[行政書士試験]こはるからのメッセージ
夕焼けは、いつだって、別れの色をしている。
昭和六十三年、秋。
地方都市の片隅にある、古びた木造二階建て。
『片桐行政書士事務所』
その看板が、沈みかけた太陽に照らされて、燃えるような茜色に染まっていた。
カタカタカタ……チン!
事務所に響く、使い古されたタイプライターの音。
窓際では相馬誠司が、最後の書類を整理している。
奥の机では片桐所長が、老眼鏡をかけて六法全書をめくっていた。
そして、私は。
朝比奈こはるは。
膝の上に、一冊の分厚いノートを抱えていた。
表紙には、丸っこい文字でこう書かれている。
『こはるノート』
最初は、たった数ページだった。
昭和の法律と、令和の法律。
その違いを忘れないために書き始めた、私だけの覚え書き。
それが今では、何冊もの紙を継ぎ足し、背表紙が裂けそうなほど分厚くなっていた。
ページを開く。
そこには、町の人々の顔があった。
駅前で花を売り続けたおばあさん。
父親の形見のピアノを守ろうとした少年。
お腹の子の相続権を守ろうとした母親。
理不尽な会社経営者に泣かされた職人。
役所の窓口で、たった一枚の通知書を握りしめていた人。
みんな、法律なんて知らなかった。
ただ、懸命に生きていただけだった。
「……ずいぶん厚くなったな」
突然、相馬さんが声をかけてきた。
「お前のその、落書き帳」
「落書き帳じゃありません! 私の宝物です!」
「へいへい。で、何ページまで増えたんだ?」
「もう数えてません」
「なんだそりゃ」
相馬さんが笑った。
私も笑った。
でも、胸の奥が、少しだけ痛かった。
なぜだろう。
今日で、この事務所ともお別れになる。
そんな予感が、朝からずっと消えなかった。
「所長。相馬さん」
私はノートを閉じた。
「最後に、一つだけ、お話ししてもいいですか?」
片桐所長が顔を上げる。
「なんだ」
「私がいた未来の……行政書士試験についてです」
「また未来の話かよ」
相馬さんが椅子を逆向きにして座った。
「いいぜ。聞かせてみろ。未来じゃ、どんな恐ろしい試験になってるんだ?」
私は微笑んだ。
そして、ノートの最後のページを開いた。
そこには、大きな数字が書かれていた。
『300点』
『180点』
『60問』
『3時間』
相馬さんが目を見開く。
「……は?」
「令和八年の行政書士試験は、三時間で六十問を解きます。三百点満点で、原則百八十点以上が必要なんです」
「三時間で六十問!?」
相馬さんが叫んだ。
「一問三分じゃねえか!」
「そうです」
「いや待て。問題を読む時間もあるんだろ? 答案を書く時間も?」
「あります」
「しかも法律だろ?」
「法律です」
「……戦場じゃねえか!」
思わず吹き出してしまった。
でも、本当にそのとおりだ。
五つの選択肢から正解を選ぶ五肢択一式。
二十個の語句から適切な言葉を選ぶ多肢選択式。
そして、四十字程度で法律上の答えを書かせる記述式。
五肢択一式は五十四問、二百十六点。
多肢選択式は三問、二十四点。
記述式は三問、六十点。
たった三時間で、知識と判断力と文章力を試される。
「しかも、問題によって配点が違うんです」
私は鉛筆を握った。
紙に数字を書いていく。
行政法、百十二点。
民法、七十六点。
憲法、二十八点。
商法・会社法、二十点。
基礎法学、八点。
基礎知識、五十六点。
合計、三百点。
「行政法と民法だけで百八十八点。全体の約六十二パーセントです」
「六割以上か」
所長がつぶやいた。
「ずいぶん偏っているな」
