声なきレクイエムと、不穏な影
セトの記憶の最深部でクレオとの黄金の思い出を見たノア。しかし、黄金の都の崩壊の陰には、信じられない「不穏な影」が存在していました。
そして、セトの本当の願いに応える「声なきレクイエム」が響き渡ります。
記憶が、変わった。
温かい黄金の色彩が——じわりと、濁っていく。
市場の笑い声が減った。夜道に、かつてはなかった不穏な足音が混じるようになった。井戸の水が、少しずつ枯れていく。国境の向こうから、重い鎧の音が近づいてくる。
セトの記憶が、崩壊の始まりを映し出していた。
外からの侵略者。隣国の軍勢が、黄金の都の富を奪おうと押し寄せてきた——セトはそう記憶していた。
けれど、その記憶の片隅に。
奇妙な男が、いた。
セトの記憶の中では背景に溶け込むようにして、目立たぬ位置に立っている男。侵略者の軍勢に紛れ込んでいた——いや、軍勢を導くようにして、都の門のそばに佇んでいた人影。
その男がセトに何かを囁いた記憶は、もう曖昧になっている。数千年の歳月と狂気が、細部を磨り減らしてしまっている。
けれど——匂いだけは、はっきりと残っていた。
泥のような、黒い、澱んだ匂い。
人間の匂いではない。生き物の匂いですらない。
まるで——世界の理そのものが腐って溶け出したような、嫌な匂い。
その男がセトに近づいた日から、都の音が少しずつ歪み始めた。笑い声が悲鳴に変わり、歌が叫びに変わり、やがて——セトの中で何かが壊れた。
音を消さなければ。
音が聞こえるから、悲鳴が聞こえる。
悲鳴が聞こえるから、心が壊れる。
だから——全部、消してしまえ。
それがセトを狂わせた「無音の毒」の、最初の一滴だった。
僕の意識が、記憶の奔流から引き剥がされた。
現実に戻る。フクの背中の温もり。シオンの小さな体重が右肩にある。ドスンさんの金属の盾が、まだ前方に構えられている。
硝子のピラミッドの中。嵐は止んだままだ。
セトの怒りは——もう、燃えていない。最後の矢が、何重もの心の壁をすべて貫いて、一番奥にあった記憶を解き放ってしまったのだ。
「ノア」
シオンの声が、強張っていた。
普段のシオンの声ではなかった。鋭い警戒でも、柔らかい気遣いでもない。声が——震えていた。
「どうしたの、シオン」
「……あの記憶。あなたの矢がセトの心を開いた時、私にも流れてきたわ」
シオンは僕と命のパスで繋がっている。僕に流れ込む感覚は、シオンにも伝わる。ただし僕が感情や匂いや音で受け取るものを、シオンは——映像として視ることができる。
「クレオとの思い出も、その後の崩壊も。全部視えた」
「……うん」
「でも、最後の——セトを狂わせた男の記憶。あの男の顔を、私は視たわ」
シオンの声が、さらに低くなった。
「ノア。あの男——おかしいのよ」
「おかしい?」
「数千年前の記憶の中の男の顔が——私には、はっきり視えた」
シオンの爪が、僕の肩に食い込んだ。小さな猫の体が、かすかに震えている。
「嘘でしょう……なんで、こんな……」
「シオン、落ち着いて。何が視えたの」
「——あの男。覚えてる? ここに来る前に、帝国の調査隊とすれ違ったでしょう。メビウスの後ろにずらりと並んでいた、あの隊列の中に」
僕の背筋を、冷たいものが走った。
覚えている。
帝国のメビウス調査軍と遭遇した時——あの薬品と消毒液の匂いに混じって、一人だけ、異質な気配の人間がいた。
理の糸を感知する僕の感覚が、その時はっきりと違和感を拾っていた。帝国の兵士たちの糸は、良くも悪くも「人間」の色をしていた。荒々しかったり、冷たかったり、怯えていたり——けれど全員が、人間の糸だった。
ただ一人を除いて。
隊列の端に、一人だけ。まるで影法師のように存在感を消して立っていた男の糸は——泥のように黒く、澱み、腐っていた。人間の糸ではなかった。生き物の糸ですらなかった。
あの時は、戦場の緊張の中で気に留める余裕がなかった。帝国の魔導実験の被験者か何かだろうと——深く考えなかった。
けれど。
「その男の顔が——数千年前のセトの記憶の中にいた男の顔と、同じだった」
シオンの声が、囁くように言った。
「完全に、同じ顔よ。ノア」
心臓が、一度だけ強く打った。
同じ匂い。同じ泥のような澱み。——そして、同じ顔。
