最後の一射、黄金の記憶
ついにセトとの戦いも佳境を迎えます。
最後の一射が、セトの心の最も深い場所に届きます。何重もの壁に守られていたその奥に眠っていたのは——失われた黄金の日々の記憶でした。
聞かせてあげなさい。セトが本当に聞きたかった音を。
シオンの言葉が、まだ耳の奥で震えている。
僕は光の弓を構えた。
両腕の中で弓が脈動している。これまでの三射とは比べものにならない量の理の糸を束ね、一本の弦に編み込んだ——僕の魂から染み出す、ありったけの光。
「フク、止まって」
「……わかったッス」
フクが静かに足を止めた。
逃げながら撃つのではない。今度は——立ち止まって、まっすぐにセトへ向かって放つ。
ドスンさんが察したように、僕の前方に分厚い盾を構えた。けれど左右と背後は開けたまま。防御を最小限にして、射線だけを確保する。ドスンさんなりの信頼の形だった。
きゅる。
小さなランプの音。大丈夫だ、信じている——と、そう言ってくれているような。
「シオン」
「……正面。まっすぐ。距離十二歩」
シオンの声が、いつもより静かだった。
「遮るものは——もう、何もないわ」
セトの怒りが、正面から叩きつけられてくる。無音の嵐。硝子の刃。空間を引き裂く、凍りついた悲鳴の残響。
けれど、不思議と怖くなかった。
三射を通じて、僕はもうセトの声を聞いている。子どもたちの温かい手。守れなかった怒り。音を消すことでしか民を守れなかった、あの祈り。
その奥に、まだ何かがある。
何重もの壁の向こうに——セトが一番大切にしていた、最後の記憶が。
「——放ちます」
弦を, 引いた。
理の糸が極限まで張り詰める。光が指先で凝縮し、一本の矢になる。これまでの三本の矢が温かい陽だまりだとすれば、この最後の一射は——朝焼けだ。夜明けの光。長い長い暗闘の夜を終わらせるための、最初の光。
放つ。
弦が鳴った。
光の矢が——飛んだ。
矢がセトの魂に触れた瞬間、世界が変わった。
嵐が——止んだ。
硝子の刃も、無音の衝撃波も、すべてが凍りついたように静止した。それは「無音」とは違う静けさだった。嵐の中心にぽっかりと空いた、穏やかな凪。
同時に、僕の意識が引きずり込まれた。
三射目までの記憶の断片とは、まるで違う。あの時は感情のかけらが弾けるように流れ込んできただけだった。けれど今度は——まるで僕自身がセトの記憶の中に立っているかのような、圧倒的な没入。
砂の匂いがした。
乾いた、けれど冷たくない砂。太陽に温められた、黄金色の砂。風が吹くたびに舞い上がる細かい砂粒が、僕の——いや、セトの頬を撫でていく。
そして——音。
笑い声が、聞こえた。
遠くから。近くから。四方八方から。子どもたちの甲高い歓声、商人たちの威勢のいい呼び声、女たちの歌、男たちの笑い。
都だ。
かつてこの砂漠が特異点になる前の——生きた、賑やかな、黄金の都。
セトの記憶の中で、僕は王の玉座に座っていた。
宮殿の窓から流れ込む風は乾いていて温かく、遠くの市場から焼きたてのパンの匂いが届いてくる。庭園では噴水の水音が涼やかに響き、侍女たちがくすくすと笑いながら花を活けている。
何もかもが——音に満ちていた。
セトが愛した世界は、こんなにも音で溢れていたのか。
「——セト」
声が、聞こえた。
女の声。低くて、どこか砂を踏むような乾いた響きを持つ、けれど柔らかい声。
その声を聞いた瞬間、セトの感情が——温かく震えた。
「また窓辺でぼうっとしているの。あなたは本当に、王さまらしくない王さまね」
記憶の中の女が、セトの隣に腰を下ろした。
彼女の匂い——砂と、蜂蜜と、ほんの少しの花の香り。風に揺れる長い髪が、セトの肩に触れる。くすぐったい。温かい。
クレオだ。
砂の女王。星影の円卓、第三席。——あの、僕たちをピラミッド宮殿に招き入れてくれた、傲慢で優しい砂漠の支配者。
けれど記憶の中のクレオは、支配者でも女王でもなかった。ただの——姉のような人だった。
「妾は、ぼうっとなどしておらぬ」
セトが——いや、セトの記憶が、少しむくれた声で答えた。
「民の声を聞いておるのだ。市場の活気も、子どもたちの笑い声も、すべて妾の宝じゃ」
「あら。それを世間では『ぼうっとしている』と言うのよ」
「……クレオ。妾も王なのだぞ。少しは敬え」
「はいはい。偉い偉い」
クレオが、セトの頭を撫でた。
乱暴で、けれど優しい手つき。セトが「やめよ!」と手を払いのけようとして、けれど——振り払えない。振り払いたくない。
その手が、温かいから。
「……今日は良い日じゃな」
「毎日良い日でしょう。あなたの国は平和よ」
「うむ。民が笑っておる。それだけで——妾は幸せじゃ」
クレオが、少しだけ黙った。
それから——ほんの僅かに、声のトーンが変わった。
「ねえ、セト」
「なんじゃ」
「ずっとこうしていられたらいいのにね」
セトは笑った。
「何を言っておる。ずっとこうしておるに決まっておろう。妾がこの都を守る限り——この音は、絶対に消えぬ」
記憶の中のセトの声は、まっすぐだった。
何の疑いもなく、自分の力で民を守れると信じていた、若い王の声。
僕の——ノアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
この声が。この温かい日常が。やがて全部失われることを、僕はもう知っている。
セトが音を消した理由も。クレオがあの黄金のピラミッドで、一人きりで砂漠を守り続けている理由も。
お読みいただき、ありがとうございます!
最後の一射がセトの魂に触れ、ノアはセトの心の一番深い場所に眠る、クレオとの黄金の記憶を垣間見ました。
しかし、その温かい日常が失われてしまった裏には、ある「不穏な影」が潜んでいました。
次回、記憶はさらに崩壊の始まりへと進み、恐るべき事実が明らかになります。
お楽しみに!
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