声なき戦場と、光の矢
フクの背に跨り、ドスンさんの流体防壁に守られながら、シオンの声だけを頼りにノアは光の矢を放ちます。
矢が当たるたびに、セトの心の奥底に閉じ込められた声が——ノアの魂に流れ込んでくる。
フクの背中は、思っていたよりずっと温かかった。
「フク、お願い」
「任せるッス! お師匠、しっかり掴まっててくだせぇ!」
太陽の仔の毛皮に指を絡ませた瞬間、フクが地面を蹴った。
重力が消える。
風を切る感覚だけが、僕の体を包み込む——けれどその「風」すら、結界の外では音を奪われて無音になる。フクの爪が硝子の床を蹴る衝撃だけが、骨伝導のように僕の体を伝わってくる。
「左斜め前に五歩分! 硝子の槍が三本、上から来るわ!」
シオンの声。
フクが鋭く跳んだ。僕の体がぐわんと揺れる。
一瞬遅れて、背後で硝子が砕ける振動。さっきまで僕がいた場所に、巨大な硝子の槍が突き刺さったのだろう。
きゅるるるっ!
ドスンさんが僕の頭上を覆うように流体金属を展開した。水銀のような金属が薄く広がり、傘のように硝子の欠片を弾く。欠片がドスンさんの表面で弾ける振動が、かちかちと小気味いいリズムを刻んでいた。
セトの攻撃は、すべてが無音だった。
硝子の刃も、無音の衝撃波も、足音すら立てずに空間を切り裂いてくる。普段の僕なら理の糸で全て把握できる——けれど今の僕は、調律に脳のほぼすべてを注ぎ込んでいる。
右手に編まれた光の弓が、静かに脈動していた。
弦に触れるたびに、温かい振動が指先から腕を伝い、胸の奥まで染み渡る。理の糸から紡いだ、正しい音色の結晶。これを矢にして——セトの魂に、直接届ける。
「ノア、正面。セトが硝子の壁を展開してるわ。突っ込めない」
「回り込めますか」
「フク、右に大きく回って! 壁の端が途切れてる場所がある、そこから射線が通る!」
「了解ッス!」
フクの体が、ぐんと右に傾いた。
硝子の床を蹴る振動が、三拍子から不規則なリズムに変わる。ジグザグに走っている。シオンの指示を、フクは声を聞いた瞬間に全身で反応していた。
——来るな。
セトの「声」が、理の糸を通じて僕に叩きつけられた。
——近づくな。妾に触れるな。
「シオン、どこですか」
「十一時の方向、距離七歩。高さ二メートル。——今よ!」
僕は弓を構えた。
弦を引く。理の糸がぴんと張り詰め、指先に一本の光の矢が凝縮されていく。
正しい音。正しい振動。セトの魂に届くための、たった一音。
——放つ。
指が弦を離した。
光の矢が空間を裂いて飛んだ——と、思う。僕には見えない。音も聞こえない。ただ弦を離した瞬間に理の糸が震え、光の残響が空間を駆け抜けていった感触だけがあった。
そして——当たった。
セトの魂に、僕の矢が触れた瞬間。
何かが、僕の胸の中で爆ぜた。
——……ぁ。
映像ではない。音でもない。
純粋な感情の断片が、セトの魂から弾かれるように僕に流れ込んできた。
温かい、砂の匂い。
誰かの——小さな手。
子どもの手だ。セトの指に絡みつく、小さくて、砂まみれで、けれどとても温かい手。
——おうさま、おうさま。
——きょうね、あのね、いちばでね、おおきなおさかな みたの!
幼い声が、セトの記憶の中で弾けていた。
セトは——笑っていた。
穏やかで、優しい笑み。糸を通じてその感情が流れ込んでくるだけで、僕の目頭が勝手に熱くなる。
「……っ」
映像が途切れた。
同時に——セトの怒りが、膨れ上がった。
——見るなっ!
無音の衝撃波が、僕を正面から殴りつけた。
きゅるるるっ!
