[行政手続法31条・聴聞手続の準用]現場編 「本人が来られないなら反論はなしです」の罠。本人不在と代理人、見えない相手への通知を“手続なし”に変えない仕組み
本人がいないから、話を聞かなくていい。
――そう言われると、一瞬だけ正しそうに聞こえます。
だって本人がいないんですから。
聞きようがない。
通知しようにも居場所が分からない。
本人が病気だったり、遠くにいたりして役所へ来られないなら、なおさらです。
でも。
そこで、
「では手続は省略します」
まで一気に飛ぶと、話が変わります。
人が見つからないことと。
人の権利が消えることは。
同じではありません。
◇
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は事務所の電話を両手で握ったまま、しばらく固まっていました。
「……はい」
『ですから、弟に頼んでもいいんでしょうか』
「ええと」
『本人は入院してるんです』
「はい」
『それでも本人じゃなきゃ駄目だって、市役所に言われまして』
「少々お待ちください」
私は受話器の口を手で押さえました。
「相馬先輩」
「何だ」
「助けてください」
「断る」
「まだ内容言ってません!」
「顔が面倒そうだ」
「仕事ってだいたい面倒ですよね?」
「だからお前に回してる」
「職場教育の皮をかぶった丸投げ!」
奥で新聞を読んでいた片桐所長が顔を上げました。
「誰だ」
「駅前のクリーニング店の方です。市から何か処分予定の通知が来たらしいんですが、ご本人が入院中で」
「名前は」
「河村さんです」
電話口へ戻ります。
「河村さん、すみません。お名前をもう一度」
『河村美佐子です。処分を受けることになってるのは兄の正一です』
「お兄さんは今、入院中?」
『はい。先週、倒れまして』
「市役所から来た通知はお手元にありますか」
『あります』
「事務所へ持って来られます?」
『私でいいんですか』
「まず事情を聞かせてください」
電話を切ったあと。
相馬先輩が私を見ました。
「で?」
「市役所では『本人が来られないなら仕方ない』みたいに言われたそうです」
「何が仕方ないんだ」
「そこを今から確認します」
「最初からそう言え」
言ったら断ったでしょうが。
◇
河村美佐子さんは、四十分ほどでやって来ました。
五十歳前後。
紺色のカーディガンに、やや大きな手提げ鞄。
鞄から封筒を出す手が、少し震えていました。
「兄の店なんです」
駅前再整備区域の外れ。
小さなクリーニング店。
河村正一さんは、そこで二十年以上営業している。
ところが最近。
店舗裏の排水について、市から是正指導を受けていたらしい。
「油分のある排水が側溝へ流れてるって」
美佐子さんが言いました。
「兄は業者を呼んで直すって話をしてたんです。でも、その直後に倒れて」
「入院期間は?」
「まだ分かりません。脳梗塞で」
空気が少し重くなりました。
私は書面へ目を落とします。
そこには。
営業に関する一定の不利益措置を検討していること。
その前に事情説明の機会を設けること。
日時。
場所。
そういったことが書かれていました。
ただし。
問題が一つ。
「この日って」
「明後日です」
「お兄さん、当然来られませんよね」
「無理です」
「市には?」
「昨日行きました」
「何て言われました?」
美佐子さんは唇を噛みました。
「本人が来られないなら、説明の機会は使えないって」
「……誰が?」
「環境衛生課の人です」
「代理は?」
「聞きました」
「何て?」
「本人の言い分を聞くための場だから、家族が来ても意味がありませんって」
私は通知書を持ったまま、止まりました。
何か。
引っかかる。
強烈に引っかかる。
昨夜までのテキストなら。
たぶんここで私は三秒くらい眠くなっていました。
行政手続法第三十一条。
第十五条第三項及び第十六条を準用する。
――準用。
法律界でも相当な睡眠誘発力を持つ単語です。
準用。
何かを別の場面でも使います、という話。
条文だけ見ると地味。
でも。
その中身の一つが。
代理人。
「所長」
「何だ」
「本人が来られないからって、それで言い分を出せなくなるって変じゃないですか」
「変だな」
「ですよね」
未来の行政手続法では。
弁明の機会の付与について。
聴聞の代理人に関する規定が準用される。
つまり。
通知を受けた人は代理人を選任できる。
その代理人は。
本人のために。
弁明の機会の付与に関する一切の行為をすることができる。
もちろん。
ここは昭和六十三年。
