——複数の人間が、こちらに向かって走っている。
その先頭にいる糸が、まばゆいほどに輝いていた。
金色の光。太陽を飲み込んだような、まっすぐで、熱くて、けれどどこか痛々しい光。
そして——その光の中心に、とてつもなく重い一本の糸が脈打っている。
聖剣の糸。
世界の理そのものが結晶化したような、白く灼熱の糸。
「……ルーク」
名前が、勝手に唇からこぼれた。
「お師匠? ルークって——」
「フク。みんなの後ろに下がって」
「えっ、でも——」
「お願い」
僕は立ち上がった。足が震えている。調律の反動がまだ残っている。けれど——立たなければならない。
「レオン、みなさん。少し下がってください」
「はあ? なんでだよ、ノア様——」
「勇者が来ます」
その一言で、空気が凍った。
「——あのクレオに軟禁されてたはずの連中が、どうやって抜け出しやがった」
レオンが低く唸った。
「抜け出したんじゃない。おそらく——力ずくで突破した」
アルヴァが冷静に言った。
「クレオ殿の結界は、中にいる者の意志では破れない。だが勇者の聖剣は——世界の理そのものを切り裂く。あの剣なら、結界ごと斬れる」
「冗談だろ……」
「レオン。お願いです。ここは僕に——」
「ダメだ」
レオンが、僕の前に立ちはだかった。
「アイツらが何者か知らねえが、ノア様に剣を向けるなら——俺が焼く」
「レオン」
「——レオン」
シオンの声が、鋭く割り込んだ。
「下がりなさい。あなたの炎は、あの聖剣の前では紙と同じよ。無駄死にする気?」
レオンの歯が軋む音が聞こえた。悔しさと怒りが、彼の全身の糸をびりびりと震わせている。
「……くそっ」
「レオン。ありがとう」
僕は、できるだけ穏やかな声で言った。
「でも、大丈夫です。あの人たちは——悪い人じゃないんです」
嘘じゃない。本当にそう思っている。
ルークは悪い人間じゃない。ガルドも、セシリアも、クラウスも。
ただ——世界が、僕たちを敵同士にしてしまっただけだ。
*
砂丘の向こうから、足音が近づいてくる。
砂を蹴る、力強い靴音。金属の鎧が擦れ合う音。荒い呼吸。そして——聖剣が振動する、低い唸り。
砂丘の頂を、影が越えた。
糸が教えてくれる。
先頭に立つ金色の糸——ルーク・アシュクロフト。その体から溢れる聖なるマナが、砂漠の夜気を焦がすように震えている。
その左後ろに、巨大な盾の糸。ガルド・アイゼン。世界そのものが肯定した不破壊の盾が、低く重い振動を放っている。
右後ろに、清浄な祈りの糸。セシリア・フローレンス。パイプオルガンのように重層的な神聖魔法の波動が、静かに張り詰めている。
そして——少し離れた位置に、一つだけ異質な糸。
飄々として掴みどころのない、けれど底知れなく深い糸。数千年の時間を蓄えた、古い古い糸。
クラウス・ローゼンハイム。
僕はクラウスさんの正体を知らない。知っているのは——あの人の糸だけが、他の三人とまるで違う色をしているということ。人間の糸なのに、どこか人間じゃないような。古すぎて、深すぎて、哀しすぎる糸。
「止まれ!」
レオンが吠えた。
勇者たちの足音が——止まった。
砂漠の風が、両者の間を吹き抜けていく。
十歩。それが、僕とルークの距離だった。
「…………」
沈黙が、重い。
セトの調律で取り戻したはずの砂漠の音が、ここだけ凍りついたように感じる。
「……また、お前なんだな、ノア」
ルークの声が、聞こえた。
低い。震えている。怒りなのか、苦しみなのか、それとも——もっと別の、名前のつかない感情なのか。
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸が——ぎゅっと、締めつけられた。
魔王。
この世界が僕につけた名前。ルークが、それを何度も僕に確認し、そして拒絶しようとしながらも、向き合ってきた名前。
「はい。ノアです」
僕は、できるだけ普通の声で答えた。
「魔王かどうかは分かりませんけど——ノアです」
「……ふざけるな」
ルークの声が、かすかに裂けた。
「ふざけるな……! ドール・ガリアの街で俺の前に現れた時も、黄金の部屋で語り合った時も、お前はいつもそうやって……! お前が魔王だということは、もう何度も、嫌というほど突きつけられているんだ! それなのに——なぜ、砂漠の特異点まで暴走させて災厄をもたらす!」
「それは違います。セトさんは——」
「黙れ」
聖剣が、鳴った。
鞘から引き抜かれる音ではない。ルークの手の中で、刃が震えたのだ。世界の理そのものが結晶化した白い刃——それが、まるで泣いているかのように、高く澄んだ振動を放つ。