ドスンさんが咄嗟に僕とフクの前方に壁状に変形し、衝撃を受け止めた。流体金属の表面が激しく波打つ。凄まじい圧力だ。
「お師匠! 大丈夫ッスか!」
「大丈夫……ドスンさん、ありがとう」
きゅる……。
ドスンさんのランプが、赤から青へ、そしてまた赤に。「大丈夫だけど、あんまり無理すんな」と言いたげな点滅。
「ノア、セトが怒ってるわ。攻撃の頻度が上がった。硝子の刃が壁から射出されてる、四方八方から」
「フク、動いて」
「わかったッス!」
フクが再び跳んだ。
ドスンさんが今度は盾の形ではなく、僕の周囲を薄く球体で覆う繭のような形に変化した。走りながら防御を維持する——フクの機動力を殺さないための、柔らかい防壁。
硝子の刃が、四方から飛んでくるのを感じる。ドスンさんの表面で弾ける振動が、ぱちぱちと不規則に響いていた。
「左前方、上から大きいの来るわ! フク、急加速!」
「うっしゃぁッス!」
フクの体温が跳ね上がった。太陽の炎が足元に灯り、硝子の床を蹴った衝撃で僕の体が浮く。
背後で、巨大な何かが硝子の床を叩き割る振動。
「シオン、もう一射いけますか」
「……三時の方向、八歩。セトが硝子の柱の陰にいるわ。でも柱の隙間から射線が通る。——精密射撃よ、角度は右に二十五度」
「……はい」
僕は弓を構え直した。
弦を引く。光の矢を凝縮する。セトの魂の中にある、凍りついた糸を一本だけ正しい音で弾くための——精密な一射。
右に二十五度。シオンの言葉だけを信じて、放つ。
弦が鳴った。
光の矢が柱の隙間を縫い——セトに、届いた。
二射目が当たった瞬間、僕の中に流れ込んできたのは——怒りだった。
けれど、ただの怒りではない。
守れなかった怒り。
——あの子たちは。
セトの記憶。
市場の子どもたち。笑い声。砂の匂い。けれどそこに——剣の音が混じる。
悲鳴。
笑い声が、悲鳴に変わる瞬間の記憶。あの温かい小さな手が、冷たくなっていく感触。
セトは王として戦った。剣を執り、兵を率いた。けれど守り切れなかった。あの子たちの声は、二度と宮殿には届かなくなった。
——許さぬ。
——お前たち人間が奪ったのだ。あの子たちの声を。笑顔を。温かさを。
僕の胸が、引き裂かれるように痛んだ。
セトの怒りは——悲しみだった。
「……セトさん」
呟いた声は、震えていた。
「お師匠、泣いてるッスか……?」
フクが、走りながら振り返った気配。
「泣いてません。……少しだけ、セトさんの気持ちが流れてきたんです」
「ノア」
シオンの声が、僅かに柔らかくなった。
「……矢を当てるたびに、セトの記憶が流れ込んでくるのね」
「はい。セトさんの、本当の声が」
「……そう」
シオンは一拍だけ沈黙した。それから——いつもの、鋭い声に戻った。
「なら、なおさら全部受け止めなさい。セトの本当の声を聞けるのは、あんただけよ」
「……はい」
僕は涙を拭った。
セトの怒りが——硝子の嵐となって、再び空間を満たしていく。結界が軋む。音の泡が、また少し小さくなった。
ドスンさんが繭を厚くして防御を固める。フクが小刻みに方向を変えて刃の雨を躱す。シオンが絶え間なく座標を読み続ける。
「正面やや左、四歩。セトが降りてきたわ。地上にいる。——今なら近い、撃てる!」
三射目。
弦を引き、光を込め——放つ。
矢が飛ぶ。
三射目で流れ込んできたのは——祈りだった。
静かな、静かな祈り。
——せめて。
——妾が全ての音を消せば。
——もう誰も、悲鳴を上げずに済む。
セトは民を守るために、音を消した。
悲鳴が聞こえなければ、悲しみも生まれない。笑い声が聞こえなければ、それが奪われる恐怖もない。
何もかもを消してしまえば——誰も、傷つかない。
それがセトの祈りだった。
世界で一番優しくて、世界で一番間違った祈り。
「……セトさん」
僕は、光の弓を握り直した。
「あなたの声、聞こえています」
——黙れ。
「聞こえていますよ。ずっと」
——聞くなっ!
無音の嵐が荒れ狂う。硝子の刃が竜巻のように渦を巻き、ドスンさんの繭の表面を削り始めた。
きゅるるるっ!
ドスンさんが軋んだ。繭の一部が薄くなり、硝子の欠片が僕の頬を掠める。
「お師匠、ドスンさんがヤバいッス!」
「シオン!」
「分かってる! ——ノア、ここは私が時間を稼ぐ。フク、ノアを連れて距離を取りなさい!」
シオンの体が、僕の肩から飛び降りた気配。
小さな、けれど途方もなく密度の高いマナが——僕の右肩から離れていく。
「シオン!?」
「心配しないで。ちょっとだけ、あの子の足を止めるだけよ」
シオンの闇が展開された。僕には見えない。けれど理の糸が教えてくれる——シオンが、セトの周囲の空間にごく薄い闇の膜を張ったのだ。セトの動きを封じるのではなく、硝子の刃の軌道をほんの僅かにずらすための——精密な妨害。
「——今のうちに弓を強化しなさい! あと一射で核に届くわ!」
「……はい!」
僕は弓の弦に両手を添えた。
理の糸をさらに束ねる。一本、二本、三本——澄んだ音を奏でる糸を、光の弓に織り込んでいく。
フクが僕を乗せたまま、大きく旋回した。ドスンさんが繭を解いて、今度は僕の前方だけに集中した分厚い盾を形成する。
「シオン、戻ってきて!」
「まだよ。もう少し——」
ぱきん。
硝子が砕ける音。セトがシオンの闇を力ずくで破った音だと、僕には分かった。
シオンが弾かれる気配。
「シオンっ!」
「——大丈夫。ちゃんと時間は稼いだわ」
小さな体が、僕の右肩に戻ってきた。少しだけ——息が荒い。
「ノア。弓の準備は」
「できました」
光の弓が、腕の中で静かに震えていた。さっきまでとは比べものにならないほど強く、深い音色を宿している。
「……聞かせてあげなさい」
シオンの声が、僕の耳元で囁いた。
「セトが本当に聞きたかった音を」
お読みいただき、ありがとうございます!
フクの機動力、ドスンさんの変幻自在の防御、シオンの精密なナビゲーション——仲間全員の力を結集した、かつてない連携戦闘でした。
光の矢が当たるたびにセトの心の声がノアに流れ込み、怒りの奥にある本当の想い——民を守れなかった悲しみと、全てを消すことでしか守れなかった祈りが明らかになりました。
次回、ノアが放つ最後の一射は、セトの魂に何を届けるのか。
声なきレクイエムの調律が、いよいよ佳境を迎えます。お楽しみに!
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