「はい。私も最初は思いました。どうしてこんなに行政法と民法ばっかり勉強しなきゃいけないんだろうって」
「今は違うのか」
私は頷いた。
「はい。ここで、教えてもらいましたから」
私は窓の外を見た。
赤く染まった街並み。
あの駅前の、小さな花屋のおばあさんを思い出す。
「行政法は、国や役所と向き合うための法律です」
許可をもらう。
届出をする。
行政指導を受ける。
処分に納得できなければ、不服を申し立てる。
それでも救われなければ、裁判という道もある。
行政法総論。
行政手続法。
行政不服審査法。
行政事件訴訟法。
国家賠償法。
地方自治法。
それぞれ名前も仕組みも違う。
けれど、根っこにあるものは一つだ。
「国や役所には、大きな力があります。だからこそ、その力が法律に従って使われているか、確かめるルールが必要なんです」
あの日。
花屋のおばあさんは、役所から渡された不許可通知を見て、泣いていた。
『駅前整備の円滑化』
理由は、それだけだった。
三十年も続けてきた商売が、たった一行で消されそうになった。
でも、片桐所長は言ったのだ。
『行政庁の判断だからといって、すべてが正しいわけじゃない』
私は、あの日の言葉を忘れない。
「そして、民法は……」
私は、別のページを開いた。
そこには、小さなピアノの絵が描かれている。
「人と人を繋ぐ法律です」
親と子。
夫と妻。
売る人と買う人。
貸す人と借りる人。
財産を残す人と、受け継ぐ人。
約束を守ること。
約束を取り消せること。
傷つけたら責任を負うこと。
亡くなった人の思いを、法律によって次の世代に繋ぐこと。
「民法って、最初は条文が多すぎて嫌いだったんです。でも、ここに来て分かりました」
私は笑った。
「民法の問題には、必ず誰かの人生があるんですね」
相馬さんが黙ってこちらを見ていた。
私は続けた。
「行政法は、国や役所の大きな力に向き合うルール。民法は、人と人の生活を支えるルール。この二つが実務の土台だから、試験でも重く扱われているんだって、今なら納得できます」
所長が静かに眼鏡を外した。
「……そうだな」
低い声だった。
「法律家の仕事は、条文を知っていることじゃない」
所長は、机の上に置かれた一通の内容証明郵便を指さした。
「条文を使って、人の生活を守ることだ」
その一言が、胸に深く刺さった。
「でもな、こはる」
相馬さんが腕を組んだ。
「行政法と民法で百八十八点あるなら、極端な話、そこだけ全部取れば受かるんじゃねえのか?」
「……それが、そうはいかないんです」
「なんでだ?」
私はノートに、赤い線を三本引いた。
「令和八年の行政書士試験には、三つの合格基準があります」
一つ。
法令等、二百四十四点満点中、百二十二点以上。
二つ。
基礎知識、五十六点満点中、二十四点以上。
三つ。
全体、三百点満点中、百八十点以上。
「この三つを、原則すべて満たさなければいけません」
「……待て」
相馬さんの眉間に皺が寄った。
「法律で満点取ったとしても?」
「はい」
「基礎知識が二十点だったら?」
「不合格です」
「二百四十四点も取ってるのに!?」
「不合格です」
「なんだその理不尽な足切りは!」
相馬さんが机を叩いた。
私は苦笑した。
確かに、受験生だった頃の私も、同じことを思った。
法律の資格試験なのに。
どうして政治や経済や社会の問題まで出すの?
どうして情報通信や個人情報保護まで勉強しなきゃいけないの?
どうして文章理解なんて、国語の試験みたいなことをするの?