同時に、レオンたちの殺気が爆発した。
「聖剣を抜きやがったな……!」
「レオン、待って——」
「ノア殿を守れ!」
アルヴァの号令が飛ぶ。獣人たちが一斉に動く。レオンの炎がぶわりと燃え上がり、ガルダが大地を踏み鳴らし、アイラが宙に跳んだ。
けれど——ガルドが、一歩前に出た。
たった一歩。それだけで、獣人たちの動きが止まった。
不破壊の大盾が地面に突き立てられる。ずん、と大地が揺れる。その一撃に込められた圧は、明確な「警告」だった。
ここから先は通さない——と。
「ガルド」
ルークが、静かに言った。
「構わない。前に出ろ」
「…………」
ガルドが動かない。
彼の糸が——奇妙に揺れている。怒りでも恐怖でもない。困惑。いや——葛藤。
僕の存在に触れて、ガルドの魂が何かを訴えている。記憶にはない。けれど体が覚えている。かつてこの少年の魔術だけが、魔術を弾く自分の肉体を癒してくれたという——失われた記憶の残滓が。
「ガルド。命令だ」
「……ああ」
ガルドが盾を持ち上げた。けれどその動作は——明らかに、遅い。
「ルーク。一つだけ訊いていいか」
ガルドの声が、低く響いた。
「なんだ」
「こいつの魔力——俺たちが追ってきた『魔王の痕跡』と、同じ匂いがするか?」
ルークが、息を呑んだ。
その沈黙が——僕には、とても長く感じた。
「……同じだ」
ルークの声が、掠れていた。
「同じだよ。あの——クソみたいに優しくて、温かくて、触れるだけで泣きたくなるような——あの魔力と、完全に同じだ」
最後の言葉は、もう怒りの形を保っていなかった。
壊れかけた少年の、魂の悲鳴だった。
「なんでだよ……」
ルークが、一歩踏み出した。
「なんでお前の魔力は、こんなに優しいんだ——!」
聖剣が——振り上げられた。
白い光が、砂漠の闇を切り裂く。僕の理の糸が、その白刃の軌道を克明に捉えている。
「ノア、右に——!」
シオンが叫んだ。
フクが弾けるように飛び出そうとし、ドスンさんが盾を展開しようとした。レオンの咆哮が空気を震わせた。
けれど——僕は、動かなかった。
動けなかったんじゃない。動かなかった。
ルークの聖剣が僕を斬ることはない——と、理の糸が教えてくれていたから。
剣が、止まった。
僕の首筋から三寸の距離で。白い刃が震え、風を巻き起こし、僕の前髪をさらりと揺らした。
止まった。
切れなかったのではない。切らなかったのでもない。
聖剣が——重くなったのだ。
「……な、んで……」
ルークの声が、途切れた。
「重い……聖剣が、重い……! なんでだ,クラウス——!」
「……ルーク君」
クラウスの声が、静かに響いた。飄々としているはずのその声が——ほんの僅かに、震えていた。
「聖剣アスカロンは、持ち主の精神が『正しい理』から外れると重くなる。君も知っているだろう?」
「俺が……間違ってるって言うのか……!」
「私が言っているんじゃないよ。剣が言っているんだ」
ルークの全身が震えている。理の糸を通じて、その震えが僕の肌に伝わってくる。
怒りじゃない。
絶望だ。
自分の中の「勇者」と、自分の中の「何か」が、引き裂かれるような痛み。魔王を討つことが使命だと頭では分かっている。けれど魂が、この少年の魔力に触れるたびに——泣きたくなるほど懐かしい何かを叫んでいる。
「どけよ、聖剣……こいつは、魔王だ……世界を滅ぼす災厄だ……俺が討たなきゃ……」
ルークの声が、もう言葉の形を保てなくなっていた。
僕の目から——涙が、零れた。
止められなかった。
ルークが苦しんでいる。僕のせいで。僕がいるから。僕の糸が——ルークの魂を、こんなにも苦しめている。
「……ごめんね」
僕は、小さく言った。
「ごめんなさい、ルーク」
「謝るな……! お前が謝るな……! なんでお前は……なんで——」
お読みいただき、ありがとうございます!
セトの調律を終え、砂漠に音が戻った束の間の穏やかさに、ついに勇者ルークたちが到着しました。
ドール・ガリアや黄金の部屋で言葉を交わし、魔王としての存在をすでに何度も確認してきたルーク。しかし、ノアのあまりにも優しく温かい魔力を前にして、ルークの魂は激しい自己矛盾と葛藤に引き裂かれます。
その結果、聖剣アスカロンが「正しさ」から外れて重くなってしまうという形で、ルーク自身の「使命」が揺らぎ始めます。
次回、この一触即発の戦場に、帝国の影に潜む「泥の匂いの男」が乱入し、三つ巴の戦いが始まります!
次回もお楽しみに!
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