そんな第三十一条は、まだありません。
でも。
本人が病院にいる。
その一事だけで。
事実上、反論の道を塞ぐのは。
どう考えてもおかしい。
「美佐子さん」
片桐所長が聞きました。
「お兄さんとは話せますか」
「少しなら」
「意思表示は」
「できます」
「あなたに任せると言っていますか」
「はい」
「書面にできますか」
「たぶん」
所長が頷きました。
「なら、まずそこを固めましょう」
「どういうことですか」
「あなたが、本人の代わりに動く権限を持っていることをはっきりさせる」
美佐子さんが目を瞬きます。
「委任状ですか」
「そうです」
「でも市役所が、本人じゃないと駄目って」
「それが本当に制度上駄目なのか、担当者がそう思っているだけなのかを確認します」
来た。
好きです、この区別。
役所で一番怖いのは、
「そういう決まりです」
と、
「私はそう思います」
が同じ声色で出てくることです。
「相馬」
「はいはい、市役所ですね」
「こはるも」
「ですよね」
もう驚きません。
昭和の行政書士事務所。
問題を見つけた人間は、現場送りです。
◇
市役所環境衛生課。
窓口で事情を告げると。
担当の男性職員は、昨日と同じ説明をしました。
「ですから、河村さん本人の事情を確認するための機会ですので」
「本人が来られない場合は?」
相馬先輩が聞きます。
「今回は欠席という扱いになります」
「代理人は?」
「家族の方が来られても、本人とは違いますから」
「家族だから聞いてるんじゃない」
相馬先輩の声が少し低くなりました。
「本人から代理権を与えられた人ならどうなんです」
職員が止まりました。
「代理権?」
「委任状を持った代理人です」
「……そういう扱いは、今までしていません」
はい。
出ました。
今までしていない。
法律上できない。
似ているようで、全然違います。
「できない根拠はありますか」
私が聞きました。
職員が私を見る。
「あなたは?」
「片桐行政書士事務所の見習いです」
「ああ」
何でしょう。
最近「ああ」で認識されるようになってきました。
嬉しくありません。
「本人の事情を聞く場ですから」
「それは目的ですよね」
「はい」
「代理人を認めない根拠は?」
「……」
沈黙。
相馬先輩が横から言います。
「目的と根拠を混ぜないでください」
強い。
今日も切れ味がいい。
そこへ。
「またお前たちか」
という、聞き覚えのある声。
倉田係長でした。
「係長、所属変わりました?」
私が思わず聞くと。
「変わってない。駅前再整備の関係でこっちにも顔を出してるだけだ」
「便利キャラみたいになってますね」
「意味は分からんが腹が立つ」
すみません。
心の声が一部漏れました。
相馬先輩が事情を説明します。
倉田係長は通知書を見て。
担当者を見て。
美佐子さんを見ました。
「本人は入院中?」
「はい」
「意思確認はできる?」
「できます」
「委任状も取れる?」
「はい」
「なら代理人として扱えない理由を確認したほうがいいな」
担当者が戸惑います。
「でも係長、本人の弁明ですよ」
「本人の弁明を代理人が伝えちゃいけない決まりがあるのか?」
「……確認します」
ほら。
やっぱり。
本人が来られない。
だから何もできない。
ではなかった。
制度の扉が閉まっていたんじゃない。
担当者が、扉の開け方を知らなかっただけです。
「もう一つ」
片桐所長が言いました。
「今回は河村さん本人の所在が分かっているから問題にならないが」
「はい」
倉田係長が向き直る。
「本人の所在が分からなかったら、どうするんです」
私は顔を上げました。
そこ。
未来の第三十一条のもう一つです。
行政手続法十五条三項の準用。
本人の所在が判明しない場合。
通知できない。
だから手続を全部飛ばしていい。
ではない。
掲示場に。
氏名。
弁明書の提出先。
提出期限。
そして必要事項を記載した書面をいつでも交付する旨。
それらを掲示する。
そして。
掲示を始めた日から二週間を経過したとき。
通知が到達したものとみなす。
私は思わず口を開きかけて。
止まりました。
まだない法律です。
危ない。
未来人、また出るところでした。
倉田係長は少し考えました。
「所在不明なら……公示のような形で知らせる方法を考えるしかないでしょうね」
「そうでしょう」
所長が頷きます。
「見つからないから知らせなくていい、にはならない」
短い。
でも。
未来の条文が、一瞬重なりました。
この人、本当に未来から逆輸入してません?