数千年前に古代の王を狂わせ、黄金の都を滅ぼした男が——現代の帝国の調査隊に、何食わぬ顔で紛れ込んでいた。
「……人間じゃ、ない」
僕の唇から、その言葉が零れた。
「人間の寿命では、ありえない。数千年前と同じ顔——同じ存在が、今もこの世界にいる」
「ええ」
シオンの声は、もう震えてはいなかった。怒りに変わっていた。低く、冷たく、けれど制御された怒り。
「セトを狂わせたのは——偶然の狂気じゃない。あの男が、意図的にセトに『無音の毒』を植え付けた。そしてそいつは今も、帝国の影に潜んで——」
「——シオン」
僕はシオンの言葉を遮った。
今はまだ、その先を追うべき時じゃない。
「後で。必ず、後で考えましょう。——今は、セトさんを」
「……ええ。そうね」
シオンは深く息を吐いた。
「先に、目の前のこの子を救いなさい」
僕は頷いて、フクの背からゆっくりと降りた。
硝子の床に、裸足の足が触れる。冷たい。けれどもう、敵意のある冷たさではなかった。
セトは——そこにいた。
嵐を失い、怒りを失い、何重もの壁をすべて剥がされて——裸の魂のまま、硝子の床にうずくまっている。
その糸に触れた。
孤独で、冷たくて、けれどもう凍りついてはいない糸。三射の光の矢が少しずつ溶かし、四射目が最後の氷を砕いた——けれどまだ、完全には調律されていない。
糸を、弾いた。
指先で。そっと。楽器の弦を鳴らすように。
リンッ——。
音が、広がった。
それは言葉ではなかった。旋律ですらなかった。ただ一音——正しい振動が、セトの魂に染み渡っていく。
声なきレクイエム。
僕の光の糸が、セトの冷たい糸に絡みつき、優しく包み込んでいく。凍りついた因果を解きほぐし、歪んだ結び目をひとつずつ、丁寧にほどいていく。
セトの魂が——震えた。
——……ああ。
声が聞こえた。セトの声。もう怒りも憎しみもない、裸のままの声。
——この音。
——この音じゃ。
——妾が……聞きたかったのは……。
「聞こえますか、セトさん」
——……聞こえる。
セトの声が、小さく笑った。
——温かい。
——お前の音は……市場の子どもたちの笑い声に、似ておる。
僕の目から、涙が零れた。
止まらなかった。止める気もなかった。
「セトさん。あなたの都の音は——消えてなんかいませんでしたよ」
——……。
「あなたの心の一番奥に、ずっと残っていました。クレオさんの声も。子どもたちの笑い声も。パンの焼ける匂いも。噴水の音も。——全部、全部。あなたが大切に守っていたんです」
——……そうか。
セトの糸が、ゆっくりとほどけていく。
冷たかった糸に、温もりが戻っていく。
——クレオ。
セトが、誰かの名前を呼んだ。
——すまぬ……妾は、お前の言う通り、ずっとこうしていることが……できなかった。
その声は、もう王の威厳も、古代の重みもなかった。ただの——大切な人に謝りたい、一人の子どものような声だった。
——けれど。
セトの糸が、最後に一度だけ、強く震えた。
——この少年の音を聴いて……思い出した。妾はかつて、この音の中で生きておったのだな。
光が、溢れた。
セトの魂から。冷たい硝子で覆われていたすべてが——温かい光に変わって、ゆっくりと空へ昇っていく。
レクイエムが、響いている。
僕が奏でたのではない。セトの魂そのものが——最後に、自分自身の音を取り戻して、歌っている。
無音の世界に、音が戻る。
硝子の壁が、天井が、床が——サラサラと崩れて、黄金色の砂に変わっていく。冷たい硝子ではなく、太陽に温められた、あの記憶の中の砂。
「きれいッス……」
フクが、呆然と呟いた。
きゅるるる……。
ドスンさんのランプが、青に変わった。
「……ええ」
シオンの声が、静かに言った。
「きれいね」
崩れていくピラミッドの中心で、セトの魂が光になって昇っていく。
その光が——ほんの一瞬だけ、僕の頬に触れた。
温かかった。
子どもの手のような、小さくて、砂まみれで、けれど世界で一番優しい温もり。
——ありがとう。調律師よ。
——妾の最後の音を、聞いてくれて。
セトの声が、消えた。
光が、空に溶けた。
ピラミッドは——もう、どこにもなかった。
代わりに、僕たちの頭上には砂漠の空が広がっていて、星の光が降り注いでいた。足元の砂は、温かかった。
無音の世界は——終わった。