法律を勉強しているだけでも、精いっぱいなのに。
そう思っていた。
でも。
「相馬さん」
私は、あの日のことを思い出した。
「住民票の事件、覚えてますか?」
「……ああ」
「個人の情報が、勝手に利用されそうになった事件です」
相馬さんの表情が変わった。
「あったな」
「法律の条文だけ読んでいても、どうしてその情報が危険なのか、分からなかったかもしれません」
住所。
家族構成。
住民票に記載された情報。
それらは、誰かを探し出し、傷つけるためにも利用され得る。
未来では、情報がコンピューターで結ばれる。
一枚の紙の問題が、社会全体の情報管理の問題になる。
「だから、情報通信や個人情報保護の知識が必要なんです」
私は続けた。
「それに、政治や経済を知らなければ、制度が人の暮らしにどんな影響を与えるか分からない。文章を正しく読めなければ、相談者が本当に伝えたいことも、役所の通知に書かれた意味も取り違えてしまう」
所長が、静かに頷いた。
「……足切りか」
「はい」
「よくできている」
相馬さんが振り向いた。
「所長、本気ですか?」
「ああ」
所長は湯呑みを机に置いた。
「法律を全部知っている人間がいたとする」
そして、私たちを見た。
「だが、その人間が、世間を知らなかったらどうなる」
誰も答えなかった。
「米の値段が上がったことも知らない。工場が潰れれば何十人もの暮らしが壊れることも知らない。新聞も読まず、人の話も聞かず、法律の本だけを見ている」
所長の声が、少しだけ強くなった。
「そんな人間が、困っている人の前に座って、何を救える」
私は息を呑んだ。
「法律は、社会から切り離されて存在しているわけじゃない」
所長は続けた。
「世の中を知らない法律家は、地図だけ持って道を歩いたことのない案内人と同じだ」
相馬さんが、黙り込んだ。
「……なるほどな」
やがて、ぽつりと言った。
「法律だけで満点でも、社会を知らなきゃ失格ってわけか」
「そうです」
私は頷いた。
「基礎知識の二十四点は、ただの足切りじゃないんです」
それは。
社会に目を向けているか。
目の前の人間を、ちゃんと見ようとしているか。
その問いなのかもしれない。
「もっとも、試験では数字も大事です。百八十点を取っても、基礎知識が二十点なら不合格。逆に三つの基準を満たせば、原則として合格です」
「点数には厳しいくせに、受験資格には制限がないんだろ?」
相馬さんが尋ねた。
「はい。年齢も、学歴も、国籍も問いません」
「へえ……」
「何歳からだって、目指せるんです」
その瞬間、所長が小さく笑った。
「いい試験だな」
「え?」
「過去がどうだったかより、今、何を身につけたかを問う。そういう門は、開いていた方がいい」
私は、その言葉を胸に刻んだ。
日が沈み始めた。
事務所の中に、薄紫色の影が落ちる。
私は、ノートの最後の章を開いた。
『行政書士の未来』
「……所長」
「なんだ」
「実は、もう一つ、お伝えしたいことがあります」
「言ってみろ」
私は深呼吸した。
「未来の行政書士は、もっと強くなります」
相馬さんが首を傾げた。
「強く?」
「はい。今よりずっと、依頼者の前に立てるようになるんです」
私は話し始めた。
昭和六十三年。
この時代の行政書士は、今よりずっと業務の範囲が狭い。
役所に提出する申請書類を作る。
契約書を作る。
内容証明郵便を作る。
事実証明に関する書類を作る。
もちろん、それだけでも大切な仕事だ。
だけど。
役所から不利益な処分を受けようとしている人の代わりに、聴聞の場で正式な代理人として意見を述べることはできない。
許認可の不許可処分を受けた人に代わって、行政不服申立ての代理人になることもできない。
この時代の片桐事務所は、書類を作り、法律上の問題点を明らかにし、依頼者を支えてきた。
必要なら、弁護士へ繋ぐ。
代理権のない領域には踏み込まない。
それが、この時代のルールだった。
でも。
「平成二十年、二〇〇八年です」
私は言った。
「行政書士法が改正されて、行政手続法に基づく聴聞や弁明の機会の付与などについて、代理人として関わることができるようになります」
「……ほう」
所長の目が動いた。
「処分を受けそうな人の代わりに、意見を述べられるのか」
「はい。法律で認められた範囲で、正式な代理人になれるんです」
私は続ける。
「そして平成二十六年、二〇一四年。さらに大きな改正が行われます」
そこで、一度言葉を切った。
「行政不服申立ての代理権です」
沈黙。
相馬さんがゆっくりと顔を上げた。
「……なんだと?」
「行政書士が作成できる官公署提出書類に係る許認可等について、審査請求などの不服申立てを代理できる制度ができるんです」
「それって……」