「何だ」
所長が私を見る。
「いえ」
「顔がうるさい」
「顔に発言権ありませんよ!」
倉田係長が笑いを噛み殺しました。
◇
結局。
その日は、市側もいったん手続を止めました。
河村正一さん本人から。
美佐子さんを代理人として選任する委任状を取る。
その資格を書面で確認する。
そのうえで。
美佐子さんから事情説明書を提出してもらう。
必要なら市側が追加の確認をする。
そこまで整理して。
ようやく。
「本人が来られないなら終わり」
だった話が。
「代理人を通じて本人の言い分を届ける」
へ変わりました。
「ただし」
倉田係長が言いました。
「代理人だから何を言っても本人の意思になる、という扱いにはしませんよ」
「もちろんです」
所長が答えます。
「だから権限を明確にする」
「委任状で?」
「そうです」
「資格を確認して記録に残す」
「そのほうがお互い安全です」
私は思わず頷きました。
そこも大事です。
代理人を認めます。
はい家族なら誰でもどうぞ。
ではない。
誰が。
誰から。
どんな権限を与えられて。
代理人として動くのか。
書面で確認する。
これもまた。
冷たい。
でも。
冷たいから揉めにくい。
「じゃあ、委任状を持ってきます」
美佐子さんが言いました。
「兄と話して」
「お願いします」
「でも」
美佐子さんは少し困った顔で私を見ました。
「私、法律とか分からないんです」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大事なのは、お兄さんが何を説明したいかです」
「……はい」
「それを一緒に整理しましょう」
私が言うと。
美佐子さんは、ようやく少し笑いました。
◇
事務所に戻ってから。
私たちは河村さんの件を整理しました。
排水の改善指導があったこと。
すでに設備業者へ見積りを依頼していたこと。
改善工事の日程を調整していたこと。
その途中で正一さんが倒れたこと。
営業を続けながら違反を放置するつもりではなかったこと。
過去の写真。
設備業者とのやり取り。
見積書。
工事予定。
材料は、意外と残っていました。
「これ」
私は見積書を持ち上げました。
「かなり大きいですね」
「何が」
「『何もしてなかった』わけじゃない証拠です」
「そうだな」
相馬先輩が答えます。
役所から見れば。
是正されていない。
それだけだった。
でも。
本人側から見ると。
改善工事を依頼していた。
日程調整中だった。
その途中で倒れた。
そこまで見えて。
ようやく事実が立体になる。
「代理人って」
私は呟きました。
「単に本人の代わりに役所へ行く人じゃないんですね」
「何だと思ってた」
「お使いの強い版みたいな」
「雑すぎる」
自分でもそう思います。
でも。
未来の行政手続法十六条。
代理人は。
各自。
当事者のために。
聴聞に関する一切の行為をすることができる。
そして三十一条で。
これが弁明の機会にも準用される。
つまり。
書面を出す。
主張する。
資料を出す。
手続上必要な行為を行う。
本人の手足として動く。
「資格は書面で証明」
私は小さく呟きました。
「何だ?」
「いえ。委任状って大事だなって」
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「口だけで『俺は代理人です』が通ったら怖いだろ」
「それもそうですね」
「あと、代理人じゃなくなったら?」
「え?」
「途中で解任されたとか」
私は止まりました。
それ。
未来の条文にあります。
代理人が資格を失ったとき。
選任した当事者は。
書面でその旨を行政庁へ届け出る。
「ああ」
「何だ」
「確かに必要ですね」
「だろ」
「代理権がなくなってるのに、役所がその人と話し続けたらまずい」
「そういうことだ」
相馬先輩。
今日は妙に教師です。
「先輩、行政法詳しいですね」
「お前より現場見てるだけだ」
それ。
ちょっと格好いいので悔しい。
◇
翌日。
病院から委任状が届きました。
河村正一さんの署名。
押印。
代理人。
河村美佐子。
弁明に関する手続を委任する旨。
そして。
事情説明書。
私たちはそれを整えて、市役所へ持っていきました。
今度は。
窓口で、
「本人じゃないので受けられません」
とは言われませんでした。
担当者は委任状を確認し。
写しを取り。