風の音が聞こえる。砂が擦れ合う音。フクの尻尾が揺れる音。ドスンさんの関節がきゅるりと鳴る音。そして——シオンの小さな呼吸の音。
世界が、音を取り戻していた。
「——おい! ノア、無事か!?」
砂丘の向こうから、聞き慣れた、少し焦ったような大声が響いた。
レオンだ。
砂丘の砂を派手に蹴立てながら、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。その背後には、アルヴァたち獣人二世たちの姿もある。
「みなさん!」
「急にピラミッドが黄金の砂になって崩れ落ちたから、心臓が止まるかと思ったぞ……!」
レオンが僕の目の前で足を止め、大きく肩で息をしながら言った。
「ゴーレムたちも、無音の結界が消えた瞬間に全部砂に還りやがった。これで終わりなんだな?」
「はい。セトさんは……旅立ちました。砂漠に、音が戻りましたよ」
アルヴァが静かに周囲を見渡した。
「ああ。風が鳴いているな。……いい音だ」
みんな怪我はないようで、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「……おやすみなさい、セトさん」
僕は、空を見上げた。
見えはしない。けれど——理の糸が教えてくれる。空の高い場所で、ひとつだけ、とても澄んだ音を奏でている星があることを。
きっとそれが——セトだ。
「お師匠……泣いてるッスか?」
「泣いてますよ」
今度は、嘘をつかなかった。
「泣いてます。——嬉しくて」
フクの毛皮に顔を埋めた。温かい。太陽の匂いがする。
シオンの尻尾が、僕の首筋をそっと撫でた。
何も言わなかった。
何も言わなくて、よかった。
ただ——その尻尾の先だけが、かすかに震えていた。
砂の上に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
調律の反動で体が重い。指先の感覚が薄い。光の糸を紡ぎすぎた時の、いつもの代償。
けれど——心は、穏やかだった。
「ノア」
シオンの声が、少しだけ硬さを取り戻して言った。
「さっきの話——セトの記憶の中にいた男のこと」
「……うん」
「覚えておきなさい。あの顔。あの匂い。——帝国の影に、何かがいる」
「……はい」
数千年前の古代の王を狂わせた存在が、今もこの世界のどこかで、人間の皮を被って動いている。
それが何者なのか——僕にはまだ分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
セトを狂わせた「無音の毒」は、自然に生まれたものではなかった。誰かが——何かが、意図的にセトの心に毒を注ぎ込み、黄金の都を滅ぼし、この砂漠を特異点に変えた。
偶然ではなく、悪意。
そしてその悪意は——今も、どこかで息をしている。
「……怖いね」
「何を今さら。この旅は最初から怖いことだらけでしょう」
シオンの声に、少しだけ笑いが混じった。
「でも——あなたが怖がってる顔、久しぶりに見たわ」
「……見えないでしょ、シオンには」
「声で分かるのよ。あなたの声は、嘘がつけないんだから」
フクが、僕の膝に頭を乗せてきた。
「お師匠。俺がいるッスよ。何が来たって、俺とドスンさんが守るッス」
きゅるるっ。
ドスンさんのランプが、力強く青く光った。
「……ありがとう、みんな」
僕は涙の跡を袖で拭って、ゆっくりと立ち上がった。
砂漠の風が、温かく吹いていた。
もう無音ではない。風の歌が、遠くの砂丘を越えて、どこまでも広がっていく。
セトが守りたかった音が——世界に、還った。
お読みいただき、ありがとうございます!
黄金の都の崩壊の陰にいたのは、帝国の調査隊にも紛れ込んでいた、数千年の時を超える「不穏な影」——悪魔の存在を暗示する男でした。
不穏な未来を予感させつつも、ノアの「声なきレクイエム」によってセトはかつての黄金の音色を思い出し、安らかに昇天しました。
ピラミッドが黄金の砂へと還り、砂漠に音が戻った今、ノアたちは再び旅路を進めます。
砂漠編のクライマックス、そして物語は次の局面に進んでいきます。
次回もお楽しみに!
【☆作者からのお願い☆】
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