相馬さんが立ち上がった。
「役所に不許可って言われた依頼者の代わりに、正式に不服を申し立てられるってことか!?」
「そうです。ただし、誰でもできるわけじゃありません」
私は笑った。
「所定の法定研修を修了した『特定行政書士』に限られます。それに、不服申立てなら何でも代理できるわけではなく、業務範囲にも制限があります」
所長の指が、机の上で止まった。
私は続けた。
「もちろん、裁判の代理人になれるわけじゃありません。弁護士さんのお仕事との境界は、未来でも守られています」
それでも。
大きな、大きな進歩だった。
書類を作って終わりではない。
行政手続の中で、依頼者の権利を守る。
処分を受ける前に、主張を伝える。
不許可処分を受けた後にも、法律上認められた範囲で、正式な代理人として救済を求める。
「未来には……そんな行政書士がいるんです」
私は、所長を見つめた。
「片桐所長がずっとやってきたことが、もっと大きな形になるんです」
所長は、何も言わなかった。
しばらくして。
ゆっくりと、窓の外を見た。
「……そうか」
その声は、驚くほど静かだった。
「俺たちが守ってきた看板は、そこまで行くのか」
私は頷いた。
相馬さんが、少し照れくさそうに笑う。
「へっ。代書屋、代書屋って馬鹿にされることもあるのにな」
「相馬さん……」
「俺たちは、書類を書くことしかできねえ場面が多かった」
相馬さんは、机に積まれた書類を見た。
「だがな、こはる」
その目が、真剣になった。
「書類一枚で、人の人生が変わることもあるんだ」
私は知っている。
何度も見てきた。
たった一枚の内容証明郵便。
たった一枚の契約書。
たった一枚の意見書。
それが、泣き寝入りしかないと思っていた人に、次の一歩を踏み出す勇気を与えた。
「俺たちの仕事は、紙を作ることじゃねえ」
相馬さんが言った。
「紙の向こうにいる人間を、見捨てねえことだ」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
所長が口を開いた。
「こはる」
「はい」
「お前が話す未来は、立派だ」
私は、背筋を伸ばした。
「だが、勘違いするな」
「……え?」
「代理権が増えたから、行政書士が立派になったんじゃない」
所長は、机から一通の古びた書類を取り出した。
「その権限を託してもいいと、社会に認められるまで、誰かが信用を積み重ねてきたんだ」
所長は、書類を撫でた。
「名も知られない代書屋たちが、一枚一枚、間違えずに書いてきた」
私は、黙って聞いていた。
「雨の日も、雪の日も、役所へ通った」
「……はい」
「困っている人の話を聞いた」
「はい……」
「できないことは、できないと言った。それでも、自分たちにできることを探した」
所長の声が、ほんの少しだけ震えた。
「その積み重ねが、未来に繋がったんだな」
もう、駄目だった。
涙が、頬を伝った。
「……はい」
私は、何度も頷いた。
「繋がっています」
過去が、未来を作った。
昭和の小さな事務所で積み上げられた信頼が。
まだ見ぬ令和の法律家たちへ、バトンのように受け渡されていく。
「だから、私は……」
声が詰まった。
「私も、そのバトンを受け取りたいです」
所長が、まっすぐ私を見た。
「受け取れ」
短い言葉だった。
「お前なら、できる」
そのときだった。
窓から差し込む夕陽が、不自然なほど強く輝いた。
「……あれ?」
私は目を細めた。
光が、机を照らす。
書類を照らす。
古い六法全書を照らす。
そして、私の身体まで包み始めた。
「おい、こはる!」
相馬さんが立ち上がった。
私は自分の手を見た。
指先が、透けていた。
「……あ」
分かってしまった。
帰るんだ。
私は、元の時代へ。
「所長……相馬さん……」
声が震えた。
「私、たぶん……」
相馬さんが唇を噛んだ。
何も聞かなくても、分かってくれたらしい。
「……そうかよ」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
「やっと帰れるんだな」
私は、泣きながら笑った。
「はい……」
相馬さんが頭を掻いた。
「ったく。最後まで騒がしい後輩だったぜ」
「相馬さんだって、いつも怒鳴ってばかりで……!」
「誰のせいだ!」
いつものやり取り。
それが、たまらなく愛おしかった。
私は、二人に深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました!」
言いたいことは、山ほどあった。
法律のこと。
仕事のこと。
人の優しさのこと。
諦めないこと。
間違いを認めること。
そして。
法律を学ぶ意味を、教えてくれたこと。
「私、絶対に忘れません!」