美佐子さんを代理人として記録しました。
「こちらの資格確認をさせてください」
「はい」
「お兄さんから委任を受けた範囲は、この事情説明と資料提出に関する行為ということでよろしいですか」
「はい」
「分かりました」
たったそれだけ。
本当に。
たったそれだけです。
でも昨日は。
その入口すらなかった。
私は横で見ながら。
制度の不思議さを感じました。
代理人。
資格証明。
書面。
委任。
字面だけなら。
人間味なんて欠片もありません。
でも。
病室から役所へ来られない人の声を。
その冷たい仕組みが運んでいる。
書面だから。
誰が誰に何を任せたか分かる。
代理人だから。
本人が動けなくても、手続は止まらない。
これ。
かなり優しい制度なのでは。
「朝比奈君」
倉田係長が声をかけてきました。
「はい」
「昨日から何か考えてる顔してるな」
「制度って変なところで親切だなと思って」
「どういう意味だ」
「人情じゃなくて、仕組みで助けるんだなって」
倉田係長が少し笑いました。
「役所が人情だけで動いたら、それはそれで怖いぞ」
「ですよね」
その通り。
優しい担当者だから代理人を認める。
嫌な担当者だから認めない。
それじゃ困ります。
誰でも。
同じ条件なら。
同じように代理人を選べる。
その冷たさのほうが。
たぶん信用できます。
◇
数日後。
市から連絡がありました。
河村さんの件について。
改善工事がすでに予定されていたこと。
本人の急病によって工事が遅れたこと。
代理人から提出された資料を踏まえて。
直ちに重い措置を取るのではなく。
まず工事完了期限を区切り。
その履行状況を確認する。
そういう扱いになりました。
完全に何もなし。
ではありません。
排水の問題自体は残っています。
直さなければならない。
でも。
本人が病院にいるから。
反論できない。
そのまま処分。
という流れは止まりました。
美佐子さんが事務所に報告へ来たとき。
小さな箱を抱えていました。
「これ、兄からです」
「え?」
「病院の売店で買ったって」
「入院患者さんから差し入れもらっていいんですか」
「本人がどうしてもって」
箱を開けると。
羊羹。
一本。
嫌な予感しかしません。
「一人何切れですか」
「最初から配分の話か」
相馬先輩が呆れます。
「過去の経験から学習してます」
「行政法じゃなく菓子で成長するな」
美佐子さんが笑いました。
「兄が言ってました」
「何て?」
「自分が動けなくなったら、全部終わると思ってたって」
私は黙りました。
「店も」
「はい」
「役所への説明も」
「はい」
「でも、妹でも代わりにできることがあるんだなって」
美佐子さんの声が少しだけ震えました。
「それが分かっただけでも、ずいぶん安心したみたいです」
「よかったです」
本当に。
それだけしか言えませんでした。
人は。
自分で動けなくなると。
世界との窓口まで閉じるような気持ちになることがあります。
病院に入る。
遠くへ行く。
所在が分からなくなる。
本人が窓口に立てない。
でも。
本人が立てないことと。
本人の権利が消えることは違う。
誰かに任せる道がある。
所在不明なら。
通知そのものについて別の方法を用意するという考え方もある。
そして未来。
その仕組みには、もっとはっきりした名前と手順が付く。
行政手続法第三十一条。
聴聞に関する手続の一部を。
弁明の機会の付与にも準用する。
所在不明の場合の掲示による通知。
代理人。
その二つ。
昨夜までなら。
「十五条三項と十六条を準用」
そこで私は眠っていたかもしれません。
ひどい。
条文番号だけで眠気が来ます。
でも今は。
十五条三項の向こうに。
見つからない人がいる。
十六条の向こうに。
病院から動けない河村さんがいる。
そして。
三十一条は。
その仕組みを弁明にも持ってくる。
「準用って」
私は呟きました。
「何だ」
相馬先輩が羊羹を切りながら言います。
「他のところにある救命道具を、こっちでも使うってことなんですね」
「大げさだな」
「でも今日は本当にそう見えました」
「まあ」
相馬先輩は包丁を止めました。
「使えるものは使えばいい」
「急に雑」
「実務はそういうもんだ」
片桐所長が羊羹を見ました。
「六等分」
「所長、三人ですよ?」
「明日も食べる」
「また未来の権利まで保存する!」