涙が止まらなかった。
「この事務所で学んだこと、全部……!」
相馬さんが笑った。
「忘れたら承知しねえぞ」
そして、右手を上げた。
「試験、落ちんなよ!」
私は笑った。
「はい!」
「三時間で六十問だろうが、足切りだろうが、全部ぶっ飛ばしてこい!」
「はいっ!」
そして。
片桐所長が、立ち上がった。
所長は、私の前に歩いてくると、静かに一冊の六法全書を差し出した。
使い込まれた、昭和六十三年の六法全書。
「持っていけ」
私は驚いた。
「でも、これ……所長の……」
「未来では、古い法律だろう」
所長は言った。
「だがな」
私の手に、六法全書を重ねた。
「法律が変わっても、変わらないものがある」
私は顔を上げた。
「……何ですか?」
所長は、ほんの少しだけ笑った。
「人を守りたいという気持ちだ」
その瞬間。
光が、視界を埋め尽くした。
「所長!!」
私は叫んだ。
「相馬さん!!」
二人の姿が、遠ざかる。
古びた事務所。
木の机。
夕暮れの窓。
片桐行政書士事務所の看板。
すべてが、光の向こうへ消えていく。
最後に聞こえたのは、所長の声だった。
「行ってこい、こはる」
そして。
「未来の行政書士は、お前たちに任せた」
カチ、カチ、カチ……。
時計の音。
私は、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
蛍光灯。
エアコンの音。
スマートフォンの充電ランプ。
机の上には、現代の六法と行政書士試験の問題集が積まれていた。
「……え?」
私は椅子に座っていた。
開いたままの参考書。
握りしめたシャープペンシル。
机の端には、冷めたコーヒー。
そして、カレンダーには。
『令和8年10月24日』
私は、息を呑んだ。
「……戻ってきた?」
慌ててスマートフォンを手に取る。
画面には、試験までの日数を示す文字があった。
『行政書士試験まで、あと15日』
令和八年十一月八日、日曜日。
午後一時から四時まで。
行政書士試験。
私がずっと目指していた日。
「……夢?」
私は、呟いた。
長い夢だったのだろうか。
昭和六十三年の事務所。
片桐所長。
相馬さん。
あの町の人々。
あれほど鮮明だった顔も、声も、手の温かさも。
全部、夢だったの?
私は、机に視線を落とした。
そこには。
一冊のノートがあった。
分厚く膨らんだ、使い古されたノート。
表紙には、丸っこい文字。
『こはるノート』
「……っ!」
私は震える手で、ページを開いた。
行政手続法。
行政不服審査法。
民法。
商法。
会社法。
戸籍法。
住民基本台帳法。
何百ページにもわたる、手書きの文字。
そして、最後のページに。
見覚えのない、一行が書かれていた。
『法律を学ぶ者よ。紙の向こうにいる人間を忘れるな。――片桐』
私は、ノートを胸に抱きしめた。
「……所長」
ぽろぽろと涙が落ちた。
「……相馬さん」
夢じゃなかった。
あの日々は、本当にあった。
試験勉強が嫌で、逃げ出したくて。
条文を覚えても、翌日には忘れてしまって。
過去問を解けば、間違いだらけで。
模試の点数に、一喜一憂して。
どうしてこんなに苦しい思いをしてまで、勉強しなきゃいけないんだろう。
そう思っていた私。
でも、今なら分かる。
この勉強は、ただ資格を取るためのものじゃない。
誰かを守るための、準備なんだ。
行政法の条文は、理不尽な行政処分に立ち向かうため。
民法の条文は、家族や財産や約束を守るため。
憲法は、誰もが持っている大切な権利を知るため。
商法・会社法は、取引と会社の公正なルールを守るため。
基礎法学は、法律という仕組みそのものを理解するため。
そして、基礎知識は。
法律の外に広がる、人間の社会を知るため。
すべてが繋がっていた。
私は、涙を拭った。
「……よし」
机に向き直る。
参考書を開く。
過去問を一問、解いてみる。
正解。
もう一問。
不正解。
「……あはは」
私は笑った。
やっぱり、間違える。
でも、もう怖くなかった。
解説を読む。
条文を引く。
なぜ間違えたのかを考える。
その先に、いつか出会う誰かの顔を思い浮かべる。
一問ずつ。
一歩ずつ。
それでいい。
三百点満点。
合格基準は百八十点。
法令等で百二十二点。
基礎知識で二十四点。
簡単な試験じゃない。
でも。
「……待っててくださいね」
私は、窓の向こうの空に向かって呟いた。
「絶対に、立派な行政書士になりますから」
そして。
私は、最後のページに新しい一行を書き加えた。
『知識は、誰かを守るために使ってこそ、本当の力になる。』
――最後に。
この物語を、最後まで読んでくださったあなたへ。
まずは、心からお礼を言わせてください。
本当に、本当にありがとうございました!