「朝比奈」
「はい」
「異議があるなら代理人を立てろ」
「本人がここにいます!」
美佐子さんが声を上げて笑いました。
◇
夕方。
事務所が静かになってから。
私はノートを開きました。
今日の題名を書く。
――聴聞手続の準用。
やっぱり眠い。
字面だけなら、かなり眠い。
準用。
何を。
どこへ。
なぜ。
教科書では。
そういう条文を探す作業になりがちです。
でも。
今日の現場で見たのは。
もっと単純でした。
本人がいない。
だから終わり。
ではない。
本人が来られない。
だから何も言えない。
でもない。
手続は。
本人の身体そのものに縛り付ける必要はない。
代理人を通じて動かせる。
ただし。
誰が代理人なのかは、書面できちんと確認する。
その代理権がなくなったら、それもきちんと知らせる。
そして。
本人の居場所そのものが分からなくても。
通知する努力を制度として残す。
未来の私は知っています。
所在不明の場合。
行政庁の掲示場へ一定事項を掲示し。
掲示を始めた日から二週間が経過すれば。
通知が到達したものとみなす。
二週間。
未来の試験では。
たぶん数字として覚える。
私はきっと、
「二週間、二週間」
と呪文みたいに唱える。
でも今日からは。
所在不明だからといって。
いつまでも行政が何もできないわけにもいかない。
だから一方で手続を進める仕組みが要る。
でも。
見つからないから、黙って処分していい。
にもしたくない。
その間を取る。
掲示する。
一定期間待つ。
そのうえで到達したものと扱う。
冷たい。
かなり冷たい仕組みです。
実際に本人が見ていなくても。
二週間たてば到達したことになる。
でも。
そういう線を引かなければ。
行政も永遠に止まる。
一方で。
何の手続もせず一方的に進めることも防ぎたい。
制度というのは。
誰か一人に優しくすることではなく。
動けない現実の中で、どこに線を引くか決めることなのかもしれません。
「何書いてる」
相馬先輩が覗き込みました。
「まだ整理中です」
「またか」
「今日、論点が二つあったので」
「二つ?」
「本人が見つからないときの通知と」
「うん」
「本人が自分で動けないときの代理人」
「なるほど」
私はペンを持ちました。
そして。
今日の一行だけ書きます。
――本人がいないことを、本人の権利がないことにしない。
相馬先輩が読みました。
「珍しく真面目だな」
「いつも真面目です」
「羊羹の配分で不服申立てしようとしてた奴が?」
「あれとこれは別です」
所長が新聞越しに言います。
「一行足せ」
「何をですか」
「代理は、権限を明らかにする」
私は少し考えて。
その下へ書きました。
――任せられる。でも、誰に何を任せたかは、書面で残す。
「それでいい」
所長が言いました。
窓の外では。
昭和六十三年の町が、ゆっくり夜へ沈んでいました。
駅前では再整備工事の照明が点いています。
あの町のどこかに。
役所からの通知を受け取る人がいる。
受け取れない人もいる。
自分で窓口へ立てる人がいる。
立てない人もいる。
でも。
制度が本当に制度であるなら。
元気な人だけが使えるものであってはいけない。
本人が動けないとき。
誰かが代わりに声を運べる。
本人が見つからないとき。
それでも通知を試みたことが分かる形を残す。
どちらも。
華やかではありません。
代理人。
資格証明。
掲示。
二週間。
文字だけなら冷たい。
でも。
その冷たい仕組みが。
病室にいる人と役所の間へ、一本の細い橋を架ける。
私はノートを閉じました。
今日覚えたのは。
準用する条文番号ではありません。
たぶん。
手続は、人が動けなくなっても止めないためにある。
そういうことでした。
「朝比奈」
「はい」
「羊羹、食うぞ」
「今度こそ一切れですよね」
「一切れ」
「保証できます?」
「所長が見てる」
「最強の監督機関ですね」
所長が新聞から顔を上げました。
「相馬」
「はい」
「二切れ取ったら明日なし」
「厳しいな」
「代理人を立てても?」
私が聞くと。
「本人の分が減るだけだ」
「制度設計が完璧!」
どうやら。
羊羹に関する手続だけは。
未来の行政手続法より先に、かなり完成しているようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