昭和六十三年の小さな行政書士事務所で始まった、私の物語。
失敗ばかりの私を叱ってくれた相馬さん。
法律の本当の意味を教えてくれた片桐所長。
そして、さまざまな悩みを抱えながらも、懸命に生きていた町の人たち。
そんな私たちの日々を、ここまで見守ってくださったことが、何より嬉しいです。
この物語を通じて、法律が少しでも身近になったり、行政書士という仕事に興味を持っていただけたりしたなら、こんなに幸せなことはありません。
そして、今まさに行政書士試験に挑戦している皆さんへ。
仕事や家事、育児の合間に勉強を続ける大変さ。何度も間違え、覚えたはずの条文を忘れてしまう悔しさ。
私も、よく分かります。
でも、どうか忘れないでください。
あなたが今日覚えた一つの条文が、いつか誰かの人生を救うかもしれません。
法律を学ぶことは、単なる暗記ではありません。
誰かを守るための力を、少しずつ身につけていくことなのです。
片桐所長は、最後にこう教えてくれました。
『法律が変わっても、人を守りたいという気持ちは変わらない』
私は、この言葉を一生忘れません。
そして、皆さんにも覚えていてほしいのです。
そして、試験を受ける方も、そうでない方も。
この物語を読んでくださったすべての皆さんに、改めて感謝を伝えたいです。
数ある物語の中から、私たちの物語を見つけてくれて、ありがとうございます。
一緒に笑ってくれて、ありがとう!。
最後の一ページまで、付き合ってくれて、ありがとう!
皆さんと出会えたことが、私にとって何よりの宝物です。
物語は、ここで終わります。
でも、皆さんの人生は、これからも続いていきます。
どうか、その未来が、笑顔と希望に満ちたものでありますように。
それでは、最後に。
片桐所長と相馬さん、そして私から。
「ここまで読んでくれて、本当にありがとう!」
また、いつか、どこかでお会いしましょう!
――朝比奈こはる
【こはる行政書士見習帖 完】
ここまでお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。
本作はかなりのボリュームになりましたが、最後までお付き合い頂けたこと、心から感謝申し上げます。
法律小説、しかも資格試験を正面から扱う作品は、どうしてもつまらなくなりがちです。けれど本作は、法律にあまりなじみのない方にも純粋に物語を楽しんでいただける、かなり珍しい高水準の本格法律小説に仕上げられたのではないかと、自負しています。
ストーリーは、これにて完結です。そのため、完結フラグを立てさせていただきます。
でも、この作品はここで終わりではありません。
今後は、より上級者の方にも手応えを感じていただけるよう、各話に対応する過去問(総文字数100万字)を追記していく予定です。
こちらは小説投稿以上に時間のかかる作業になる見込みですが、各話への割り振りまで整い切れば、単なる読み物にとどまらず、受験参考書としても実用に耐えるレベルまで持っていけるのではないかと思っています。
完結表示にはなりますが、作品の完成度はまださらに上げていくつもりです。お時間ございましたら是非ブックマークのうえ、今後も折に触れて覗いて頂けますと幸いです。
最後まで本当にありがとうございました。
条文小説




